目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第22話

 ぽこっと音がして、呆気ないほど簡単に扉が開いた。


 だけどまずは、少しだけだ。ほんの少し開いた隙間から、真っ黒い空間だけが見えた。


 俺と賢人さんは少し前のめりになっていたと思う。この汚臭の中でもはっきりと分かるカビの臭いが、その隙間から這い出ていたからだ。


 一呼吸置いて、優斗の手がゆっくりと扉を開いていく。指先でつまむ程度の小さな取っ手を、震えながら開けていくのが俺の胸を余計にドキドキさせた。


 鏡の後ろにあった、観音扉の場所。針金で封印されていた場所。


 そこになにがあるのか、なにもないのか。


 一歩踏み出した俺の手が、なにかに引っぱられた。


「──え?」


 なにかに引っかけたかと見返った先で。

 しゃがんで俺を見上げる、空洞のような目がそこにあった。


「うわぁああああ!?」

「え、陸!?」


 飛びのいて、後ろ向きに転がった俺に二人が駆け寄る。


「なに!? なんかあったか!?」

「今、え、今そこにさぁ……!!」


 指をさしたところで誰もいない。優斗たちにはなんのことかも分からない。それがもどかしくて悔しくって、俺は混乱もあってボロボロ泣いてしまっていたらしい。


 らしいというのは、このとき俺にその自覚がなかったからだ。歯の根が合わずにうまく話せず、妙に息が詰まっていたことしか記憶にない。そんな俺を、二人が怯えたような顔で見ていたことを覚えている。


