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第34話 闘い

ついに儀式が始まった。

夏の日差しが降り注ぐ中、諏訪式姉妹は祭壇の前に互いに向き合って立った。

二人は汗一つかいていない。

私たちにはわからない呪文のような言葉を発しながら互いに六歩進んで立ち位置を入れ替える。

また向き合うと、呪文を唱えながらそのまま三歩進み、鈴をシャン、シャン、シャン、と三度鳴らす。

二人は祭壇に向かって詔をあげると、深々と頭を下げた。


その横では叔父さんたちによる読経が始まり、炎が激しく燃え立つ。

私と巴はそれをただ茫然と見ていた。

「あれはなにをしているのかな?」

巴が諏訪式姉妹を指して聞いてきた。

「さあ…… 私も初めてのことだから」

二人の巫女がなにをしているのか私たちにはわからない。

しかし祭壇に置かれた神鏡と同じものを身に着け、祓い串と鈴を鳴らす二人の姿は、神々しく輝いているように見える。

「ところで、あの人が先生の彼氏?」

ふいに巴が聞いてきた。

「こんなときになに言ってるの!?」

「いいじゃない。怖がるよりは」

言われてみればそうだ。

「残念だけど彼氏じゃないわよ」

「そう。でもあの人は先生に気があるね。じゃなきゃこんなことに首突っ込まないよ」

私はそれには笑うだけで答えなかった。

逆に巴に質問する。

「あなたはまだ死にたいの?」

「またその話し?」

巴はうんざりするような顔をした。

「私たち、友だちになったんでしょう?だったら私があなたのそういう気持ちを聞いて心配して気にするのは当り前じゃない」

「そこまで来ると余計なお世話じゃない?いくら友達でも」

私は首をふった。

「干渉するのは友達の権利よ。だって、あなたが死んだら友達の私は悲しいでしょう?どうしてこんなことになったんだ?なにを思っていたのか?ずっと気になるの」

私が言うと、巴は考え込むように目を伏せて、唇をキュッと結んだ。

「こんな恐ろしい目にあってもまだ死にたい?」

「さあ……わからない」

巴は首を振ってから話した。

「子供のころにさあ、夜中に死んだらどうなるんだろうとか考えたことない?先生は」

「私は…… 昔あったかも」

子供のころ、いや、中学生くらいでも夜になり静かになるとふいに寂しくなる。

そんなときに考えた記憶が私にもあった。

「その延長よ。私も。夜中にそんな気分になったの。それが朝になっても次の日になっても変わらないだけ」

「そんな理由で?」

「そんな理由。でも、そんな気持ちがずっとここに居座ってる。居座っていたけど、今はどうだろう?」

巴のその言葉を聞いて、死に対する希求が過去のものになりつつある気がした。

少なくても、彼女は今、明確に死にたいとは思っていない。

私と巴が話していると、清伽が一言。

「姉上!来る!」

「わかています」

そのやり取りが私と巴の緊張感を一気に高めた。

「あれ?なんだか空気が冷たくない?」

「本当ね……」

外の陽射しは肌を焼くような暑さなのに、急に空気が冷たく感じてきた。

にわかに風が吹き始め、庭の木々を揺らし始めたかと思うと暗雲が太陽を覆い急激に辺りを暗くした。

風は強くなり、遠くの雲間から稲光が見える。

「うふふふふふ…… あははははは…… くすくすくす」

腐臭が漂うと同時に、空のかなたから、庭の隅々から笑い声が聞こえてきた。

くぐもったような、それでいて頭に直接響くような笑い声は、人間のものではないとすぐにわかった。

空からは水滴が降り注ぎ、あっという間に豪雨となる。

「先生見て!護摩の火が消えそう!」

巴が護摩を炊く祭壇を指さす。

風と雨で炎が今にも消えそうなほどか細くなったが、叔父さんが胸の前で指を組み印を結ぶと、消えかけていた護摩の火が前にも増して激しく燃えた。

