車が停められたのは、三科本家から考えればずいぶんと小さい洋風の家だった。
横に長い平屋で、イメージとしては、洋画によく出てくる平屋のトレーラーハウスだ。なんとなく日本の山の中にあるのは違和感がある。
ログハウスを彷彿とさせる内装だけど、足の踏み場がないほど本や新聞が散乱している。
扉を開けたとたん視界を埋めた状態に、思わず目を見開いたまま硬直していると、賢人さんもそれに気づいたのかバツが悪そうに頭を掻いた。
「汚い家で申し訳ない……。あ、ソファと椅子には一人分ずつ座れるスペースがあると思うから、そのへんにいてくれるかな」
隣を見ると、優斗もまったく同じ表情で立っていた。
家庭環境的に、賢人さんの家に個人的に遊びに来るなんてできかったんだろう。それでも優斗が賢人さんを慕っていたり、尊敬しているのは言動からも分かりきっていた。
憧れの人の実生活がこれじゃ、ショックを受けて当たり前かもしれない。
爪先で本の間を縫って歩き、指定された椅子とソファにそれぞれ腰を下ろすと、賢人さんもようやく一息ついた様子で本に向き直った。
「ここにある本の中からどれを資料として持って行くかなんだけど。つい先日、町役場から地域の郷土史を借りてきたのに、まだ読めてないんだよ。それは確実に必要として……他地方での座敷わらしの話が載っている本もいくつか持っていこうか。あとは色々と書き出して整理したいから、ノートとペン類はいるかな。ほかには──」
あれこれと独り言をしながら本を拾い上げていく賢人さんの姿に、俺も辺りを見回す。
もちろん本の内容は分からなかったけど、一人が慌ただしくしている中で、なにもしないのはちょっと悪い気がした。
「優斗、どれか読んだことある?」
「いや……俺もあんまり、こういうむずかしそうな本を読むタイプじゃないからなぁ。そもそもほら、表紙に書いてある漢字が読めるかもアヤシイだろ?」
指さされたのは、妙に画数が多い漢字のタイトルだった。
「耳……耳、なんだろ」
「……耳くそ……?」
「いやいや、絶対違うじゃん」
当てる気もない回答に、俺たちは声は抑えながらもケラケラと笑い合う。そこにひょいと、大きな頭が覗き込んだ。
「ああ、耳ブクロを見てたのか」
賢人さんは、これもいい本だと目を細めていた。
「フクロ? フクロって袋ですか?」
「そうそう。まぁちょっと見慣れない漢字かもしれないね」
抱えていた本を一度置いて、耳袋という本をパラパラとめくる。物語以外の本に慣れていない俺にはあまり魅力的に見えないけど、賢人さんにはそうじゃないらしい。
目を縦に走らせながら時々おかしそうに笑う賢人さんが、とても大人っぽく見えた。
「江戸時代に書かれた本でね、いろんな人から聞いためずらしいお話が書き留められたものなんだ。興味があるようなら、現代語訳されたものを今度貸してあげるよ」
「あ、いえそこまでは」
貸してもらってもたぶん、読まない気がする。
慌てて遠慮すると、それも分かっていたように賢人さんは声を上げて笑った。なんというか、居心地が悪くなるタイプの冗談は苦手だ。ほんの少し大おじさんを思い出した。
とはいっても、賢人さんは確か大おじさんとは血が繋がってないはずだ。似ているというのも、もしかしたら失礼になるのかもしれない。
そういえばと、俺は家の中を見回した。
「三科の家で見なかったけど──賢人さんのお母さんはここに住んでるんですか?」
「え、うちの母かい?」
予想外の質問だったようで、賢人さんは大きく瞬いた。
だけど、そんなに驚かれるようなことを言った覚えも俺にはない。賢人さんは大おじさんの再婚相手が連れていた子だと聞いたけど、その再婚相手本人を、あっちの家では一度も見てはいなかったからだ。
本家跡取り──いや、今となっては当主そのものとしてふんぞり返っている武さんの家族は、奥さんの実家に帰省しているらしいから、目にしていなくて当たり前だ。
