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「……なんかムラムラする匂い、漂ってる気がしないか?」
「嗅いだことのない官能的な匂いだよな。どこからしてるだろ」
扉を背にしているからか、自然と外の状況が耳に入ってくる。ラットがおさまったとはいえ、濃厚なフェロモンの香りがそこら辺に漂っているのか、ざわめいている様子から、数人のオメガが集まって来ているらしい。
(まっすぐ部室に来て正解だったかも。そのまま部活に出たら、オメガのチームメイトをホイホイしちゃって、練習が中断することで、また顧問に叱られるパターンじゃね?)
図書室にいるときよりもかなり薄まったハズなのに、濃厚なフェロモンが自分にも絡みついているのか、独特な匂いが鼻をつく。
フェロモンの微調整で四苦八苦しているところに、図書室でラットになり、毛色の違うフェロモンが漏れて、新たな苦悩を味わうとは思いもしなかった。
大きなため息をついて項垂れても、問題は解決しない。困ったときはアルファの自分を過信せずに、大人を頼りなさいという、母さんからの的確な助言を思い出し、スラックスのポケットからスマホを取り出した。
頼れる大人は限られている。迷うことなく長谷川っちに連絡した。きっと体育館で、部活の指導をしている頃だろう。
『西野! 堂々と部活をサボっているのに電話をかけてくるとか、俺をナメてんのか?』
数コールで通話がつながった途端に、喧嘩腰の対応がおもしろくて、落ち込んでいた気分がふわっと浮上した。
「長谷川先生をナメるなんて、そんなことするわけないじゃん」
いつものようにからかう口調で告げたら、スマホの向こう側で息を飲んだのがわかった。
『おまえ、具合が悪いのか? 開口一番俺に先生をつけるなんて、絶対におかしいだろ』
「察しがよくて助かる。ラットって言えば、状況がわかる感じ?」
『うげっ! それヤバいだろ。オメガの生徒が集まって、西野の奪い合いをしてるんじゃないのか? 高校生のクセに、ひとりでオメガのハーレムを築くなよ!』
押し殺した声と一緒に、体育館のフローリングを走る音が反響して聞こえてくる。
「俺は悠真だけだって。ラットは落ち着いたんだけど、残り香が廊下に漂っているらしくて、バスケ部の部室に鍵をかけて引き籠っているんだ」
『状況はわかった、ちょっと待ってろ。間違っても部室の扉を開けて、外の様子を見たりするなよ』
やけに険しい声で注意を促し、プツッと通話が切れた。フェロモンに流されて間違いを起こした生徒が、過去にいたのかもしれない。長谷川先生は俺を落ち着かせようと、冗談をまじえて話をしていたが、切羽詰まった感じがスマホ越しに伝わった。
「アルファなのに情けねぇ……」
同じアルファの佐伯は、どうやって対処したのだろうか。まぁアイツはオメガの榎本がいるから、どうにでもなるのか。悠真とかわした訓練の約束を、こんなフェロモンで台無しにしたくないな。
そんな自問自答を繰り返している内に、扉の向こう側から張りのある大きな声が耳に届いた。
「おまえら、こんなところでなにを探してるんだ?」
「長谷川先生、なんかここら辺でいい匂いがするんです。誰のフェロモンだろうって、話をしてただけなんですよ」
「そうそう。こんないい匂い、これまで嗅いだことがなかったから、興味がわいてしまって」
「結構濃い匂いだから、まだ近くにいるんじゃないかと思うんです」
集まったオメガたちに、長谷川先生は二度拍手をして口を開く。
「残念ながら発情したアルファは、恋人のオメガと一緒にご帰宅したよ。残り香が漂っているせいで、ほかのオメガが集まってるかもって、先生に連絡が入ってな。だから待っていても会えません。ただちに帰りなさい!」
(長谷川先生、ナイス! 演技がうまいにもほどがあるぜ)
部室の扉の前で、息を殺しながらガッツポーズを決める。
「長谷川先生、さよーならー」
「はいはい、さよなら。寄り道せずに、気をつけて帰るんだぞ!」
立ち去るオメガの足音と長谷川先生のさよならの挨拶を聞いて、安堵のため息をついた。