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第23話

 十月二十三日

 本日より奥座敷の改修が始まった。

 この十畳もある奥座敷は、物心ついた頃から私の生きる場所と定められている。庶子である自分が使うには広すぎるこの部屋は、父上からの言いつけで母すら自由な出入りが許されていなかった。

 その部屋の最奥、ちょうど二畳ほどを仕切るように、新たに壁を作るという。父上がにこやかになさっていたからには、よほど大事なことなのだろう。

 部屋に木材や壁材が持ち込まれ、少々手狭になったが、この部屋以外に私が自由に出入りできる場所は風呂か厠しかない。仕方なく木材に布団を敷き眠るとする。

 こんな経験も面白い。



 十月二十四日

 とんかんと大きな音が鳴り響くのを、私は間近で眺めていた。

 壁と言うからには土壁なのだろうと思っていたのだが、どうやら簡易な板壁らしい。

 いくつか柱を立て、それを横木で貫いて組み立てるのを見るのは、格子窓から見える世界しか知らぬ私には非常に興味深かった。

 そんな私に職人は、興味があるのなら手伝えと言ってきた。遠慮げだったのは、私が父上の子だからか、私が座敷わらしと呼ばれ育ったことを知っているからだろうか。

 しかし問題は、私と外を繋ぐ格子窓まで壁向こうになってしまうことだ。明日から厠と風呂でしか外を見ることができない。



 十月二十五日

 少々困ったことが起きた。

 壁を作る職人を手伝う内に、誤って壁の中に閉じ込められてしまった。

 扉も作るという話だったが今は工具がないということで、出るのは明日だという。

 格子の隙から羽織一枚を差し入れられたあとは窓も板を打たれ、明かり取りの小さな穴だけが開いている。

 布団もなく、さすがに冷える。狭い場所で壁に囲まれているため、私自身の体温が籠もるのが救いか。また、愛用の日記と筆入れがこちらに転がっていたのが幸いだった。

 普段あまり長々と書く主義ではないが、万が一にも凍え死なぬために長文を自らに課す。

 正直言えば、こんな簡易な板壁など蹴破れるかもしれない。しかしそれでは、せっかく職人を雇って壁を築いた父上ががっかりなさるかもしれぬ。明日まで辛抱すればきちんと出してもらえたものをと言われるやもしれぬ。

 下働きの母から生まれた私を、本家の子らよりも大事に大事に育ててくださっている父上を消沈させたくない。

 明日を待とう。せっかくなら、五十音や漢字の練習など書いて夜を明かそうか。



 十月二十六日

 職人が来ない。人も来ない。

 いや、壁の向こうに誰かがいる気配はあった。しかし声をかけても返事はなく、ただぞりぞりとした音がするのみである。もしや扉を作る準備をしているのではと思ったが、誰だと問うても、早く出してくれと板を叩いてもなにもなかった。

 当然、食事もない。排泄すらこの狭い室内で済ませる羽目である。

 父上は私がここに閉じ込められているのをご存じだろうか。いや、もちろんご存じのはずだ。普段おわすお部屋がこの奥座敷から少しばかり離れているとは言っても、夜中の静まり返った時間、私の声が聞こえない距離ではない。

 せめて励ましていただければ、それだけで力づけられるものを。

 もしや職人を急かすために外出なさっているのかもしれない。職人が工具をなくしたため、村外の職人に依頼を出しに行かれたのかもしれぬ。

 だとしたら明日、明日には出られるだろう。

 今年の冬は暖かく、雪が降る様子もない。これでは冬の作物が葉ばかり育ってしまう。飢饉が村にまで及ばねばいいが。



 十月二十七日

 腹が減った。そのせいだろうか、ありえない妄想に取り憑かれている。

 父上は、家族は、私をこのまま飢え死にさせるおつもりではなかろうか。

 作られた壁からぞりぞりと音がして以降、今日は明らかに、壁を叩いた音が重くなっている。あれはもしや、板の向こう側に左官が土を塗っていた音ではないか。

 明かり取りの穴から吹き込んだ雨を舐め、わずかでも藻掻く。いや、今誰か来た。

 声が聞こえなくなったと、声がする。やはり妄想だったか、助けが来たか。この三科家は集落の長。私は庶子と言えど、父上から無二の扱いをされてきた。口減らしをされるなどやはり妄想だったのか。