諏訪式姉妹が祓い串を天に掲げて声を張る。

これだけの豪雨の中で彼女たちは不思議と濡れていない。

「天照照覧大神通自在」

諏訪式姉妹が唱えると、さっきまで礫のように降っていた雨が小雨のようになり、風も弱まったかと思うと、黒雲に隠れていた太陽が顔を出して庭に明かりが挿した。

そして太陽の光が祭壇と姉妹の持つ神鏡に反射されて、周囲を輝かせる。

今の雲を呼び、暴風雨を引き起こしたのが霊の力なら恐ろしいものがあるが、諏訪式姉妹と叔父さんの霊能力はさらにその上をいっているということになる。

これはきっと除霊は成功するという希望の火が私の中に灯ってきた。

「うおおおおおお」

周囲から怒りをはらんだ凄まじい叫び声が響いた。

無数の怒りの声はびりびりと空気を揺らす。

私と巴は思わず耳をふさいだ。

「ははは。姉上、奴らお怒りみたいだ」

「ではもっと怒らせて、前座にはさっさと退場してもらいましょう」

これが前座?大気を揺るがし、気候すら操るようなのが?

では、この後にもっと凄まじいものが来るのだろうか?

諏訪式姉妹の言葉は頼もしくもあり、不安にもさせた。

庭の周囲の木々から、塀の外から、そして私たちのいる本堂の四隅からも黒い靄のようなものが立ち昇ってきた。

黒い靄はやがて、形が定まらないようなぶよぶよとした物になり、細長い腕と猛禽類のような五指を生やし、大きさは小さいものから大きいものまでまちまちだ。

それらが群れて耐え難い腐臭を放ち始めた。

「おえっ…… やば……」

巴が思わず口と鼻をハンカチで覆う。

私もこれは堪らなかった。

部屋に現れたそいつらは床を這うように、うめき声をあげながら私たちへ近付いてくる。

「先生!来るよ!」

「大丈夫!ここに、この中にいれば大丈夫よ!」

言いながら巴の肩を強く抱いた。

諏訪式姉妹の言ったように、黒いものたちは注連縄の側までは来れるが、一定の距離になるとなにかを見失ったように周囲に体をふる。

いつの間にか庭にも溢れていて、叔父さんの弟子たちにも群がっていたが、さすがに護摩の日の側へは近寄れないようだ。

そして諏訪式姉妹の周りにはなにもない。近寄ることすらできないようで、黒い群れが避けているようにすら見える。

黒いものから発せられるうめき声が一際大きくなった。

まるで地の底から這い上がるような怨みの声だ。

これは蛇餓魅?連なる悪霊?諏訪式姉妹は「前座」と言っていたから、多分後者だろう。

時折、黒雲を立ち込めて風雨をもたらすが、諏訪式姉妹が一声発するとあっという間に晴天になる。

「清伽。もういいでしょう」

「はい」

祓椰に応えた清伽が祓い串を胸の高さに水平に構え、祓椰の前に出ると「大神通自在、天地清浄、浄化再生」と、謡いながら舞うように回ると胸にかけた神鏡が輝き、光が地面を覆うように広がり、庭から本堂まで充満していた腐臭が祓われ、清浄な空気に満たされる。

清伽は祓い串を水平に保ったまま片ひざを折り、「姉上!」とこちらの方まで通るような鋭い声を発した。

清伽の言葉を受けて、祓椰が祓い串を天に向かって突き出し「大神通自在、黄泉開門」と謡うと祭壇の数メートル上の空間に漆黒の亀裂が走り、穴が開いた。

「大神通自在、風来送祓」姉妹が声をそろえて祓い串を左右に振ると、その場に群がっていた黒いものたちが、恐ろしい勢いで開いた穴に悲鳴と一緒に吸い込まれる。

あの漆黒の穴が諏訪式姉妹の言っていた、黄泉の国、すなわち異世界へ通じる門なのか。

群がっていた黒いものたちが全て吸い込まれると、穴は渦を巻くように小さくなって消えた。

「すごい…… 凄すぎるんだけど」

一部始終を見ていた巴が目を丸くして言う。

私も同意見だった。

幾ついたのかわからないが、あれだけいた悪霊を一瞬のうちに祓ってしまった。

「すわしき…… すわしき、すわしき」

どこからともなく声が聞こえる。

まだいる?それともまた来た?

