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第16話

 武さんの言葉に驚いた孝太さんが、少し戸惑ったあと襖を叩いた。


「桜、桜! そっちに、お前たち以外の誰かがいるのか!?」

「えぇ? なぁに孝太さん、そんなのいるわけないでしょ」


 あちら側でも周囲を確認してくれたけど、当然、誰もいないようだ。


 そりゃそうだ、裸で体を拭いている女性四人の中に、急に救助の人がまざってるわけがない。それに俺にも、なにも聞こえてはいなかった。


 しかしそれでも、武さんは譲らない。


「嘘だ! ほら、はっきり声がするじゃないか! 来たよ来たよと歌って……歌ってるだろう!? なんで聞こえないんだ! 聞こえるだろう!!」


 バタバタと襖に駆け寄った武さんが、もがくように手をかける。


「おい、なにしてる! まだあっちは着替えを……!」

「うるさい!! みんなして俺を担ごうとしてるんだろ!? 俺を当主だと認めていないからそんな馬鹿にした態度を続けられるんだ!!」


 止めようとした孝太さんを払い除け、大きな音を立てて襖が開かれる。着替え真っ最中の女性陣からは悲鳴が上がったけど、武さんは無視して部屋の中を見回していた。


「どこだ、どこにいる!? 隠してるんだろう!」

「ちょっと、武……?」

「聞こえてるだろ!? なぁほら、こんなにはっきり聞こえてるじゃないか! どこだ、どこから聞こえてるんだ!?」



 全員が、武さんを遠巻きに見ていた。



 声なんてどこからも聞こえていない。当然、人影もない。


 なのにこの時の武さんは、狂ったように母屋の中を探し回った。


 玄関だけでなく押し入れの中、家具の下、裏、果ては天井裏まで確認する様子は、とてもじゃないけど普通じゃなかったと思う。


 茜さんたちは慌ててタオルと服を掻き集めて体を隠し、俺たちの後ろに退避した。全裸の時にあんな状態の人の近くにいたら、心許なくて仕方ないと思う。武さんの味方だった葵さん、楓さんも、この時ばかりは孝太さんを頼りにしたらしかった。


 かといって、孝太さんだって平然としていたわけじゃない。


「なに、なにをしてるんだ武。誰もいないし、なんにも聞こえないじゃないか」


 まるで山から下りてきた猿を相手にするように、孝太さんは震えた声で近寄った。


「落ち着いてくれ、落ち着くんだ武。さっきまで辛く当たってしまっていたのはその、こちらも大人げなかったと思う。お前も精神的に追い詰められて……そうだ、追い詰められていたことに気づかなかった。だから少し落ち着いて……うん、水でも飲んで落ち着こう。いつもの俺たちに戻ろうじゃないか」


 武さんの肩を抱き、落ち着かせようとさする。それでも血走った目で忙しなく周囲を見回す武さんを、今度は大輔さんがそっと目隠しした。


 孝太さんが目で賢人さんを呼び、賢人さんが俺たちを連れて玄関ホールに移動すると、優斗が即座に襖を閉めて、寝室とは逆側の和室を茜さんたちの着替えスペースにできた。


 大きな音を立てないように、武さんを興奮させないように、全員が慎重にならざるを得なかった。どう考えても、武さんがストレスに耐えられずおかしくなったと思ったからだ。


「嘘だろう? 本当に聞こえてないのか? だって、なぁ、まだ聞こえてるじゃないか、笑ってるだろ、ほらぁ!!」


 大人なのに、駄々をこねる子どもみたいな仕草だった。


 ──正直言うと、とても気持ちが悪い光景だったと、ここにだけ書いておく。さすがに優斗には言えない。直前に孝太さんのことで悲しい顔をさせてしまったし、これはあれ以上に直接的に、武さんを侮辱する言葉だと自覚しているからだ。


 この家の大人たちはみんな、甘やかされたまま大人になったんだろう。働かない、家族以外と協力関係を取ることもない、不安があっても家族が助けて慰めてくれる。それ以外にどんなものも必要としていないことが、なにより気持ち悪かった。