 声をかけるも、掠れてしまって届いていない。待とう。明日にはきっと。



 十月二十八日

 やはり私は口減らしにされたのだ。

 壁の前で、座敷わらしさま、座敷わらしさまと唱える声と木魚ばかりが聞こえる。

 最初から私を閉じ込め、殺す気だったのだ。父上の謀略か。壁越しに聞こえる父上の声は、依然堂々と太く響き、私を殺す後悔も、悲しむ様子も伝えてこない。

 母はどうしているのだろう。部屋の改修準備が始まる以前から、母の姿を見ていない。自ら毎日の厠掃除を申し出てまで、私と会う時間を作ってくれていた優しい母が、こんなにも長く屋敷を離れるなどということがあるだろうか。

 母もどこかで、殺されたのだろうか。

 あんなにも尽くした母を。こんなにも慕った私を。父上は、三科の家は、顧みることもなく、死んでくれと一言告げることもなく殺すことにしたのだ。せめて父上が一言詫びてくれれば、私は喜んで口減らしになったのに。

 墨入れにある藻草も、もう墨が枯れる。

 口惜しい。このような手段で、口惜しい。恨みます。恨まずおられようか。死にたくない。死にたくない。祟ってくれる。恨んでくれる。死にたくない。腹が減った。父上。父上。死にたくない。役に立ちます。父上。恨みます。腹が減った。父上。なんで



 ──掠れきった文字が書き殴られた次のページが、血文字のあの見開きだった。


「天明の十月の末……今で言えば、およそ十一月の末だ。天明の大飢饉の最初期は、驚くほどの暖冬だったと記録されてる。それもあって、飲まず食わずでも四日間生き延びられたんだろう。……羽織は、せめてもの手向けだったのかもしれない」

「お父さん、から?」

「大工からだ。父親は人として愛情を示してない。最初から座敷わらしとして祀るつもりで育てたんだろう。だから名前もないし、元服前──つまり子どもの内に、餓死させた」


 気持ち悪くなってきた。


 賢人さんに日記を読み上げてもらって、俺は座敷わらしに感情移入したんだと思う。


 当然愛してくれてると信じていた父親から、死ぬ直前に裏切られた、十三才の子。


 恨むって言いながら、腹が減ったって言いながら、それでもこの子は役に立つって父親に訴えてる。そんなこの子が、かわいそうで仕方ない。


「こんなことしたら、そりゃ祟られるよなぁ……」


 思わず口に出してしまったけど、きっと優斗は俺を責めたりしない。もちろん、優斗の家族がこんな昔の恨みで死んだことは残念だと思う。ひどいと思う。


 だけどようやく解放されて、恨みをぶつけようって時に肝心の父親がもういなかったら。


 子孫にでもなんでも、思い知らせてやりたくなるかもしれない。


「奥座敷の一番奥にある二畳分のスペース。……この祭壇のある場所が、この子が閉じ込められた場所だったんだろう。武兄さんたちは、この子の最期を追体験したのかもしれない。──前に読んだろ? 発見時は壁一面、爪で引っかかれた痕があったって」


 確かに武さんたちは死ぬ直前、祭壇を掻きむしって叫んでいた。


 出して、なんでこんなことするんだ、腹が減った、ずっといい子だったのに、とか。


 だったらこの子は、空腹で倒れて、体中の水分を垂れ流して、干からびていったのか。


 たった二畳しかない場所で。


「葬儀のしきたりも、この子の最期が関係してそうだね。火葬の翌日まで物を食べてはいけないのも、かつて火葬までに障りがあったからかもしれない。水しか飲めないのは、小さな穴から雨水だけは飲めたからかも──」

「お墓、やっぱり元に戻そう」


 ぼそりと優斗が言った。


 しゃくりあげることもせず、ボロボロと泣きながら声を震わせる。


「元に戻して、ノートと一緒にありったけご飯も埋めよう。墓石に名前を刻むのはて無理だけど、この子の名前を決めて、油性ペンでもなんでもいいから書いてさ。でないとこんなの、あんまりだ。……十三才で、俺より年下なのにこんな死に方させられるなんて」


 謝りきれるもんじゃないと、両手を合わせた優斗は崩れ落ちるように体を縮めた。


 俺は妖怪のことも詳しいわけじゃないし、この子のことは今ほんの少し知っただけだ。だけど泣きながら謝ってくれる優斗を見て、恨みを忘れて許してくれたりしないだろうか。


 もしかするとこの子の死体が発見されたとき、生き残った子たちも同じようにしたのかもしれない。だとしたら、少なくとも優斗は助かるかもしれないと思えた。


「戻して、謝ろう。この日記と、俺が持ってきたおやつとかいっぱい持って」

「うん。……賢人さんも来てくれる? 俺たちだけじゃきっと母さん、心配するから」

「もちろん」


 三度目の登山だ。それでもこのときは全然怖くなかった。


 むしろ自分たちがこの不吉な祟りを終わらせられるんじゃないかと、最終決戦に向かうヒーローになったような気持ちだ。

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