私がそう思った瞬間、下の方からゴーッという地鳴りが聞こえてきた。

ミシミシと本堂がきしむような音がする。

「先生、地震じゃないこれ?」

部屋全体が揺れている。

庭に目を向けると、木々がざわざわと揺れていた。

「すわしきふつやぁぁぁ」「すわしきせいかぁぁぁ」

大勢の声があたりに響くと、地面から赤黒いタールのようにどろどろとしたものが大渦のように湧き出してきた。

本堂の扉がバキバキと砕かれて赤黒いドロドロしたものが流れ込んできた。

しかし結界の前で左右に分かれるように弾かれる。

庭の方から上ってきたものも同じように結界に弾かれた。

「これ、私がレストランで見たやつだ!」

「じゃあ、あなたのクラスメイトを殺したのもこれ?」

「そうだよ」

巴の体を守るように強く抱きしめる。

赤黒いものは結界の周囲を流れるようにぐるぐると回り始めた。

「つれていくぅうう」「ここにいるやつら、みんなつれていくぅううう」

赤黒いどろどろした流れから声が湧き上がってくる。

老若男女、様々な声が怨みを込めた響きをもって轟音のように周囲を満たす。

赤黒いものの表面がもぞもぞと動き出したかと思うと、夥しい数のムカデになった。

天井にもいる。

ムカデは結界を越えて足下に押し寄せ、天井からも落ちてくる。

「ぎゃああ――!無理無理!幽霊よりこちの方がダメなんだけど!」

巴が取り乱した。

腰を浮かして逃げようとするのを必死に止めた。

「ダメよ!結界から出たら!」

「でもこれ無理なんだけど」

巴は半泣きになっている。

「心を強く持って!これはあなた方を外に出そうとする幻覚です!」

祓椰が私たちに向かって言う。

「ひいいいい」

巴は頭を抱えてうずくまった。

正直、これは私も無理だ。逃げ出したい。

この足下に集ってくるムカデの感覚が皮膚を通して脳に達する。

これが幻覚?頭ではわかっても体の反応はどうにもならない。

巴を庇うように抱き寄せると、両手を爪が食い込むほど強く握り、歯を食いしばった。

そして諏訪式姉妹の方を見る。

彼女たちを見ていることで、自分のために戦ってくれている人を認識できる。頑張れる。そう思ったからだ。

「前座が祓われて本気を出してきたね!」

「ここからが本番ですよ」

「わかってる!」

清伽が再び、祓い串を水平に構えて舞う。

「大神通自在!天地清浄!浄化再生!」

鋭い声と共に、さっきよりも強い光が赤黒いものを包むように広がっていく。

もがき苦しむような声が一斉に湧き上がると同時に、無数のムカデが消えた。

「ムカデが消えたわよ」

「ほ、ほんと?」

巴が涙目で、消え失せたムカデに埋め尽くされていた天井や床をきょろきょろと見る。

「大神通自在!黄泉開門!」

祓椰が天を指し、再び黄泉の国への門が開かれた。

「大神通自在!風来送祓!」

裂帛の気迫から発せられた声により結界の中にいる私たちの心まで清められたかのように、清々しいもので満ちた。

赤黒いものは黒い穴からの吸引に抗い、床や地面、気にへばりつくように抵抗するも、再び諏訪式姉妹が声を発して祓い串をふると、悲鳴と共に異界へ吸い込まれていった。

諏訪式姉妹の凄さに、私はただただ圧倒されるばかりだった。

だが、よく見ると彼女たちはすごい量の汗をかいている。

あの暑い中で汗一つかいていなかったのに、今では頬に汗で艶やかな黒髪がへばりついている。

大粒の汗が細いあごを伝ってぼたぼたと地面に落ちていた。

あの巫女装束の中もぐっしょりと汗をかいているに違いない。

この儀式、彼女たちの術はそれほど体力を消耗するものなのだろう。

彼女たちの術、そのあまりの凄さに安心しきっていたが、そんな生易しいことではなかったのだ。

しかも彼女たちは手負いだと言っていたではないか。


再び、大気を揺るがすような恐ろしい声と共に赤黒いものが濁流のように押し寄せてくる。

叔父さんの祈祷と護摩の炎が退け、諏訪式姉妹が浄化して黄泉へ送る。

三度祓い、四度目も祓い除けた。

諏訪式姉妹は肩で息をしている。疲労が明らかにわかる。

