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第10話

「──は?」


 ものすごく冷たい声に、思わず呼吸が止まった。


 見上げた先で、賢人さんが目を見開いている。優斗が口にした言葉を理解しきれない表情で、母屋の方角に目を向けた。


 ──そこからの行動は早かった。


 全部の発電機をビニールで包んでは大台車に乗せ、崩れそうになるのを必死に支えながら母屋に走る。屋根の下に入るまでにひどく濡れたけど、賢人さんはそれにも構わず玄関を開け放った。


「おはようございます! 武兄さん! 武兄さん、いますか!」


 明らかにあせった声色で叫ぶ。


 しきたりを守らないことがそんなに困ったことなのか、俺には……いや、たぶん優斗にも分かっていなかったんだと思う。とにかく顔を真っ青にして叫ぶ賢人さんを前にして、俺たちはその場に立っていることしかできなかった。


 泥はきれいに掃除されて、応接間と式台の間にある引き戸は閉められている。


 賢人さんは濡れたまま玄関を上がることに遠慮があるのか、唇を噛み、貧乏揺すりをしたまま出迎えを待っていた。


 一秒が数分、数時間にも感じられるような緊迫した表情に、優斗が一歩踏み出す。自分が先に式台を上がることで、賢人さんを出迎える役になろうとしたのかもしれない。


 だけど一足早く、しゅるりと音がして引き戸が開いた。


「世間の荒波に揉まれる社会人様だと大口を叩くわりに、礼儀がなってないな賢人」


 立っていたのは、ものすごく機嫌の悪い顔をした武さんだった。


「大輔くんが声をかけたらしいが、よくものこのこと。この家にお前の居場所はないぞ」

「そん、そんなことはどうでもいいんです! 帰れというなら帰りますから、僕の話を聞いてください!」

「なにを話すつもりかは知らんが、話なら父さんたちが戻ってからにするんだな。今は食事の時間だ。優斗もそこの……なんとかクンも、お前なんかに付き合って食いっぱぐれるところじゃないか。二人はさっさと中に入りなさい。そいつはよそ者だぞ」

「食事なんて、悠長なことを言っている場合じゃ……!」


 さらに食い下がろうとした賢人さんは、次の瞬間、愕然とした顔で立ち尽くした。


「食事?」


 復唱した言葉に、武さんの片眉が上がる。


「いま、食事と言ったんですか、兄さん。まさかもう、なにか食べて」


 言いかけた賢人さんと俺たちは、たぶん同時に武さんの顔や手を見たんだと思う。もちろん食べかすなんかは小さすぎて見つけられなかったけど、奥からコーヒーの匂いがしたことで、賢人さんは疑問の答えを確信したようだった。


 なんてことをと漏れた声に、武さんはますます眉根を寄せる。


「なにをそんな──ああ、なるほど。お前は父さんたちの意向を汲んで、断食のしきたりを破るなとかなんとか、そういうことを言いにきたわけだな。さすがは父さんのお気に入り、父さんにとっての正当後継者というわけだ」


 鼻で笑うような嫌味に、賢人さんは俯いたまままったく反応を示さなかった。それを武さんも不思議に思ったのか、少し首を傾げたように見える。


 優斗もなんて言葉をかければいいのか戸惑っていたから、意を決して小さく手を挙げた。


「部外者ですけど、ちょっといいですか」


 一気に注目が集まる。優斗は驚いたように、武さんはやっぱり不愉快そうに。そして賢人さんは、俺の挙手になんて気づいてもいない様子だった。


「賢人さんと一緒にゲームする約束をしたんです。でも賢人さんがここにいちゃいけないなら──俺が、賢人さんの家に遊びに行くってことでいいですか?」


 この一言で、優斗も賢人さんを滞在させる小芝居を思いついたらしい。


 一瞬だけ嬉しそうな顔をしたあと、取り繕うように怒った顔をして見せた。


「ダメだぞ陸、賢人さんの家はうちより山に近いんだ。あそこは井戸もないし、食糧のストックも一人分だけだって聞いてる。お前は俺のお客さんなんだから、そんな危ないところに行かせられないよ。行くんなら俺も一緒に行く! もちろんじいちゃんたちにバレたら叱られるだろうけど──武おじさんが許可を出してくれたって言えば、まぁ」


