木曜日。綾香は家にいた。 日曜日には伊佐山の叔父に霊視してもらうと思うと、どうにか綾香も明るい気分になれた。
御札の効果なのか、あれから嫌な気配も感じなければ怖くなることもない。
窓から差し込んでくる夏の日差しも気分を前向きにしてくれた。
今日はお店も休みなのでやることがない。
昼食を家族三人でとっていると父親が「今日は夕方から商店街の寄り合いに行ってくるから」と、母親と綾香に話した。
「じゃあ今日は飲みの日だ」
「飲みに行くわけじゃない。いろいろ話すんだ」 綾香の言葉に父親が苦笑いして答える。
だいたい月一で商店街の寄り合いがある。
寄合のメンバーも昔は十数人もいて、馴染みの料理屋の座敷を予約しないといけないほどだったが、今では数人。
予約もせずふらっと店に行けば席は空いていると、父親が苦笑交じりに言っていたことを綾香は思い出した。
父親の言うように商店街のことを話し合うのが目的なのだが、とりたてて重要な議題がないときは終わった後の飲みがメインになることが多い。
それにしてもパトカーや救急車のサイレンの音がさっきからやたらと聞こえる。
「なにか事件かしら?」母親が不安そうに言った。綾香も不安を覚えた。
考えてみれば、ここ数日で友里と雅人。瀬奈の学校の生徒と、立て続けに人が死んでいる。
今度もなにか恐ろしいことが起きたのだろうか?
綾香は自分の中で広がりそうな不吉な考えを追い払うように頭をふった。
こういうときこそ気持ちを明るくしないと。と、自分に言い聞かせた。
昼食を済ませた綾香は部屋に戻ると、いつもと変わらない部屋の雰囲気を確認した。
不思議なもので怖いときは、ちょっとした変化がなにもかも不気味で、霊の仕業に思えてくる。
だが、怖くないときは「こんなことまでほんとうに霊の仕業なのだろうか?違うんじゃないかな」とまで考えてしまう。
この前までの恐怖は薄れていて、現実味に欠けた悪夢のような受け取り方をしていた。
暇を持て余した綾香は、どうせなら神社に行ってお参りついでにお祓いでもしてもらおうと考えた。
伊佐山の叔父に除霊はしてもらうのだが、それとは別に「もしも霊がいるなら弱らせておくのもいいかもしれない」という単純な考えだったし、除霊が成功するように願掛けしたいという気持ちもあった。
それに天気もいいし外に出るのもいいかも。そう決めたら下にシャワーを浴びに行った。
誰もいない綾香の部屋。 ベッドのわきに置かれたスマホがカタカタと動き始めた。
真っ黒い画面にか細い光が血管の様に走ると、点けっぱなしの蛍光灯がチカチカと点滅した。
シャワーを浴び終えた綾香は部屋に戻ると出かける支度をした。
鏡に向かってメイクをしているときに、背後に黒い靄のようなものが見えた。
「ええっ!」慌てて振り向くがなにもない。
改めて鏡を見てもなにも映らない。 部屋の雰囲気も怖いものは何もなかった。 「これは気のせい、気のせい」と、綾香は自分を言い聞かせて支度を進めた。
綾香が出かけたのは三時を過ぎた頃、それから時間が経ち、五時半。父親は商店街の寄り合いに行くために玄関にいた。
「じゃあ行ってくる。夕飯はいらないから」
「はい。あまりはめは外さないでね」
母親が笑顔で言う。
「わかってるよ。それより綾香が元気になったみたいで良かった」
「そうね。一時はどうなるかと思ったけど」
二人とも友里が死んでからの綾香のふさぎようは気が気でなかったらしく、今の綾香の状態は安堵するものがあった。
母親は父親を送り出してしばらくしてから夕飯の支度に取り掛かった。
夕飯をあらかた作り終えて一息つこうとしたときに、二階に誰か上がっていく足音がした。
「綾香が帰ってきたのかしら?」
時間的にはそろそろ夕食時である。
だが、誰かが玄関のドアを開けて入ってくる音や気配はしなかった。
聞き洩らしたのだろうと思い、またテレビのスイッチを入れると画面に目を向けた。