「先生、大丈夫かな?」

「大丈夫よ。きっと大丈夫」

二人の巫女には申し訳ない思いでいっぱいだが、巴の問いに対してはそう答えるしかなかった。

五度目、黒雲が空を覆ったときに諏訪式姉妹はなにかを察したのか、清伽が身をかがめて両腕を水平に開き、その後ろで祓椰が両腕を天に突き出した。

「大神通自在!天地堅牢!」と、叫ぶのと目もくらむような光と、倒れこむような衝撃と轟音がしたのは同時だった。

瞬間、視界が真っ白になり良く見えない。

「もしかして雷が落ちた?」

横で巴の声がする。

「ああっ!」目が慣れて視界が戻ったときに目にしたのは、落雷により粉々になった護摩炊きの祭壇と、無残にも焼け焦げた伊佐山君の叔父さんたちだった。

諏訪式姉妹の方は傷一つ負っていない。祭壇も無事だ。

「ああ…… なんてこと」声が上ずり、体の力が抜けるのがわかった。

祖母だけでなく、伊佐山君の叔父さんまで犠牲にしてしまった。

「気をしっかり持ちなさい!」

「儀式の前に私らが言ったことを思い出して!」

祓椰と清伽の鋭い声が私に飛ぶ。

そうだった。気をしっかり持ち、心の柵を幾重にも作って強くいないと。

ドーン!!またも凄まじい閃光と轟音が鳴り響き、庭の木を燃やした。

諏訪式姉妹を狙った落雷は、彼女たちに届くことなく弾かれて庭の木に落ちたのだ。

「落雷攻撃って、これは激ヤバじゃないの?」

「私たちも祈りましょう!」

「祈るって?私、呪文とか全然知らないよ!」

「なんでもいいのよ!ようは気持ちなんだから!」

巴に言ったことは、半ば自分に向けてのことだった。

私だってこんなときに効き目がある正式な言葉なんて知らない。

それでも、儀式の前に諏訪式姉妹が言っていたことを思い出した。

「手数は多い方が良い」

ならば、私たちのような素人でもなにかしら力にはなれるはずだ。

なにより私たちのための儀式なのだから。

叔父さんたち一角が崩れたことで、優勢を確信したかのような嘲笑が空から響いてきた。

続いて周りからも笑い声が巻き起こる。

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」私は目を閉じて掌を合わせ、唱え始めた。

巴も私に倣い、同じように唱える。

「むだむだむだ……」「ばかばか」「うふふふふ、むだだぁぁぁ」

亡者の声が私たちの抵抗を嘲笑う。

「お黙りなさい!」

祓椰の声で亡者の声が一斉に止まった。

「いいよあんたら!その調子だよ!」清伽が南無阿弥陀仏と唱えるだけの私たちに励ますように言葉をかけた。

「姉上、どのくらいいったかな?」

「三分の二は祓ったはず」

「じゃあ、もう一踏ん張りか」

「清伽。踏ん張るなんて女子がはしたない」

「じゃあ、ここが女の見せ所ね!」

「その通りです」

祓椰と清伽のやりとりは、私に不思議とくじけない力を与えてくれた。

「女の見せ所か。いいね」

それは巴も同じだったようだ。

「そうね。頑張りましょう」

二人で手を合わせて祈る。

祭壇の前に座った祓椰と清伽は、懐から紙を取り出すと、広げて読み始めた。

「掛けまくも畏き伊邪那岐大伸、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸の禍事罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと、恐み恐みも白す」

大地が揺れたかと思うと、地面が避けて赤黒いものが悲鳴と共に噴き出した。

さっきまでとは比較にならない量が溢れ出して、苦しみもがくように波打ち、人の形がいくつも湧き上がっては流れに戻り、また湧き上がる。

「せなああぁぁ――」「せなああぁぁぁ――」私を呼ぶ声がする。

「ともえええぇぇぇ」「ともおぉええぇぇ」巴を呼ぶ声も。

結界を囲む濁流の中から、人の顔が現れて、恨めしそうに名前を呼んでは消えていく。

「どうしてあなただけえぇぇぇ」「あなたもおいでよぉぉぉ」

友里と綾香の声も聞こえる。

中学生くらいの声は、巴の表情を見るに伊藤真一と野村千沙か?

