「
名前を呼ばれて背筋を伸ばそうとするも、何かに引っ張られてうまくいかない。スーツを着始めた頃の窮屈さが、一瞬だけ蘇ったようだった。
編集長の神妙な面持ちを見て、事態の重さを痛感する。
「何度も言うけど打ち切りっていうのは簡単にしていいものじゃないんだ。掲載していただいているサイトや、作家さん自体の評判にも関わる。なにより、読者の信頼を失うことになるからね」
「はい……すみません」
「宇佐ミミミ先生とは、もう連絡は取れないのかい?」
「一週間前に、メールが届いたっきりです。編集長にも見せた通り、もう漫画は書けないと」
宇佐ミミミ先生は元々イラスト投稿サイトで精力的に活動している作家さんだった。漫画形式のイラストも多く投稿していて、SNSで「いつか漫画を連載してみたい」と呟いていたのを見て、私が声をかけたのだ。
アマチュアからの商業連載デビューではあったが、宇佐先生は締め切りも必ず守ってくれたし、メールの返信も早かった。SNSでも精力的に作品を宣伝してくれていて、私も力になろうと最善を尽くした。
しかし、連載開始から半年ほど経った頃、宇佐先生から原稿が送られてこなくなった。
宇佐先生は思ったより伸びない自分の作品に悩んでいたらしく、時々作品の方針や今後の展開について相談のメールがくることもあった。
私は作家さんにはのびのびと書いてもらいたいという思いがあり、「宇佐先生の作品は素晴らしいです!」「このままでも充分魅力的です!」と、なるべく私自身の意見は交えないように答えていた。
「ああ、メールの内容は覚えているよ。『もう漫画は書けない。そして、本当はもっと、アドバイスや助言をしてほしかった』だったね」
それが、いけなかった。
私は自分の意見で作品の方向性が歪むのを恐れ、宇佐先生の書く物語を尊重した。今までもそうやってきたし、それは編集者としての私の美学だった。
「まぁ、作家さんと編集者にも相性はあるからねぇ。なんでもかんでも口を出すのが正解とは言えないけど、今回はそれが悪手になってしまったというわけだ。特に宇佐先生はデビューしたての作家さんだ。まだ右も左も分からない作家さんのリードを解いて、ご自由にどうぞっていうのは少し酷だったかもね」
そのメールをもらって以降、宇佐先生はSNSの更新も止まってしまっている。DMも送ってみたが、返信はなかった。
あれほどこまめに連絡をしてくれて、締め切りも守ってくれた宇佐先生が返信すらしてくれないなんて。
「ま、今度はもう少し、自分の意見を言ってもいいかもね。根駒くんはきちんとした持論を持っているのだから。入社したとき言ってたの、なんだったっけ。ハッピーエンド理論?」
「ドントバッド・ノンハッピー理論です。ハッピーエンドが好きでバッドエンドが苦手な人はいるが、その反対はいないっていう……あはは、こう改めて言うとなんだか恥ずかしいです」
それは私の作った作品に関する理論だった。バッドエンドは嫌われる可能性がある。それに対して、ハッピーエンドを嫌う人はいない。なら、角の立たないハッピーエンドに舵を切るのが当然、というものだ。
「きちんと持論を持ってる子は少ないから、いやあ、感心したよ。根駒くんはもっと、自分の意見に自信を持って、それを積極的に作家さんへフィードバックするといいんじゃないかな」
「自分の意見……そうですね。次は意識して、頑張ります」
「うん。根駒くんは真面目だから、心配はしていないんだけどね」
「そんな、真面目だなんて。ありがとうございます」
ともあれ、宇佐先生には連絡するべきだろう。
編集者というものを続けて三年。一番苦しいのはやはり、作品を終えるとき。終わらせざるを得ないとき。そしてそれを、作家さんに伝えなければならないときだ。
返信がないとはいえ、打ち切りという形になったことは、宇佐先生にも報告しなければならない。
考えただけで、深いため息が口からこぼれた。
「あ、それから根駒くん。泣きっ面に蜂のようで悪いんだけど、ちょっと他部署から話が来ててね。ほら、二ヶ月前に新設された雑誌チームの方で人が足りてないって話、この間したでしょ?」
私が勤務するこの会社『OWL』は元々文芸雑誌を扱っていたが、十年ほど前に廃刊してしまった。一時はそのまま会社がなくなると危ぶまれていたものの、社長が交替したのをきっかけに、主戦場を雑誌からインターネットに移したことでなんとか持ち直し、今に至る。
そして最近、資産が集まってきたのか、数年前刊行していた雑誌を新しい形で復刊しようという動きが始まった。
新設された雑誌チームはまだ人が足りていないようで、各部署から引き抜きのようなことが起きているとも聞いたことがあるが、まさか……。