 でも俺は、指さした先だけを見ていた。


 なにもないのに目が離せない。誰もいないはずなのに、今もそこでじっと俺を見ている。


 骨と皮だけの人。目のまわりが落ちくぼんで、真っ黒になっていた。それがだんだん這いながら俺に近づいて、ひび割れたガサガサの唇が吊り上がるたびに、赤い肉が見える。


 それがボロボロと崩れて、剥き出しの歯が見えて、何日も歯を磨いていないような生臭い息が──


「陸!!」


 優斗の声で、我に返った。


 幻覚だったのか、妄想だったのか、目の前に見えたと思っていた気味の悪い姿がパッと目の前から消える。慌てて頭を振ると、ぐわぐわと脳が揺れるような感覚がした。


「陸、本当にどうしたんだ? 虫とかいた?」

「いや……大丈夫、なんでもないよ。ごめんな、変な声出して」


 膝が震えていたけど、変な奴だと思われたくなくて必死に立ち上がる。もしかすると俺が見栄を張っていたのはバレていたかもしれない。


 それでも、賢人さんの目は祭壇の最上部を見ていた。


 扉が、さっきより開いている。もしかしたら俺の声に驚いた優斗が、手を引っ込めた拍子に開いたのか。


 そこには、なにか布のような物が見えていた。


「優斗、あれは──風呂敷包み、かな」


 賢人さんの言葉で、優斗も祭壇を見る。そのまま吸い込まれるように祭壇に近づいた優斗は、誰かから受け取るようにその風呂敷包みを引き出した。


 黒地に竹が描かれた、綺麗な風呂敷だ。祭壇の中にあったからか、埃もついていない。


「開けよう」


 賢人さんの声に頷いて、優斗の指が風呂敷を解いた。


「木綿の布と……あ」


 出てきたのは、触れるのも怖いほどボロボロになった布と、その下に隠すように置かれた本だった。これが、あの資料に書かれてたノートだろうか。


 優斗が深呼吸するのが分かる。かなり緊張しているらしい。俺たちもつられるようにツバを飲みこんで、その手元に注目した。


 最初の行は、十月九日、から始まる。


「──日記、のようだね」

「日記ですか」


 賢人さんの言葉に、俺と優斗は瞬いた。


 なんせ恨み言が書かれていたってノートだ。まさか日記とは思わなかった。


「うん、下手ではないけど、達筆でもない字だね。父上、から……?」


 斜めから覗き込んでいるからか、賢人さんが眉根を寄せながら文字を追う。それに気づいた優斗が、賢人さんにノートの正面を向けた。


「ごめんな、助かるよ。──十月九日、父上から新しい帳面をいただいた」



 十月九日

 父上から新しい帳面をいただいた。文字など覚えなくていいと言われてはいるが、これで五冊目の日記だ。文字もずいぶん書けるようになった。

 来月になれば私も十歳になる。これまで一度も家の外に出されることなく、家族から大事にしてもらっていた私だが、元服を迎えれば一人前だ。少しは家族のために役立つことができるだろうか。



 十月十日

 先日起こった浅間山の大きな噴火の影響か、遠くこの村にも人が流れてきているらしい。恐らく食糧を求めてのことだろう。

 村の人間の生活を賄う程度なら、今のままでもなんとかなると話しているのが聞こえてきた。田畑がダメでも村の周囲には山川があり、獣や魚を捕ることができるかららしい。

 それでも飢饉で人が多く集まれば、この村も飢饉に巻き込まれることになる。

 私になにかできることはないだろうか。



「……え、一度も家の外に出たことないの? 本気で? 十四歳なんだよな?」

「いや、翌月に十四歳になるんだから、この時点では十三歳だ。村の環境のことも人伝に聞いた情報しか持ってないようだから、恐らく本当に外に出たことがないんだろう」


 賢人さんは淡々と説明してくれるけど、俺と優斗にとっては信じられない状況だ。十三歳にもなって、一度も家から出たことがないって意味が分からない。


「字も覚えなくていいって、なんでだろ。学校も行ってなかったってことか?」

「学校自体なかったさ。この子が死んだのは天明二年だ。寺子屋が普及し始めた頃だけど、全国に広がった時期から考えると五十年ほど早い。どうやって字を覚えたのかは分からないけど、勉強熱心な子だったんだろうね。こんなに書けるなんて」


 賢人さんは尊敬の眼差しでその文面を眺めていたけど、その直後、優斗が声を上げた。


「それよりその人、なんで死んだんですか!?」


 確かに優斗にとっては、自分たちの命のかかった大事な手がかりだ。のんきにロマンを感じている時間なんてなかったんだろう。いつも波風立てないように動いている優斗が、こんな顔をするのがめずらしかった。


「そうだな、まずはそれを知るのが先だ。逆側から開いてみよう」


 言って、賢人さんは本を逆からパラパラとめくっていく。


 白紙だ。白紙が多い。書き始めた頃は五冊目に入ったことを喜んでいそうな雰囲気だったのに、こんなに白紙を残したまま死んだのか。


 その時、紙面にだんだんシミが広がっていっているのを見た。


「あれ、なんかこれ、シミ……?」

「少し前のページから染みたみたいだね。──墨とは違うようだ」


 そう言って賢人さんは、なにかを覚悟するように細く深く息を吸い込んだ。



 めくる。



 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない



「うわ……!!」


 読めないはずなのに、読めた。


 いや、これは優斗も読めたらしい。喉を甲高く鳴らして、ノートを体から遠ざけた。


 小さく、大きく、丁寧に、書き殴るように、ひっそり、荒々しく。


 いろんな感情を込めた、同じ言葉でページが埋まっていた。


「なんで、こんな」


 これが書かれているのは真ん中あたりだ。紙そのものが分厚めで、一ページに二日分ずつ書いたとしても、使い始めてからあまり日数は経っていない。


「……なんでこんなに汚れてるんだろう。最初はあんなにキレイに書かれてたのに」

「言ったろ、墨じゃなさそうだって、恐らく血をなすりつけながら書いたんだろう」

「血!?」

「極度の脱水で、出血しにくい状況だったのかもしれない。たった一文字書くのに、何度も指をこすりつけた痕がある。──もう少し前から読んでみよう。なにが起こったのか、詳細が分かるかもしれない」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?