七時を過ぎた頃にそろそろ夕食にしようと思い、綾香を呼びに階段を上がった。
二階の廊下の電気は消えていて真っ暗だ。
「おかしいわね……球切れかしら?」 スイッチを入れても電気がつかない。
すると真っ暗な廊下の奥から人の声が聞こえてきた。 囁くようなか細い声。
それもドアが半分開いた綾香の部屋から聞こえてくる。
「綾香」
呼んでも部屋からは返事がない。
やれやれと思いながらドアの隙間からのぞくとベッドの上に人が座っているのが見えた。
さっき聞こえた声は独り言だったのだろうかと思いながら、そのまま部屋に入ると「綾香いるの?」と声をかける。 その瞬間、綾香の母親は凍り付いた。
「あなた…… 誰?誰なの……!?」
背中を見せて座っている人影は綾香とは全く違う。
さっきまではっきりと見えなかったのに、部屋に入ったら見えるようになったその姿は髪が綾香よりもずっと長く、肌は暗闇に浮かび上がるように白い。
座っていた女がゆっくりと振り向いたとき、廊下では子供の笑い声がした。
綾香が家に帰ると父親の姿はなかった。 そういえば今日は商店街の人たちと会う用事があるとか父親が言っていたのを思い出した。
それにしても店が休みで父親がいないとこんなに家は静かだっただろうか? まるで無人のようだ。
こんなふうに感じたのは始めてだった。
それに今日の家の中はやけに冷える。 外はあんなに暑かったのに。
現に日が暮れたといっても、外を歩いて来た綾香はけっこうな汗をかいていた。
まあ、夏に家の中が涼しいのはいいことだと思った綾香はリビングにいる母親に声をかけようと思いドアを開けた。
「お母さん、ただいま」 キッチンで調理中の母親の背中に向かって声をかける。
「おかえりなさい」 母親はふりむかずに返した。
キッチンからは味噌汁の香りが漂ってくる。
急にお腹が減ってきた。
「もうすぐご飯が出来るから、待ってなさい」
母親が包丁で食材を切りながら、わずかに綾香の方へ顔を向ける。
「うん。じゃあちょっと上へ行ってくるね」そう言うと綾香は自分の部屋へ上がって行った。
廊下の電気を点けるとチカチカと点滅する。
なんとなく不安が綾香の中で頭をもたげてきた。
「ダメダメ」 芽生えた不安を振り払うように綾香は頭を振ると自分の部屋のドアを開けた。
部屋の電気を点けた瞬間、綾香の全身、思考までもが一瞬で凍りついた。
明かりを点けた自分の部屋の真ん中に、異様な姿で人が倒れている。
「お母さん……」
綾香は、もはや息をしていない母親を見てか細くつぶやいた。
死んでいるということは一目でわかる。
母親の体はうつ伏せになりながら、顔は仰向けに天井を見ていたからだ。
首から上が百八十度ねじられていて伸びている。
その顔には恐怖で発狂寸前のような表情が貼り付けられていた。
あまりにも異常な光景に思考が停止してしまった綾香は悲鳴を上げることもできず、ただ固まっている。
部屋の中には母親の死骸があるほかはいつもと変わらない。
「綾香~ご飯ができたわよ」
一階から自分を呼ぶ母親の声が茫然自失の綾香を呼び覚ました。
思わず口を押える。 これは綾香の生存本能が命の危機を察知して、最善の行動をとらせたのだ。
「綾香~」下から母親が再度呼ぶ。
激しく高鳴る鼓動、全身の発汗、体の内から爆発しそうな恐怖を必死に押し殺して綾香は声を出した。
「今行くから、ちょっと待ってて――!」
「ご飯が冷めるから早く来なさいよ」
「はーい!」
必死に平静を努めて返事をすると体中が震えだした。
歯がガチガチと鳴って顔の筋肉が引きつる。
それでも必死に思考を巡らせながら、部屋の真ん中にある母親の死骸、その頬に触れた。
幻覚などではない。 たしかに感触がある。
目の前に実体として存在している、本物の死骸だ。
では二階に上がる寸前、帰ってきて一階で夕飯の支度をしていた者、自分が会話した母親はなんなのだろう?
