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第21話

「……やろうか」

「はい」


 畳を持ち上げると、じっとりと重かった。濁った汁がボタボタと床材に落ちる。


 したたっているのは、三人の体だったものだ。


 畳を持つ手が震える。


「これじゃ、運んでる間の動線も汚してしまうな……。倉庫にブルーシートがあったはずだから取ってくるよ、待っててくれ」

「は、はい」


 一度畳を置き直して倉庫へ向かった賢人さんを見送り、汚れたゴム手袋じゃ鼻を塞ぐこともできず、できるだけ息を止める。本当にひどい臭いだった。


 立っているだけで気分が悪くなる悪臭なのに、優斗は脇目も振らず祭壇の前で手を合わせている。充分汚れている畳に正座し、祭壇を詳しく探すことを謝っているようだった。


 こんな目に遭っても、いや、こんな目に遭ってるからこそ、礼儀を大事にしている。


 やがて供えられていたオモチャや果物が、捧げ持つように降ろされていく。大量のそれが祭壇から降りるたび、隠れていた戸棚や引き戸が確認できるようになっていった。


「ここには普段、線香やマッチが入ってるんだ。こっちはお経みたいなやつ。ここは……そうだ、正月とかに使うお膳だな。でも──こんなに、俺の知らない収納があったんだ」


 祭壇の形そのものを目の当たりにしただけなのに、優斗は青ざめた顔をしていた。神様にバチ当たりなことをしてる感覚なんだろう。


「遅くなったね、ごめんよ。大きなブルーシートがあったから、これに何枚か乗せて一気に運んでしまおう」


 急いで帰ってきたらしい賢人さんがバサリと広げたブルーシートに、ぐずぐずの畳を重ねていく。なんだか、最初に持ち上げたときよりも重さが増して、畳そのものも柔らかくなっているような気がした。


 畳を持つ手に力を入れすぎると崩れそうで、ものすごく怖かったのを覚えている。


 あの部屋そのものが、俺にとって恐怖の対象だった。


「優斗、祭壇の右下から左下の順に確認していこうか。もし僕が畳を運んでいる間に見たことがないものが出てきたら、一旦保留して別の箇所を確認してほしい。いいかい?」

「うん」

「よし。じゃあ陸くん、さっさとこれを運んでしまおう。床板も雑巾か新聞で拭いて消臭剤を撒けば、この部屋も少しはマシになるはずだ」


 優斗を残して部屋を出ることに抵抗はあったものの、ブルーシートに乗せに乗せた畳はかなり重く、引きずるにしても賢人さん一人じゃとても外に運べない。申し訳なく思いながらも部屋を出た俺は、視界の端に誰かが立っているのを見た。


 少しだけうつむいて、俺と賢人さんを追うように顔を動かしたと思う。


 そんな人を、見たと思った。


「どうかしたかい、陸くん」

「え? いや、今──」


 見返したときには誰もいなかった。


「あれ……?」

「……寝不足なのに、こんなことに付き合わせてしまってごめんよ」


 俺の挙動不審な行動を、賢人さんは寝ぼけたせいだと思ったらしい。


 本当にそうだろうか。


 昨日は確かに寝不足だった。腹が減っていつもより長くこれを書いていたはずだし、寝落ちたあともあの騒動だ。俺が気づいていないだけで、体は限界まで疲れていたと思う。


 例えそうじゃなかったとしても、俺はそう思い込むことにした。


 もうここに残っているのはたった七人だ。そのうち二人は倉庫で火葬の最中、茜さんたちはきっと部屋から出ていない。つまりわざわざ祭壇のある部屋の入り口に、たった一人で立っているような人、いるわけがないんだ。


 勢いよく頭を振って、少しでも頭を冴えさせようと大きく息を吸い込む。あまりの汚臭に空っぽの腹の底がせり上がる気がしたが、狙い通り目は覚めた。


 ──畳を外に出した頃には鼻がおかしくなって、少し呼吸ができるようになっていた。


 ドス黒い液体で汚れたレインコートとゴム手袋も脱ぎ捨てて、祭壇の部屋に急いで戻る。動線にも残り香があったけど、耐えられないほどじゃなかった。


「優斗、なにか収穫は──」


 戻った俺たちが見たのは、引き戸に手をかけるたび手を合わせている優斗の姿だった。


「優斗?」

「あ、ごめん。……なんか、恨みながら死んだ人だって聞いたからさ。墓を埋めた上に、祭壇までグチャグチャにするのが申し訳なくて……。他にやりようがないから仕方ないけど、せめてきちんと謝りながらやろうと思ってさ」