ほとんど話してすらいないけど、大おばさんの息子さん──孝太さんは、独身だと思う。
そうなると、会っていてもおかしくないのに会っていない三科家の人は、賢人さんのお母さん一人だ。
大おじさんの奥さんが本家にいないのは、実はちょっと気になり続けていた。
「うちの母かぁ。いや、籍は三科家にあるんだけどね。やはり姉兄たちのことを気にして、街中で一人暮らしをしてるんだ」
「賢人さんだけじゃなくて、お母さんにまでひどいことを言ったりするんですか?」
「直接言ったりしたことはなかったと思うよ。そんなこと、義父が許さなかったからね。母が気にしただけなんだけど」
歯切れ悪く、賢人さんは困ったように低く唸る。
「……正直言えば、兄たちが僕ら親子を嫌う気持ちも分からなくはない。義父はそれくらい、あちらの家庭にひどい仕打ちをしたからね。優斗も詳しくは知らないんだっけ」
賢人さんの問いに、優斗も静かに頷いた。それを受けて、賢人さんは近くに積まれていた本の山に腰を下ろす。
「そもそもの話、義父と母は学生時代から付き合っていたらしい。戦後の混乱や学生運動なんかが盛んな時期も過ぎて、それなりに平和な時期だったそうだよ。三科家の権力も、戦中のあれこれでずいぶんと下火になっていたと聞いてる。ただ、それでも地域にはまだそれなりに力を持っていて、三科家に嫁ぐのは、一種のステータスだったそうだ」
「それなら、そのまま結婚してもよかったんじゃ……?」
「うん、僕もそう思う。だけどなにか不都合があったのか、そうはならなかったんだよ」
賢人さんが手を伸ばして取り出したのは、古びたアルバムだ。大おじさんの面影がある若い男の人と、控えめな雰囲気の綺麗な女の人の写真が貼られていた。
「ケンカもしたことがなかったそうだよ。母は控えめな人だけどそれが理由じゃなくて、でこぼこがピッタリはまる関係だったらしい。義父の言葉が不条理でも母は納得できたし、母が諭す常識も、義父は不思議と反発心なく受け入れられた」
あの大おじさんが反論せずに諭される相手というわけだ。柔よく剛を制すというけど、そんな感じなんだろう。無事に救助されたら、一度会ってみたい。
優斗は会ったことあるんだろうか?
「なあ、どんな人?」
「え? ああ、実は俺もあまり会ったことないんだよ。会ったのは一回だけ、かな。大おじさん主催の花見に来てたんだ。ゆったりした優しい人だったよ」
「一回? じゃあ大おじさんが会いに行ってたのか?」
「いや、大おじさんはほとんど家から出たことがないんだよ」
「恋愛で結婚した夫婦とは思えない距離感だなぁ」
夫婦って、毎日一緒に暮らしてるもんだと思ってた。
もちろんいろんな夫婦がいるとは思うけど──そんなに長い間会わずにいて、それでも夫婦でいることって、できるんだろうか。
「三科家からの反対があったと母から聞いたよ。しかも反対するだけじゃなく、母の結婚相手を世話されて、しかも社会的にはそっちの方がいい家柄だったから、家族が強引に話をまとめてしまったそうだ。そこまでして二人の結婚に反対した理由は義父も分からないらしいんだけど──義父は、欲しいものはなんでも手に入って当然だと思っていた人だからね。しばらく暴れ回ったらしい。そこで一族から推薦された結婚相手が、義父の前妻だ」
武さんたちのお母さんのことだ。
「三科家は昔ながらの気質のせいで、今になっても男尊女卑、家父長制度が色濃く残ってる。知ってのとおり、兄さんが生まれるまでは続けざまに女の子ばかりだったんだ。そのせいで、前の奥さんは酷くいじめられたらしい。長男の嫁のクセに女腹だとね」
女腹は、昨日聞いたばかりの言葉だ。
武さんが帰省中の奥さんを指して、吐き捨てるように言っていたんだ。女の子ばかり産む母親のことなんだろう。