目の前で死んでいるのはたしかに自分の母親だ。 どれほど恐怖に顔が歪んでいようとわかる。
しかし下にいたのは……顔を見ていない。 わずかにこちらを向いたが、髪に隠れてほとんど見えなかった。
「落ち着け、落ち着け……」綾香はうわ言のように小さく繰り返す。
綾香が出した結論は、目の前で無残な姿で死んでいるのは本物の母親で、下にいるのは「まったく別のなにか」というものだった。
そして自分でも驚いたことに、昨日まではあれほど怯えていたのに不思議なほど冷静になれていた。
とにかくここにいたら死ぬ。
綾香はそれだけは間違いないと思った。
いつの間にか腐臭が虚空に漂ってきている。
間違いない。 友里を殺した化け物が自分を殺しに来たのだ。
もう一階まで降りる勇気はなかった。
不幸中の幸いで、さっきまで外出していた自分は、必要なものは最低限手元にある。
この状況での最善な選択はこれだと思った綾香は母親の死体を横に、放置する事を心中で詫びながら部屋の窓を開けた。
綾香の選んだ手段は二階から外に逃げることだった。
いつ化け物が上がって来るか分からない。 早く降りなければ。
綾香が決断したとき、一階からは子供が数人はしゃぐような声がした。
友里の話していた子供の幽霊を思い出す。
綾香は「ヤバイ……ヤバイ……」と、心中繰り返した。
身に着けたお守りを握りしめて神様に祈った。
綾香が開けた窓のすぐ下にガレージの屋根がある。
綾香の身長なら、だいたい窓枠にぶら下がれば足が着くくらいだ。
祈りながら窓枠に足をかけると、そっと急いで体を降ろした。
ガタッ…… 部屋の中で物音がしたので足下に集中していた綾香が顔を上げる。
「ウソでしょう!」
絶命していた母親が不自然な起き上がり方をして立ち上がろうとしている。
その首は相変わらずだらんと伸びきって、ねじれていて、ぶらぶら揺れている。 なにが起きているのかわからないが、さっきまで母親と思っていた死骸ですら、もう母親ではないのだと綾香は悟った。
ガレージの上に降りた綾香の頬を涙が伝う。
どうして呪われたのは自分なのに母親まで殺されなくてはならなかったのか?
そこまで怨まれるようなことをしただろうか?
あまりにも理不尽過ぎると思った。
だが、今は考えるより逃げなくてはいけない。
綾香を突き動かしているのは「死にたくない」という強い思いだった。
ふと上を見ると、窓に人影が揺れる。
すぐさまガレージの屋根に手をかけて、ぶら下がってから地面に着地すると隣の家のインターホンを押した。 が、出ない。
反応が無い。 何度も押すが、壊れているのかと思えるほど無反応だった。
ドサッ。 家の方、ガレージの方でなにかが落ちる音がした。
きっと、あれが来たのだ。
母親の遺体の姿をしたものが。
「助けて!助けて!」
今度は向かいの家のインターホンを押すも、やはり反応は無い。
今度はガレージからなにかが地面に落ちる音がする。
街灯の明かりが届かない位置なので、綾香からは黒いものが地面に落ちてきてもぞもぞと起き上がったようにしか見えない。
起き上がった物が明かりの届く位置まで来ると、その異様な姿が目に映った。
母親の遺体は前にだらんと垂れた自分の顔を両手で、まるでおぼんでも持つようにしている。すると両手の上に乗った顔が口を開いた。
「あやか~……」
背筋がぞくっとするような声は、綾香が知っている母親の声ではない。
ぎごちなく歩いてくる姿を見て綾香は泣きながら走り出した。
「お母さん!お母さん!」
子供のように泣きながら死んだ母親を呼ぶ。
綾香は後ろを振り返らずに必死に走った。
後ろからなにかが走って追いかけてくるような音はしない。