「なあ、優斗」

「ん?」

「……高校入ったら、一緒にバイトしよう。稼いだ金で、いろいろ遊びに行ったりさ」


 優斗をそんな大人には、させたくなかった。それをうまく伝えられたか分からないけど、優斗がそうだなって笑ってくれたことに、少し安心していた。


 やがて大輔さんが、口パクと目配せで外を指す。なにを意味しているのか俺には分からなかったが、優斗は察したらしい。自分と俺の服を交互に指さしたあと、さらに外を指さして、服を脱ぎ始めた。


 今の内に体を洗ってこいということだ。あまり見ていたい光景じゃなかったし、俺もそそくさと服を脱ぎ捨てた。


 とはいえ、裸で家の外に出る背徳感はなかなかのものだ。誰もいないとは分かってるけど、なんとなくハラハラしてしまう。


「絶対ないけど、いま通報されたら言い訳のしようがないよなぁ」

「馬鹿、やめろって」


 玄関の内側で繰り広げられていた異常な光景を忘れたくて、頭に浮かんだことをそのまま呟く。すると優斗も同じことを考えていたらしく、震えるように笑っていた。


 玄関ホールにいる武さんを刺激しないように、笑うのも気を遣う。


 シャワールームはもちろんすごくサバイバルな出来映えだったけど、充分個室感がある上に、ボディソープやシャンプーも室外機や園芸棚に置かれていた。思っていた何十倍も快適で驚いたくらいだ。


 母屋に戻った俺たちは、下着やパジャマも持ってきていないことに気付いて、優斗の自宅に取りに行くことになった。それすら俺にはありがたい。


 ほんの少し、ほんの少しの休息だ。やっぱり優斗と二人のほうが、ゆっくりできる。


 優斗の自宅に入った途端、つい大きく深呼吸した俺の内心に、優斗が気づいた。


「俺たちだけでもこっちで寝させてもらえないか、頼んでみようか?」

「いや、いいよいいよ、大丈夫。余計なこと言って、またなんか起こっても嫌だしさ」

「……武おじさんのことも、なんかごめんな」

「優斗のせいじゃないだろ」


 笑って言ったが、これは本心だ。武さんが急におかしなことを言いだしたのは優斗のせいじゃないし、母屋に戻ると決めたのも、優斗のせいじゃない。


 もし俺たちがここで寝ている間にまた誰かが死んだりしたら、優斗がなにか食べたと思われるかもしれないからだ。もしそうなったら、俺が食べたり勧めたせいだと思われるかもしれない。──結局は俺の保身だ。


 俺は着替えた後、翌日の着替えと筆記用具、それにこの日記を持って外に出ようとした。


 その時。


「なあ、陸は家に連絡しなくていいのか? 被災してから一回も連絡入れてないだろ? スマホは使えるんだし、無事なことを知らせたほうが……」


 自分でも驚いたんだけど、俺は指摘されるまで一度も、家のことを気にしていなかった。


 不安がなかったんだろうか。それとも、考える暇もなかったのか。いや、そんな単純な話じゃなくて完全に──自分の家があることを忘れてしまっていたんだと思う。


 このことに、俺はとても動揺した。


「あ……そう、だな。ここで長居するのもあれだし、スマホも持っていって、あっちで電話させてもらうよ」


「うん、それがいいと思う」


 優斗はそうとも知らず、ニコニコ笑って母屋への扉を開いた。


 怖かった。


 なんだかこの家が、俺を逃がさないために頭の中を操作してるんじゃないかと思えた。


 そんなことあるわけないと振り払っても、いや分からないと、頭の中で別の俺が否定する。だってここは座敷わらしなんていう、そもそも現実的じゃないものがいる家だから。俺に理解できない、現実に有り得ないことが起こったって、きっと不思議じゃない。



 なのに家に逃げて帰りたいと思えないことも、怖かった。



 母屋に戻ると、女性陣はすっかり寝る支度を整えて、布団の上でなにやら話をしていた。


 武さんの様子がおかしいことや、当主を任せるには不安があるかもしれないこと。だけど男系出身ではない孝太さんに当主を任せるのも不安なこと。残るは大輔さんだけど、気が弱くて任せにくいことなんかを話し合っているようだった。