「耳を傾けてはダメ!」

「祓い除けなさい!」

諏訪式姉妹の声を受けて、一心不乱に唱える。

「せなああ、おまえのせいだああ」祖母の声が頭に入ってくる。

固く目を閉じて声を大きく唱えた。

「清伽。今です」

「はい」

目を閉じて唱えている私の耳に、諏訪式姉妹の言葉が聞こえた。

「大神通自在。天神招来、火之迦倶槌神!」

姉妹が声を合わせた後に、轟っという音と耳をつんざくような悲鳴が上がった。

思わず私と巴が目を開くと、赤黒い濁流を青い炎が飲みこみ焼き尽くさんとしている。

炎はものすごい勢いで燃え立っているが熱さは感じない。

見れば燃えているのは赤黒い者たちだけで、本堂の柱も天井も木製であるのに全く燃えていないではないか。

「凄いや。死者だけを焼く炎なんだ」

巴が興奮気味に言う。

私は両手を合わせて祈りを再開した。

悲鳴は無数に上がっている。

どれが誰の声とわからないほどに。

「これが最後!」

「震えてくたばれ!」

続いて本日五度目の謡が聞こえた。

「大神通自在!黄泉開門!」

「大神通自在!風来送祓!」

「ぎゃおおおおおお――」「ひいいい――」夥しい悲鳴と共に赤黒い亡者たちが異界へ吸い込まれていくのがわかる。

「清伽!もう少し!もう一踏ん張り!」

「姉上!はしたない!」

「私としたことが――!」

もう少し?もう少しで終わる?