ただ、背後から迫りくる無形の恐怖は全身で感じることができた。
立ち止まったら飲み込まれてしまいそうな恐怖が後ろからついてくる。
走る綾香の視界に入ったのは真っ暗な家々。
どの家も灯りがついていない。 街灯は点いているから停電とは思えない。
これも化け物の仕業なのか? 恐怖に駆られて走りながらも自分の置かれた状況についての考えは止まらなかった。
「ハア…ハア…」息も上がり、心臓が悲鳴を上げている。
それでも手足を動かすが、裸足のために足の裏もいたくなってきた。
「もうダメ……走れない……」
川の側まで来たときに、道路に設けられた鉄柵に手をついた。
成人の腰のあたりまである高さの鉄柵にもたれるようにしゃがみこむ。
背後からの恐怖はこのとき感じなかった。
恐る恐る後ろを振り返ると、街灯に照らされた道路に人の影はなかった。
綾香を追ってきているものは誰もいない。
ゆっくりと呼吸を整える間に父親のことを思い出した。
「そうだ……お父さんに電話しないと!家に帰ったらお母さんのふりをした化け物がいる!」
電話をすると父親が出た。 「どうした綾香」後ろからは賑やかな声がする。
商店街の話しは終わって飲んでいるようだ。
「お父さん、今どこなの?」「いつもみんなで行く店だよ」
そこは以前、瀬奈や友里と一緒に行った居酒屋だ しかもここから近い。
綾香の中でなにかが奮い立ってきた。
「今から行くからそこにいて!絶対にいてね!」
「どうしたんだよ?なにかあったのか?」
綾香の剣幕に父親は戸惑ったような声で返した。
家で起こったことを話そうとしたが思い止まる。
今話したら一笑にふされて終わりだ。
「とにかく行くからそこにいてよ!」電話をしながらも道路の方から注意を逸らさなかった。 いつ、あの死体が現れるかわからない。
「わ、わかったよ」 父親の声にはどこか照れくささと嬉しさがあった。
娘が迎えに来るのが嬉しいのかもしれない。
随分と呑気なものだと恨めしくもなる。
電話を切った後になってようやく呼吸も落ち着いてきた。
同時に思考も巡らせる余裕ができてきた。
周りを見ると川筋にある旅館や民家の灯りは点いている。 さっきまでの暗さが嘘のようだ。
旅館の玄関からは宿泊客が出てくる。 普通に人がいることが綾香を安心させた。
落ち着いてくると、今自分の身に起きていることは現実なのだろうかと考えた。
自分はもしかしたら壮大な思い違いをしているのかもしれない。
そもそもあの死体が母親でない可能性だってある。
だいたい首が捻じ曲げられて折られた死体が動き出すはずがないではないか。
今考えれば一階で自分が話したのが本当の母親で、あっちが化け物だったのかも。
いや、幻覚だったのかもしれないとさえ思えてきた。
とにかく父親のところへ行こうと立ち上がると足の裏に痛みを感じた。
「痛っ…!」そのまま川の手すりに背中を預けるようにもたれた。
自分が走ってきた方への注意は怠らずに目を凝らす。
異常のないことを確認するとため息をつきながら背後を流れる川を見た。
ここは河口で川は潮の満ち引きで水位が大きく変わる。
今は満潮のせいで道路から1メートル下まで水位が上がっていた。
月明かりに照らされた夜の川面は鈍く流れている。
海の方からは波の音、川面からは流れる水音が聞こえて不思議と恐ろしい状況を薄めてくれた。
川を挟んだ岩山からは黒い木々の間から蝉の声が聞こえる。 いつもの風景だ。
首から下げたお守りを手に取って確認する。
さっきまでのことが幻覚ならどれだけいいだろう。
段々と綾香は、一階で話した母親が本物ではないかと思い始めてきた。
もう除霊は間近だから霊は悪あがきをして自分を怖がらせているのかも。