 俺たちが戻って来たのを見て、茜さんは取りつくろったように笑う。


「二人も、もう布団に入りましょう。起きてたってお腹が減るだけだもの」

「賢人さんは外? 父さんたちは?」

「……今、二人がかりで武さんを洗ってあげてる。まだなにか聞こえてるらしいの。ひどく怯えててね」

「最初は歌で、次が笑い声。さっきは……なにが聞こえるって言ってたかしらぁ?」

「なんか囁いてくるとかどうとか言ってたじゃない。耳元でヒソヒソ、あとちょっとあとちょっとって聞こえてるらしいわ」


 うんざりした様子の葵さんに答えたのは楓さんだ。武さんの、実の弟のことなのに、まるで吐き捨てるように笑ったのが残酷で印象的だった。


「すみません、俺は少し、家族に電話を……」

「ええ、もちろん! 私たちに聞かれるのは恥ずかしいでしょうし、ゆっくり話してきても平気よ」


 別に甘えたり泣き言を言ったりするつもりはなかったけど、茜さんの気遣いはありがたく受け取った。荷物を適当な布団の枕元に置いた後、俺はぺこりと頭を下げて、母屋用のトイレ付近に向かった。


 母さんに電話するだけなのに、妙に緊張する。


 一回目のコール。呼吸が浅い。


 二回目のコール。息を呑む。


 三回目のコール。目を閉じ、唇を舐めたら。


「陸? どうしたの?」


 母さんの声が、した。


「あ……っ、母さんごめん、連絡遅くなって。俺、ちゃんと無事だから心配とか」

「心配? ──ああ、雨のこと?」

「……うん」

「やだ、心配なんてしてなかったわ、だって三科のお家は座敷わらしがいるんだもの」


 笑い飛ばした母さんの声が耳に残っている。


 心配、していなかったのか。


 どう書けばいいのか、今もまだよく分かっていない。母さんに甘える気なんてなかった。なかったのに。──とても寂しかった。


 食事を食べられていないと伝えたかったけど、言葉が出ない。


「それより、大輔くんにはたくさん遊んでもらっている?」

「へ? ……ああ、大輔、さん? なんで?」

「やぁね、なんでって聞くようなこと? 優斗くんのパパでしょ?」

「そうだけど……前から知り合いだったの? 俺今まで、母さんの口から大輔さんの名前なんて聞いたこと」

「んっふふ。アンタが産まれる前に、ちょっと仲良くしてただけよ」


 仲良く?


 仲良くしていたなら、母さんはなんであんな顔で三科の家のことを話したの。


 大輔さんはなんで、俺の苗字が稲本だって聞いた途端、あんな顔をしたの。


「ねえ母さん、俺、この家」

「迷惑かけないようにするのよ。あと、ちゃんと宿題もするようにね。こっちのことは心配しなくていいから、いっぱいそちらで甘えさせてもらいなさい。お父さんにも陸が元気だったってちゃんと伝えておくから」

「ねえ、母さんってば……っ!」


 俺の声なんて聞こえていないように、通話が切れた。


 ──放り出された気分だった。


 布団が敷かれている部屋に戻ると誰かに声をかけられたけど、それが誰の声だったかも覚えていない。いつの間にか賢人さんや武さんたちがシャワーから戻っていて、俺は……現実逃避するように、日記を書き続けていた。


 俺が家のことを忘れていたみたいに、母さんも俺のことを忘れてたんだろうか。だから心配なんてしなかったんだろうか。


 いや、それはきっと違う。違うと、思いたい。


 それに、大輔さんと母さんのことも気になる。母さんは仲良くしていたと言っていたけど、大輔さんは母さんが苦手だったように見えた。


 ここで、ふと考える。


 俺は大輔さんが母さんを知ったのは学生の頃じゃないかと思ってたけど、違うんじゃないだろうか。


 だって大輔さんは母さんの旧姓じゃなく、今の苗字で反応したんだから。

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