「実はうちの部にも声がかかっていてね、誰でもいいから一人よこしてほしいと言われたんだ。とはいっても、うちの編集者はみんな優秀だし、僕としては誰も渡したくはないんだけど。もし、編集者全員の成績を見られて、一番実績のない人をよこせと言われたら、立場上どうしても断れない。そして、その一番実績のない編集者というのが」
「私、ですか」
「他の編集者たちと違って、君はまだこれといった実績を出せていない。まぁ、アマチュアの作家を拾い上げてデビューさせるという君の方針上それは仕方ないことなのかもしれないけど。ただ、作家を一人潰しているという件について突っ込まれたら、僕は根駒くんを雑誌チームに異動させなくてはならない」
潰れた作家というのは、紛れもない宇佐先生のことだ。
「根駒くんが頑張ってくれているのは僕も分かってるから、どうにかしたいとは思っててね。そこで、こんな企画を持ってきたんだ」
編集長が引き出しから取り出したのは、クリップでまとめられた資料だった。
「漫画アプリ『ブッカツ!』で、『OWL独占配信』が新設されたのはもちろん知っているね?」
「それはもちろんです。うちでしか読めない漫画を増やしていこうって試みですよね」
「独占配信が始まってちょうど半年だ。評判はいいし、読者も増えてきている。けど、まだ他社に比べたら規模が小さい。そこで、毎シーズン名のあるプロ作家さんに頼んでアプリの看板を背負ってもらうという企画を始めようということになってね。記念すべき第一回は、桜花美狼先生に決まった」
「桜花美狼先生って、あの……?」
名前を聞けばぱっと作品名が出てくるほどには有名な漫画家さんだった。それもそのはず、大手出版社で週刊連載をしていた経験もある人だ。
「ああ、そしてその担当を、根駒くんに頼みたい」
「そ、そんなすごい先生の担当を私がですか?」
「桜花先生なら、きっと素晴らしい作品を書くだろう。それこそ、我が社を担う看板作家となってね。そんな作家さんの担当が根駒くんだと知れば、雑誌チームも引き抜きを諦めてくれるだろう。どうだい? やってくれるかな」
目の前に差し出された企画書は、何色にも染まってしまうほど純白だった。はたして、そんな無垢な光に触れる資格が私にあるのか。身の程知らずという言葉が、こめかみを抜けていく。
「編集長の頼みですもの。断るわけにはいきません。精一杯頑張ります!」
「そう言ってくれると思ったよ。桜花先生はちょっと変わった人でね、メールも電話も通じないんだ。だから、直接自宅へ伺ってもらうことになる。これ、桜花先生の自宅の住所だから」
小さなメモ用紙と企画書を、胸に抱える。ただの紙が、とてつもなく重く感じた。
「ああ、それとね。もし手を出されそうになったら、きちんと断るんだよ」
「手を出される、ですか?」
コンプライアンスを巡り巡った比喩表現に、私は首を傾げた。
「あくまで噂だから、信憑性はないんだけど。まあ、根駒くんが嫌じゃないなら手駒にされてもいいけどね。担当と作家の恋愛が規則で禁止されているわけでもないからさ」
「もう、それってセクハラじゃないですかー?」
編集長の高らかな笑い声がオフィスに響いた。
頭を下げて、企画書とメモ紙を自分のデスクに持ち帰る。
ペタペタと貼られた付箋の中に桜花先生の住所を仲間入りさせて、メールアプリを立ち上げた。
連絡先から『宇佐美ミミミ先生』を選び、メールを新規作成する。
『お世話になっております。根駒です。宇佐先生、体調はいかがでしょうか。休載していた「氷のキミに熱されて」についてですが、契約の規定に従い、本日正式に打ち切りとなることが決定いたしました。現在公開されているものについて。それと、今後の原稿料などについては、添付したファイルをお読みください。また、ご不明な点や気になる箇所がありましたらお気軽にお尋ねください』
いつも迷う。最後になんと言葉を添えればいいか。
これからこの世から消えていくものに、どんな言葉をかけるのが正しいのだろうか。
『一緒に仕事ができてよかったです。ありがとうございました』
送信ボタンを押して、背にもたれる。
絶対違う。違うのに。
一緒に打ち合わせをしたネームや、キャラのカップリングで盛り上がったことがフラッシュバックして、言葉の輪郭が崩れてまとまらない。
デビューが決まったとき、すごく喜んでいた宇佐先生。打ち合わせのとき、ずっと夢だったんです! と嬉しそうに話していた宇佐先生の声を思い出して、胸が締め付けられる。
思えば、顔色を窺うばかりで作品と向き合っていたとは言えなかった。どんな手を使ってでも、作品のクオリティを高めるために全力を尽くす。そういう、泥臭い姿勢が足りなかったのかもしれない。
『私が、未熟でした』
そう付け加えて、私が枯らしてしまった花に最期のメールを送った。