とにかく父親がいる居酒屋はもうすぐだ。
そういえば瀬奈の家もここから近かったことを思い出す。
なんだか助かりそうな、なんとかなりそうな気がしてきた。
落ち着いてくると楽観的な考えが浮かんできて、対照的に危険を察知して動く本能的な思考は薄れてきた。
立ち上がり、痛みに堪えながら歩き出すとスマホが着信を告げた。
見ると家からだ。 一瞬、ぞくっとなる。
出るべきか出ないべきか、瞬時に何度も思考を巡らせた。
綾香は後ろの方の道路に注意を向けながら恐る恐る電話に出た。
「はい……」心臓の動悸が早くなる。
「綾香、どこにいるの?」 それは心配そうな母親の声だった。
馴染みのある、自分の幸せな記憶にある母親の声。
「お母さん……」
安堵と共に胸の奥からこみあげてくるものが、目から涙となって溢れそうになった。
やはり一階にいたのが母親で、死んでなんかいなかったのだと綾香は確信した。
「お母さん、大丈夫?」
「えっ?なに言ってるの?それよりあなたどうしたの?」
母親の後ろからはテレビの音が聞こえる。
バラエティー番組だろうか?何人もの笑い声がした。
「ご飯に呼んだら、すぐに降りるって言って、待ってても全然降りてこないから様子を見に行ったらいないじゃない。玄関には靴もあるし、もうびっくりしたわよ」
母親の呆れながら話す声を聞いて綾香の頬がゆるんだ。
「お母さん、家は大丈夫?」
それでも心配な綾香は確認する。
状況を理解していないせいで会話がかみ合わないところもあるが、母親は綾香の質問に答えた。
母親と話す綾香の背後、すぐ下の黒い川面が不気味に揺れた。
これが昼間なら、まるで川の底から血が噴き出したように一部だけが赤黒く染まったことがわかっただろう。
音もなく水面から土色の肌をした手が出てきて、護岸に指をかけると、まるで護岸に手が吸い付くようによじ登ってくる。
電話をしながら道路に注意を払っている綾香は全く気が付いていない。
「まったく……早く帰ってきなさい」
「うん。すぐ帰る。そうだ!お父さんと一緒に帰るよ!今、お父さんが飲んでる居酒屋の近くだから」
「お父さんと?じゃあ待ってるから早くね」
「うん」
綾香が返事をしたときには川から這い上がってきたものは完全に綾香のすぐ後ろに佇んでいた。
黒く長い、血まみれの髪は月明かりを反射してぬらっと光っている。
水から上がってきたにもかかわらず、その体は血の川から這い上がったように血まみれなのだ。
しかし綾香は気が付かない。
「じゃあすぐ帰るね」
綾香が電話を切ろうとしたときに母親が電話口で「あっ」っと短い声を発した。
「どうしたの?」綾香が聞く。
「綾香、やっぱり急がなくていいわ。お母さん、迎えに行くから」
「えっ」
「そこにいたのね」
「えっ!お母さん、どっかにいるの?どういうこと?」
着信は家からだった。 それは間違いない。 だから外にいるはずがないのだ。
周囲の道路を見渡すが人影はない。
綾香の体の内から言い様のない恐怖が湧き上がってきた。
急激に周囲に強烈な腐臭が立ち込める。 こみ上げる嘔吐を堪えながらも綾香は必死に叫んだ。
「お母さん!どこにいるのよ!」
「後ろにいる」電話口から聞こえたその声は母親のものではなく、聞いたこともない、まるで地の底から響くような亡者の声だった。
「ひいっ!」 振り向いた綾香の眼前に佇んでいた、血でびっしょり濡れたものが恐怖に引き攣る綾香の顔をものすごい力でつかんだ。
真っ赤な唇がニイッとつり上がる。
凄まじい力でつかむ指の間からその顔を見た綾香は、全身を震わせるだけで悲鳴すら発せない絶望と恐怖に支配された。
川沿いの道路から綾香は消えた。
ただ雲の隙間から月が、静かで暗い川面を照らしていた。