大おじさんはあんなことを、自分の奥さんに面と向かって言っていたんだろうか。だとしたらひどい関係だ。三人も子どもを作ったなら、少しくらい愛情を持っているだろうに。
それとも賢人さんのお母さん以外、好きになれなかったんだろうか。
「女の子しか生まなかったから離婚したんですか? でも」
「そう、兄さんが生まれた。跡継ぎ問題も解消して、ようやく仲の良い家族として暮らすことができると思っていた二年後。すでに思春期を迎えていた姉さんたちにとって悪夢のような知らせが届いた」
「悪夢って?」
疑問に肩を竦め、賢人さんはわざと戯けてみせた。
「うちの母が離婚したんだ」
「え、てことはまさか」
俺が言おうとした言葉を、一瞬早く言葉にしたのは優斗だ。
そして賢人さんは、そのまさかを否定しない。
「そう。母と結婚するために、奥さんとの離婚をものすごい速度で進めていった」
「でもそもそも、お母さんとの結婚は反対されてたんですよね? お互いバツイチになったからって、許されるもんなんですか……?」
「それが許されちゃったんだよ。強く反対してたのは当時のご当主だったらしいんだけど、その頃には亡くなっててね。反対理由もよく分からないし、もういいんじゃないかって」
「そんな適当な……」
本当に、心からそう思った。反対していた理由は誰も聞かなかったのか? いくらなんでも奥さん──亡くなった優斗のひいおばあさんくらいはと思ったけど、男尊女卑が強い家父長制度の家だ。当時の当主が口を閉ざしてしまえば、大おじさんどころかきっとひいおばあさんだって、教えてはもらえなかったんだろう。
理由を気にすることすら許されなかったかもしれない。
「……うちの家がかなり世間からズレてるのは分かってたけど、ひどすぎるよ。前の奥さんは離婚に反対したりしなかったの?」
「もちろんしたそうだ。けど君たちに聞かせるには品のない話になってしまうんだが……女腹が、同じ種と同じ腹で男を産めるわけがない。別の種を仕込んだんだろうって疑いをかけたらしくてね。それで、むしろあちらから離婚届を突きつけられたそうだ」
ここまで来ると、さすがに呆れて物も言えなかった。愛想を尽かされたなんてもんじゃない。もう関わりたくもないと思わされるくらいのひどさだ。
大おじさん自身が浮気をし続けていたようなものなのに、よくそんなことを言えたもんだと思う。桜さんたちがその頃思春期だったっていうんなら、そりゃあものすごい嫌悪感を抱いたはずだ。
「大人になってから考えれば──例えそれが本当だったとしても、二年も経ってから言うようなことじゃないと思うんだけどね」
「まったくだよ」
優斗の同意に、賢人さんも苦笑しか返せない。
「それでも武兄さんが小学校を卒業するまでは表面上、結婚生活を続けたんだよ。……でもそれまでだ。前の奥さんはそりゃもう三科家を罵倒して出て行ったらしい。それが、僕と母さんが迎え入れられる直前の出来事だよ」
話が終わったあと、俺と優斗の口をついたのは長い長いため息だった。
そりゃ居心地が悪いはずだ。俺がもしその立場だったとしたら、申し訳なさで肩身が狭いどころの話じゃない。
もっともうちの母さんは思ったことをそのまま口に出す人だから、そんな扱いをされたら間違いなくその場でキレるだろうけど。
賢人さんのお母さんとしては、三科家の目の届く範囲に暮らしたくはないはずだ。それでも大おじさんのことが好きだから、籍だけは入れたんだろう。──そのあたりのことは、俺にはまだむずかしい。
「さ、無駄話で長居させてしまったね。必要な本はあらかたピックアップしたから、そろそろ本家に戻ろう。あんまりダラダラやると、問答無用で蹴り出されるらしいからね」
ウインクした賢人さんの言葉に、苦笑だけ返して車に乗り込む。雨は激しくはないものの降り続き、白く煙った山肌にはいくつもの川が生まれていた。
さすがに腹が減って疲れた俺は、戻ったらこっそりなにか食べようと、この時まで思っていたんだ。