「かっ、勝手なことを言うんじゃない!」


 自分に話が飛んできたことに驚いたのか、武さんが慌てて声を上げた。


「土砂崩れに遭うかもしれないような場所に、君らを行かせられるわけがないだろう! なにかあったら、俺が父さんたちに責められることになるんだぞ!」

「でも賢人さんがここに滞在するのも反対なんですよね?」


 口を尖らせてじっと見れば、反論に詰まった様子で苦い顔を見せる。何度かモゴモゴと口を動かしていた武さんは、やがて俺を睨みつけて大きく舌を打った。


「そっちの離れで面倒を見るなら勝手にしろ! ただし、そいつに食糧を分けてやったから困ったことになったなんて泣き言を言いにきても、こっちは関与しないからな!!」


 音を立てて引き戸を閉め切った武さんの様子に、俺と優斗は顔を見合わせて肩を竦めた。


 まだぼんやりし続けている賢人さんを支えるように玄関に上がらせ、そのまま優斗たちの離れに連れて行く。着替え終わって少しくつろいでいたらしい大輔さんたちも、賢人さんの様子を見て驚いたらしい。なにがあったんだと聞かれたものの、俺たちにもよく分からないと正直に答えて、とにかく賢人さんをリビングのソファに座らせた。


 大輔さんと茜さんは玄関土間の発電機を取りに行くついでに、武さんたちにも事情を聞くらしい。聞いたところで分かることがあるとは思えなかったけど、その間に俺たちは少しでも賢人さんと話をしようと、優斗は賢人さんの前にしゃがみ、俺は賢人さんの隣に腰を下ろした。


 照明がないせいでよく見えないけど、どことなく血の気が引いているように思える。


「大おじさんたちの言いつけを守らないのって、そんなに悪いことなの?」


 優斗の一言に、賢人さんの目線が上がる。


「悪いこと──なのかどうか、分からない。むしろ分からないからいけないんだ」


 言葉の意味が分からない。


 だけど頭を抱えて必死に言葉を選んでいるのは分かったから、そのまま黙って、賢人さんが頭の中を整理してくれるのを待つ。


 やがて大きな溜め息を吐き出すと、賢人さんは改めて姿勢を正した。


「うちが座敷わらしの出る家だという話は、陸くんも知ってるんだね?」

「うん。俺、自己紹介で一番最初に話したから」

「……人間関係の掴みに使うとは、強いなぁ優斗。そもそも座敷わらしがどういう存在か、二人はどれくらい知ってる?」


 この質問に、妖怪好きの血が騒いだ。


「住んでる家を金持ちにしたり、その家の人をラッキーにしてくれる妖怪!」

「で、子どもの姿をしてる」

「なるほど、陸くんもおおよその知識はあるんだね。──座敷わらしの性質は確かにそういう認識をされることが多い。主に岩手県を中心に東北地方で目撃例の多い妖怪、または神だと言われている。もしくは、守護霊だ」

「守護霊?」


 霊ってことは、幽霊ってことだろうか。俺の中で守護霊ってのは、特定の誰かの後ろにくっついていて、事故や不幸から守ってくれるってイメージだ。


 家に憑く守護霊なんて、身近にあるオカルト本には書いてなかった。


「座敷わらしの他にも、座敷ぼっこ、蔵わらしなんて呼びかたをしている地域もあるし、一説には河童が家に入ったモノだとも言われている。東北から遠く離れた地域の例だと、香川県にいるオショボという妖怪が座敷わらしと同じ性質を持ってると考えられてるね」