私が祈りながらそう思ったとき、天空から男とも女とも判別できない、恐ろしい声が響いてきた。

「おのれえええ、どうするか見ておれよぉぉぉ」

ドーン!!激しく下から突き上げるような大きな揺れがきた。

私たちの体が一瞬浮くほどの揺れは、庭の地面を割り、本堂の壁に亀裂が走る。

稲妻のような地割れが、ついに諏訪式姉妹の祭壇を崩して飲みこんだ。

それでも二人は祓い続け、赤黒い亡者は一際大きな黒い穴に、その身を焼く青い炎と一緒に吸い込まれていく。

私たちのいる本堂は天井まで崩れ始めてきた。

「姉上!まずい!」

「道を開きます!大神通自在!開通聖道!」

祓椰が叫ぶと、私たちと二人を隔てる赤黒い亡者の濁流を真っ二つに割り、一直線の道が開けた。

「崩れる前に早くこっちへ走って!」

清伽の叫びに応えて、立ち上がろうとした私たちの上、天井に亀裂が入り落ちてきた。

「危ない!!」

強い力で結界の外に押し出されたすぐ後に、崩落した天井の一部が落ちてきた。

あのまま結界の中にいたら押しつぶされていただろう。

「は、はやくあっちへ……」

私たちを押し出したのは伊佐山君だった。

瓦礫の下敷きになりながら、伊佐山君は諏訪式姉妹の方を指さしながら血を吐いて絶命した。

「伊佐山君!!」「先生!早く!」

情けないことに私は巴に手を引かれて諏訪式姉妹のもとへ、涙を拭いながら走ったのだ。

地震により叔父さんの家が崩れていく。

恐ろしい揺れは収まったが、私たちを囲む赤黒い亡者の濁流は勢いを盛り返していた。

黄泉への門は閉じかけている。

「大神通自在!天地清浄!浄化再生!」

清伽の舞と声で、周囲を囲む濁流が数メートル後退した。

怒り狂う亡者の声が響き渡る。

「清伽。もう一度やりますよ」

「はい」

「ダメよ!死んでしまう!」

私が叫んだ。

近くで見ると諏訪式姉妹は血だらけだ。

巫女装束も所々が破けて、赤い鮮血が滲んでいる。

「言ったでしょうが。これが私らの仕事だって」

清伽の大きな瞳が私を見据えた。

「大神通自在。天神招来、火之迦倶槌神!」

二人が祓い串を天に突き刺すようにかざすと、さっきの青い炎が一面に燃え広がった。

濁流が怨嗟の声を上げながら、耐え難い苦痛に激しく波打つ。

「大神通自在…… 黄泉開門……!」

異界の門が開き、諏訪式姉妹が燃え盛る炎と一緒に亡者を異界へ送る。

「大神通自在!風来送祓!」

私たちを囲んでいた全てのものが異界の門の奥へ吸い込まれていった。

「やったの!?」

巴が興奮気味に言う。

異界の門は徐々に収束していく。

諏訪式姉妹はガックリと膝を折った。

「すみません……」祓椰がぎりっと歯を食いしばりながら言った。

その瞬間、飲みこまれた濁流が閉じかけた異界の門からこちらへ噴き出してきた。

「も、戻ってきた?」

巴が驚く。

異界の門は閉じたが、多くの亡者が戻ってきた。それでもさっきまでいた数の半分にも満たない。満たないが庭を埋め尽くすには十分な数だった。

「よくも、よくも、よくもやってくれたなあぁぁ」「ゆるさなああい」

地面をひたひたと満たす赤黒いものが私たちの周りで渦を巻き、怒りの声を上げる。

「ここは私たちが必ず防ぎますから、逃げてください」

「無理よ!あなた達も一緒に!」

二人を抱えるように寄り添う。

「逃がさない」

聞き覚えのある声がしたかと思うと、赤黒いものから美奈子が湧き出るように現れた。

まだしぶとく残っていたのだ。

「姉上、こいつか?」

「ええ。間違いない。蛇餓魅を魅了した狂った怨念」

美奈子に続いて次々と人の体が湧き上がってくる。

美奈子の傍らには子供が四人。

「殺してやる」

美奈子の腕が赤黒くどろどろした蛇の塊のように変わると、足下を這うようにこちらへ伸びてきた。

「あなたは早く逃げて」

「でも先生!」

美奈子の腕は正確に私へ伸びてきている。

「いいから早く!」

私が巴に叫んだときに別の声がした。

「ナウマク・サバンダボダナン・インダラヤ・ソワカ!」

轟音と閃光が走り、無数の稲妻が周囲の亡者に降り注いだ。

悲鳴と共に亡者が身悶えする。

さらに稲妻が降ったと同時に、私たちの前に黒装束の女性が現れた。

「姐さん!!」

清伽の声が弾ける。

「お待ちしていました」

祓椰の声には安堵がこもっていた。

「ギリギリ間に合ったみたいね」

もしかしてこの人が諏訪式姉妹の言っていた「切り札」という人物か?

