「……西野、大丈夫か?」
くぐもった声が聞こえたので、扉越しに「大丈夫」と手短に答える。すると外から鍵を使って、部室の扉を開錠する音が聞こえた。慌てて立ち上がりその場から離れると、すぐに開けられた扉は、長谷川先生が部室に入ると同時に閉じられる。
「おまえ、よくラットに耐えられたな」
「悠真の信頼を裏切りたくなかったし。我慢するのは当然じゃね?」
「通常はオメガのヒートに当てられてラットになるんだが、なにか刺激的なことでもあったのか?」
長谷川先生は目の前で鼻を摘まみ、空いた手で空気を動かすように扇ぐ。
「刺激的っていうか、悠真と図書室でふたりきりになっただけ」
「それ、おまえにしたら、充分に刺激的なことだろ。とにかくここから脱出するぞ。オメガに見つかったらヒートを誘発して、大変なことになる」
そう言って長谷川先生は部室の窓に近づき、ガラス窓を開けて、ひとりでさっさと外に出てしまった。部室は一階にあるので、外に出ることは可能なのだが、どういう状況か窓辺に近づいて、その理由がわかった。
「西野、部室にフェロモンが充満してるから、開けっ放しでいい。そのまま出てこい」
部室に横付けされた長谷川先生のセダン。きっとこれで、自宅に送ってくれるのだろう。
「長谷川先生ありがと。今出るわ」
「鞄は教室にあるんだろ? 部活が終わったら届けるな」
すぐに車に乗り込んだ俺は、エンジンをかけながら気遣ってくれる長谷川先生に、しっかり頭を下げた。
「なにからなにまで、ありがとうございます」
「らしくねぇな、まったく。いつものように『長谷川っち、あざ~す』って言ってくれたほうが俺としては、やりがいがあるのによ」
晴れやかな笑声をもらした長谷川先生は、俺の自宅の住所を聞き、そこに向けて運転をはじめる。
「西野のご両親は、そろってアルファだったよな?」
「よくご存じで」
車窓に映る見慣れた景色に視線を飛ばしながら、沈んだ口調で答えた。
「校内にいるアルファの中でも、特におまえのフェロモンの濃さはピカイチだからさ。教師間で情報共有してるんだよ。なにかあったときのために」
「なるほど、さすがっすね」
「そんなこと、全然思ってないクセに。ちなみに昨年問題が起きたことで、情報共有のシステムが構築されたってワケ」
「問題? アルファの生徒がラットになったせいで、オメガの生徒がわらわら集まって、学校が大変なことになったとか?」
さっきだってほんのちょっとの時間で、俺のフェロモンを嗅ぎつけたオメガが集まってしまった。
「逆だよ。オメガの生徒が抑制剤を飲まずにアルファの生徒を惑わし、ぶちのめそうとした事件があってさ」
最近どこかで耳にした内容に、苦笑を唇に滲ませる。
「……それって榎本のことじゃない?」
「やっぱり知ってたんだ。あのときは目の色を変えたアルファの生徒をなんとかするのと、暴れる榎本を止めるのに、先生方が総出で苦労したんだ。ただひとり、おまえのクラスにいる佐伯を除いてな」
長谷川先生のセリフで、落ち着き払った佐伯の顔を脳裏に浮かべた。
「佐伯のヤツ、ヒートに当てられてラットになっていたというのに、耐えていたんですか?」
アルファの出すラットのフェロモンよりも、オメガのフェロモンのほうが数倍威力がある。アルファはもちろんのこと、ベタにだってそれが有効で欲情するというのに、それに抗えるなんて佐伯は本当にすごいな。
「自分の手を噛んで、苦しそうに耐えていたっけ。そろそろおまえの家の付近だろ、どこの一軒家だ?」
「突き当りにある、左側の赤い屋根の家。長谷川先生、スクールバックを忘れずに届けてくださいね。宿題があるんです」
忘れないことがわかっているのに、長谷川先生に対して生意気な口調で話しかけてしまった。
「はいはい。かわいい生徒の荷物を、あとでお届けにあがりますよ。とりあえず、ご両親にラットについての対応をよく聞いて、頭の中に叩き込んでおくんだぞ」
車から降りたら、わざわざウインドウをおろし、アドバイスをしてくれた長谷川先生に、俺は深く頭を下げて見送った。
目の前を去って行く濃いグレーのセダンの色が、今の俺の心とリンクしていて、複雑な心境を表現しているように感じてしまったのだった。