 これを見たとき俺は正直、潔癖だなぁと思った。


 そこまでしなくてもいいだろって思ったんだ。お供えを降ろしていくときにも長く手を合わせていたんだし、調べるときまで手を合わせるなんて、大げさすぎるだろって。


 でもこれを書いてて思う。それだけ優斗は、座敷わらしが怖かったんだろう。それは責められることじゃないと、今なら分かる。


 ここから俺は、ほとんど蚊帳の外だった。


 とはいっても、なにもせずいたわけじゃない。戻るときに持ってきた新聞紙や雑巾で床板を拭いて、それが終われば供え物や線香立てなんかの道具もキレイに掃除していく。


 よく考えれば、祭壇に線香立てなんて普通置かない。元々は仏壇のつもりで作られたのかもしれない。


 祭壇から取り出されたのは、ほとんどが古い道具だ。なにをどう使うのかも分からないけど、じゃらじゃら鈴がついた棒やお皿、花瓶みたいなもの、その他いろいろだ。捨てられず溜まっていったものが多く見える。


 最後に残ったのが、最上段に飾られた鏡だ。鏡は神社のご神体だと聞いたことがある。


 優斗が真面目な顔で、また両手を合わせた。


「今からキレイにします。少しだけ血縁外の人間に預けますが、許してください」


 そう言って、今までで一番慎重に、鏡を手にした。


 ──キレイに磨き上げられてるはずなのに、ぼんやりと曇って見える。古い鏡だからだろうか、どこがとは言えないけど黒ずんでいるように感じた。


 優斗越しにじっと、鏡を覗きこんでみる。



 俺の後ろに、なにかいたように見えた。



「……っ!?」


 慌てて背後を見た。だけどなにもいない。


 ただ首の後ろに一つずつ、プツプツと鳥肌が立っていくのを感じた。


 さっき見た人だと、直感した。詳しくどんな人だったかは分からない。黒髪だったこと、俺たちくらいの背丈だったことくらいしか覚えていなかった。


 それでも確かに、俺は見た。


 部屋を出て行く俺たちをじっと見ていたあの人を。


 俺の背中にピッタリ貼り付くように、俯いたまま立っていたあの人を。


 振り返ったまま、呼吸が上がっていく。俺は三科家にとって部外者だ。だから祟りに遭うはずがない。賢人さんだってそうだ。


 なのに、なんであの人は俺たちを見てたんだろう。


「陸?」

「あ……。いや、なんでも、ない」


 優斗は俺に鏡を渡そうとしていた。──正直、受け取りたくない。床に置いてしまえばいいのにと思ったけど、座敷わらしのご神体だ。足元に置くなんてことできないんだろう。


 それに賢人さんに祭壇のものを触らせないと宣言した以上、鏡を持てるのは俺だけだ。


 恐る恐る、手を伸ばす。


 鏡の表面を見ないように目をそらして、それでも間違って落としたりしないようにチラチラと確認しながら鏡に触れた。


 当たり前だけど冷たい。思っていたより、重かった。


 落とせば割れてしまう物だ。気味は悪かったけど、少しだけ力を入れて持つことにした。


 肩から指先にかけて、かゆいようなしびれたような、そんな不思議な感覚になっていく。


「優斗、そこ、両開きになってるね」


 賢人さんの言葉に祭壇を見ると、確かに鏡のあった場所は両開きの扉になっていた。ただししっかりと針金で封印されている。


「これ、手で外すのは危なくないかな」

「そうだな、工具はあるかい? ニッパーがあればそれで切ろう」

「大おじさんの部屋に小さい工具箱があったと思う。機械いじりが趣味だったから、昔よくオモチャを直してもらったんだ」

「……ああ、そうか、そうだね。僕も養父さんによく直してもらった」


 賢人さんは少し、泣きそうな顔をした。


 武さんたちからいじめられる原因になった相手でも、やっぱり賢人さんにとっては父親だったんだろうか。


「修理工じゃないのが不思議なくらい器用な人でね、工具はいい物を揃えてたんだ。きっと手入れも行き届いてるはずだよ。優斗、すまないが探してもらえるかな」

「うん、大丈夫。すぐ見つかるよ」


 戸棚の上部にあるガラス戸を開けると、それはすぐ見つかったようだ。本当によく使ってたんだろう。開けた工具箱の中身も、賢人さんが言った通り新品同様だった。


「切るとき、破片が散るかも知れないから本当に気をつけて。もし鋭い痛みを感じたら、すぐその箇所を消毒すること。いいね」


 忠告に、優斗はしっかりと頷く。ニッパーで針金を挟み、少し顔をそらして力を入れた。


 バチンと音を立て、針金が切れる。いや、よく見るとその衝撃が元になったのか、針金はバラバラと祭壇の上に砕けていた。


 少しの沈黙が落ちたあと、優斗の指が取っ手にかかる。


「──じゃあ、開けるよ」

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