「あなた、あのときの」

「また会ったわね」

驚く巴に、黒装束の美女は微笑んだ。

私の方へ腕を伸ばしていた美奈子は、腕を戻し、凄まじい形相で黒装束の美女を睨みつけている。

「あなたもまた会ったわね。オン・マリシエイ・ソワカ。オン・マリシエイ・ソワカ。我らの身を守りて邪悪を祓い給え」

黒装束の美女はそう唱えると、お札を周囲に投げた。

お札はまるで生きているかのように、宙を飛び交い、湧き立ち、人の姿となった蛇餓魅に連なる悪霊たちに貼りついていく。

お札が貼りついた悪霊たちは苦しみもがいて人型が崩れて赤黒いものの中へ沈み込んでいった。

「迦麗様、あの方は?」

「俺ならここだ」

もの凄い速さで黒い影が私たちの横を駆け抜けた。

瞬間、凄まじい悪寒が背中を走った。

私たちの横を駆け抜けた黒い影は人だとすぐにわかった。

あっという間に、赤黒いものの前に飛び出した。

赤黒いものはいくつもの柱を立てるように、伸びあがると一斉に黒い人めがけて襲い掛かる。

人だということはわかったが、あまりにも動きが速すぎて捉えきれない。

黒い人の左右に閃光が走り、背筋を凍らせるような悲鳴が上がる。

赤黒いものから伸びあがり、襲い掛かった悪霊たちが霧散するように消えた。

動きを止めてくれたおかげで、ようやく確認できた。

黒いスーツに太陽に光をぎらぎらと反射させる刀を持った人。

黒髪に凄みのある美貌と、剃刀のような鋭い目。

口許には不敵な笑みを浮かべている。

「すごいイケメンじゃん……」

巴がうわごとの様に言った。

「あの方こそ、私たちが依頼した切り札です」

「世界最強のね」

「世界最強の霊能者ってこと?」

巴が諏訪式姉妹に聞く。

「いいえ。あの方は――」

祓椰が言いかけたときに、美奈子が先程のように腕を伸ばして、黒いスーツの人に襲い掛かった。

友里たちを捻り殺した、あの恐ろしい腕が捕えようとする。

黒いスーツの人は、迫る美奈子の腕を刀で切り落とした。

そのまま一足飛びに美奈子に迫る。

「今のうちにもう一度、黄泉の扉を」

黒装束の女性に言われて、諏訪式姉妹が黄泉戸を開く。

腕を切り落とされた美奈子は、瞬時に飛んで逃げだした。逃げる美奈子を援護するように子供の霊が襲い掛かる。

黒いスーツの人は一瞬で数人の子供の霊を斬り伏せた。

そのすきに美奈子は塀の向こうへ飛び去って行った。

他の霊も、赤黒いものと一緒になると地面に染みこむように消えてしまった。

「えっ?逃げた?こんなあっけなく?」

巴が信じられないと言った感じで言う。

「あの者たちに想定外のことが起こったからです」

「その上で、黄泉戸が開いたら不利になると思って逃げ出したってわけ」

「でも、あの者たちは決してあきらめません。時をおいてでも力を蓄えて必ず狙ってくるでしょう」

諏訪式姉妹の話していることの半分も私の頭には入ってこなかった。

美奈子は自分の子供と、その仲間が自分を庇って斬り伏せられたときに一瞥もせずに逃げた。

情は微塵もなかったということなのだろうか?いかに不本意な境遇で出産したとはいっても我が子だろうに……。

「かなり酷くやられたみたいね」

諏訪式姉妹から迦麗と呼ばれた黒装束の女性があたりを見渡して言う。

「私たちの力が一歩及びませんでした」

そう言うと祓椰は唇を嚙みしめた。

「安心しろ。この後は俺の仕事だ」

刀を鞘に納めた黒いスーツの人がこちらに歩いてくる。

さっきの悪寒が再び走った。

私が感じた悪寒は、あの人から感じたものだった。

全身から禍々しいオーラのようなものが発散されているような、こんな感じはさっきまで庭を埋め尽くしていた悪霊たちからも感じなかったものだ。

「ねえ、この人たちは?」

「ご紹介します。今回、私たちが最後の切り札としてお頼みしていた方々。邪羅威(ジャライ)様と迦麗様です」

「世界最強っていう霊能力者って人たち?」

「いいえ。殺し屋よ」

巴の問いに、今度は迦麗が答えた。

「こ、殺し屋!?」

私と巴は二人で驚いた。

「どういうこと?相手は化け物と群がる幽霊なんでしょう?どうして霊能力者じゃなくて殺し屋なの?」

「わかった!霊能力はすごいけど、仕事が殺し屋ってパターン?」

巴の問いに諏訪式姉妹は首をふる。

「俺には霊感も霊能力なんてものもねえよ」

邪羅威が言う。

「でもさっき、襲ってきた霊を祓ってた」

「あれは祓ったのではなくて殺したの」

迦麗が私の問いに答えた。

「殺した?だって幽霊は一度死んでるじゃない?どうして殺せるの?」

「いちいち説明するのもめんどうだ。それより仕事の話をしろ。さっきの奴らが蛇餓魅と、それに連なる悪霊共か?」

「はい。私たちでなんとか三分の二は祓いましたが、残りは力及びませんでした」

「迦麗の話だと、一軒家に悪霊共の何人かは巣食っていたらしいが蛇餓魅の本体はどこだ?」

巴が「あっ!」と、声を発した。

そして迦麗に聞く。

「あなたが、あの家に入るときに電話していたのはこの人だったの?」

「そうよ。でもあの家は取り壊されちゃったみたいね」

迦麗はにっこりとして言った。

「蛇餓魅の本体は蛇餓魅の森…… 峠にある森にいます」

祓椰が答えた。

「そこが根城ってわけか」

邪羅威がその整った顔に笑みを浮かべる。それは邪悪そのものとしか言いようがないものだった。

「その森はどこにある?」

「東の方です。その下に蛇餓魅の本体もいます」

「そうか。数は?」

「連なる者共は残り二百弱かと」

「こいつは殺しがいがあるな。久ぶりに楽しめそうだ」

邪羅威は嬉しそうに笑った。

「よし。行くぞ」

「行くってどこへ?」

「蛇餓魅がいる森だ。今ならとりこまれた悪霊も雁首揃えてる。皆殺しにする絶好の機会だ。おまえたちにも来てもらう」




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