「賢人さん、めちゃくちゃ詳しいですね」

「こう見えて、民俗学者の端くれでね。とはいってもこの家のことがあって入った世界だから、基本的には座敷わらしばかり研究している二流学者だよ」

「雑誌に頼まれて記事書いたりしてるんだぞ」

「え、すっげぇ」


 優斗からの情報に素直に驚くと、賢人さんは困ったような、照れたような顔を見せた。


 だけどその後、また表情が冷える。


「二流なりに調べたんだが、うちの伝承を踏まえて座敷わらしのことを調べると、どうしても他家の伝承とかみ合わないんだ。例えば座敷わらしの多くは家人にいたずらをするけど、うちはそういうことが一切ない。不意に幸運が舞い込むとされるが、うちの場合は願ったことが叶う場合が多いらしい。極めつけは家人の葬儀に関連する、あのしきたりだ」

「飲食禁止のこと?」

「正確には、身内の誰かが家人の死を目撃した瞬間から、火葬の翌日まで断食を貫くこと。摂っていいのは水だけだ。そうしなければ、座敷わらしがほかの家族も殺してしまうという戒めだね」


 改めて聞くと物騒な伝承だ。やっぱりこんな座敷わらしの話、聞いたことがない。


 考え込んでいる俺の顔を見た賢人さんは、またゆっくりと頭を抱えた。


「普段は益をもたらすが、ある条件下では甚大な不利益をもたらす存在は──憑物だよ」

「憑物?」

「犬神や蛇神に代表される、人間や家に憑依する霊のことだよ。家に憑いた憑物は、家人に使役されている使い魔のようなものでもあるんだ」

「使い魔、ですか? なんかファンタジーっぽくて、現実感が」


「その通り、まさにファンタジーな話だよ。現実感がないのも無理はないけど、日本には古来より、こういった話が各地に伝わってるんだ。──憑物は家系に憑いていることが多い。家人が憑物に願うと、それを聞き入れてよその家から家財を盗んだり、家人が憎んだ相手に憑いて呪い殺したりもする」


 本当なら怖い話だ。


 だけど今の世の中、お金が盗まれたり、人が死んだって、まさか呪いのせいだと思う人はいないだろう。誰にも知られずに欲しいものが手に入って、嫌なやつを殺すことができるなんて、一度慣れてしまったらものすごく便利なのかもしれない。


 ふと、以前母さんから聞いた話を思い出す。


 欲しいと思ったものなら懸賞の景品でも、他人の恋人でも手に入ってしまう家だと言っていた。もし本当にこの三科家がそういう家系なら、この話もあながち嘘じゃないのかもしれない。


 だとしたら優斗も、座敷わらしに頼んでなにかを手に入れたり、誰かを呪ったりしたことがあるんだろうか。


 ──いや、大おばさんたちは優斗にはご加護が薄いとか言っていた。


 普段から優斗は常人並、いやそれ以下の運しか持っていないんだ。アイドルのコンサートは全敗、ゲームのガチャも毎回壊滅的なのを、俺は身近で見てきている。


 なにより優斗はいい奴だし、そんなことをするわけない。


 浮かんだ疑問を振り払い、賢人さんの話に集中することにした。


「ただし憑物は便利なだけじゃない」

「財産増やしてくれるのに、ですか?」

「だからこそ、とでも言うのかな。デメリットがあることも分かってる」

「デメリット」


「例えばヒンナ神という憑物は人造できるし、つねに用事を催促してくるほど働く憑物だけど、家人は死ぬときに非常に苦しむことになり、死んでからも離れず、ヒンナ神に憑かれていた者は地獄に落ちると言われている。それに犬神筋の家系でも、憑いた犬神と主人の相性が悪ければ噛み殺されることがあるとされててね。少なくとも憑物と交わした約束を破るのは、命がけのことなんだよ」


「じゃあ」


 賢人さんの言葉に被さるように、震えた声がした。


「じゃあ武おじさんたちが物を食べてたら、本当に俺たち危ないの?」

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