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父さんが帰る前に、食事とシャワーを済ませた。机の上の教科書に囲まれて、宿題と予習を進める。窓から夜の街灯が漏れ、シャーペンの音が自室に響く。そこへ、扉がノックされた。返事をすると、母さんが顔を覗かせた。
「お父さんが帰ってきたわよ。陽太と話が長くなるだろうから、夕飯とお風呂を先に済ませてもらうね」
「そうしてくれると助かる。俺もちょうど、勉強がノってきたところだったんだ」
振り返って笑うと「お父さん、グッドタイミングね」と母さんが呟き、夕食の匂いが漂うリビングへ向かうかと思いきや、扉の隙間から小さな声が耳に届いた。
「陽太、がんばってね……」
そのセリフは勉強についてなのか、それとも父さんとの話し合いに対してなのか定かではないけれど、どっちにしても答えはひとつだった。
「もちろん、全力でがんばるさ!」
俺の返事を聞いた母さんは、静かに扉を閉める。机に向き合うと片隅に置いてる、悠真から借りた文庫本が目に留まった。悠真のことを意識した瞬間、ラットの衝動を示す首筋を噛みたくなる感覚が蘇った。
頭を振ってその衝撃を吹き飛ばし、大きく深呼吸して平常心を保つ。
(早く終わらせて、悠真から借りた本も読んでやる。主人公を悠真に変えて、サクサク読み進めて、明日の話題にしてやるんだ)
そう意気込むとシャーペンの動きが速くなり、思考も一気に冴え渡った。おかげで父さんが現れるまでに宿題と予習を終わらせて、文庫本を18ページ読むことに成功。悠真が告げた俺への憧れを思い出し、明日の図書室でタクミの努力を話してやるつもりだ。
父さんから聞くラットの話からフェロモン調整のコツを掴めば、悠真の笑顔をきっと守れるはず!
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わりと大きなノックの音で、父さんが2階に上がって来たのがわかった。
「はい、どうぞ!」
読んでいた文庫本を机に置き、慌てて椅子から腰をあげると同時に、扉が大きく開かれる。
「陽太、下の書斎で話そう。飲み物はなにがいい?」
「あ、じゃあストレートの紅茶がいいな」
「わかった。間違いなく話は長くなる。明日の準備をしてから、書斎においで」
父さんらしい優しい笑みにつられるように、俺も歯を見せて笑った。
扉が閉じられてひとりきりになっても、口角があがったままをキープすることができたのは、どんなことがあっても俺を卑下せず、穏やかに接してくれる父さんのおかげだった。
少し心配なのは俺の顔色を窺い、オヤジギャグを言ったり、下ネタをぶち込んで話を盛りあげようとすることくらい。俺の冷静さを試しているのかもしれないけれど、こっちとしては真面目に話をしてるのに、いきなり話の腰を折ることを口にされると、その場で失笑するしかないんだ。
そんなことを思いながら、机の上に置いてる文庫本に目が留まる。
(悠真に借りた文庫本を忘れないように、スクールバッグの仕切りに入れなきゃな。昨日よりもたくさん読めたから、悠真に感想を伝えるのが楽しみ!)
出しっぱなしにしてた教科書類も一緒に片付けてから、父さんの書斎に足を運ぶ。数回ノックして扉を開けると、紅茶のいい香りを鼻が瞬時に感知した。窓の外で、夜風が木々を揺らす音が聞こえる。
「そこの椅子に座ってくれ」
「わかった。この紅茶、母さんが淹れてくれたんでしょ?」
ガラス製のローテーブルに置かれたティカップ。琥珀色の綺麗な色をした紅茶の濃さは、寝る前を考えて薄めにしている感じがする。
「さすがは陽太、よくわかったな」
「父さんは大雑把だからさ。医者として家族の体のことを第一に考えた母さんが、この紅茶を淹れてくれたんだろうな」
そう言ってから湯気のたつティカップを持ち上げ、香りを堪能してから口にする。
「うん、美味しい」
やはりいつもより、薄めに抽出しているのがわかった。
「父さんだって、陽太のために美味しく淹れようとしたのに、母さんが横から強引に道具を奪って『陽太が2階からおりてくるかもしれないから、お父さんは書斎で待機してなさい』って、キッチンから追い出されたんだぞ」
ブーブー文句を言った父さんも、母さんが淹れた紅茶を口にした。
「む、美味い……」
「愛する父さんを喜ばせるために、母さんは紅茶を用意してくれたんだね」
ついでに「すげぇ愛されてる」なんて言いながら、茶化してやった。
「陽太、恥ずかしくなるから、それ以上はやめてくれ」
「わかった。母さんにお礼を言うのを約束してくれたら、もう言わないことにする」
「うわぁ、我が息子ってばすごい策士だな。誰に似たんだろ……」
頬を赤らめる父さんを見てるだけで、これから難しい話をするのに、肩の力がうまい具合に抜け落ちた。