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第34話 月明かり

「佐和子、まったく起きる気配がありませんね。そんなに飲んでいた感じはなかったんですけどねえ」


 刹那は心配そうに佐和子の顔を覗き込む。


「疲れていたからね」


 永徳の背には、気持ちよさそうに寝息を立てる佐和子が背負われていた。賑やかな宴会の最中、早々にテーブルに突っ伏して眠ってしまったのだ。


「屋敷に泊めるんですか」

「ちゃんと家に送り届けるよ。俺は紳士だからねぇ」


 顎を引き、「心外だな」と言わんばかりの永徳の表情を見て。刹那は首を伸ばし、永徳の顔の前へと回り込み目を細める。


「ねえ、ずっと怪しいと思ってたんですけど」

「道端でそんなふうに首を伸ばしていると、他の人間に驚かれてしまうよ」

「この時間帯、三ツ池の付近に人は来ませんよ」

「まあ、そうだけども」

「佐和子って本当に嫁候補なんですか?」


 永徳はチラリと刹那の方に視線を向けたが、曖昧な笑いを浮かべてすぐに逸らした。


「どうだろうねえ」


 とぼけた様子で返答する永徳に、刹那は鼻息を漏らす。


「やっぱり。甘い雰囲気もないし、佐和子は編集長に対してよそよそしいし。しまいには先日の富士子様の四十九日にも呼ばなかったし」


 笹野屋永徳の母である笹野屋富士子の四十九日法要は、実は先週の土曜日に執り行われていた。婚約間近ということであれば、佐和子が手伝いに参加していてもおかしくはない。


 しかし永徳は、四十九日の日程でさえ佐和子に伝えていなかった。


「山本五郎左衛門様にもまだ紹介されてないでしょう?」

「まあ、父は納骨のときに一瞬姿を現したくらいで。ほとんど話す時間もなかったから」


 核心には触れずに、のらりくらりと論点をずらす永徳のやり方に、刹那は慣れていた。言葉で言われずとも反応を見れば、だいたい永徳がなにを考えているのかはわかる。ベテラン編集部員としての長年の勘というやつだ。


「危ないですものねえ。人間があやかしの世界に、なんの肩書きもなしに入り込むっていうのは」


 そう言って空を仰いだ刹那を見て、永徳は苦笑する。


「……刹那は鋭いねえ」

「大魔王の息子の『嫁候補』。これほど強力な盾はありませんものね。 おまけに佐和子が持ってるあの根付。まじないかなにか仕掛けてあるでしょう」

「ああ、あれね。彼女に悪意を持って害なすあやかしは返り討ちに合うように、ちょっとした術をね。でも安心しておくれ。編集部員には襲いかからないようにしてあるから」

「まあ『嫁候補』の肩書だけじゃあ守りきれないこともありますもんね。でもなんでそんなめんどくさいことまでして、人間の佐和子を引き入れたんです?」

「なんでだろうねえ」


 ヘラヘラとそう言う永徳に、イライラしつつ。刹那はシュルシュルと首を戻す。


「『嫁候補』は嘘だったとしても。編集長、佐和子のこと女性として気になってはいるんじゃないですか?」


 刹那のストレートな質問に、永徳は真意の読めない笑みを浮かべる。


「どうかな。真面目でいい子だとは思うよ」

「はあ、そうやってねえ、もたもたしてるから女に逃げられるんですよ、編集長は。いい人止まりのポジションで終わっちゃうんです」

「うう……。今の言葉は痛いねえ」


 ずり落ちかけていた佐和子を背負い直し、寝ていることを確認すると、永徳はふたたび前を向いた。


「彼女は人間世界でいろいろあったみたいでね。ほっといたら行き倒れてしまいそうな様子だったから、少々強引に雇い入れただけなんだ。でも鳥海さんは人間だからね。本人も好んであやかしに関わったわけではないし、いつか元の世界へ戻してあげないと」


「佐和子はうちでの仕事を楽しんでいるように見えますよ」


「長くあやかしの世界に浸かっていては、人間の社会に戻るに戻れなくなってしまう。今うちでの仕事を楽しんでいたとしても、彼女はそう遠くない未来、きっと迷うはずだ。どちらの世界で仕事をするのかを」


「編集長の気持ちは? 佐和子の選択に任せて、あの子がうちを辞めることを選んだとして。そのまま見送ってしまっていいんですか? 自分の気持ちを伝えなくて後悔しないんですか?」


「……んー」


「はっきりしないわねえ。イライラしちゃう」


「刹那、おじさんていうのはね。傷つくのが怖い生き物なんだよ」


 永徳がそう言うと、刹那は思い切り顔をしかめた。


「編集長はおじさんには見えません。第一、あやかしから見たらまだ若造も若造ですからね。アタシに喧嘩売ってるんですか?」


「見た目は若くともね。人間の年齢で言えばおじさんなんだ」


 刹那と永徳は屋敷の前で別れた。彼女の背を見送りつつ、永徳は佐和子の自宅へと続く道をのんびりと歩いていく。


 夜空を見上げながら、彼はひとり呟いた。


「いつか鳥海さんが人間の社会へ戻るって言ったとき。俺が行かないでくれって言ったら、君は留まってくれるんだろうか。……でもそれは、俺のエゴだよねえ」


 今宵は満月だった。寝静まりつつある街を照らす清らかな光は、自分の心の内さえも照らし出してしまいそうで。永徳は思わず目を背けた。


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