「佐和子、まったく起きる気配がありませんね。そんなに飲んでいた感じはなかったんですけどねえ」
刹那は心配そうに佐和子の顔を覗き込む。
「疲れていたからね」
永徳の背には、気持ちよさそうに寝息を立てる佐和子が背負われていた。賑やかな宴会の最中、早々にテーブルに突っ伏して眠ってしまったのだ。
「屋敷に泊めるんですか」
「ちゃんと家に送り届けるよ。俺は紳士だからねぇ」
顎を引き、「心外だな」と言わんばかりの永徳の表情を見て。刹那は首を伸ばし、永徳の顔の前へと回り込み目を細める。
「ねえ、ずっと怪しいと思ってたんですけど」
「道端でそんなふうに首を伸ばしていると、他の人間に驚かれてしまうよ」
「この時間帯、三ツ池の付近に人は来ませんよ」
「まあ、そうだけども」
「佐和子って本当に嫁候補なんですか?」
永徳はチラリと刹那の方に視線を向けたが、曖昧な笑いを浮かべてすぐに逸らした。
「どうだろうねえ」
とぼけた様子で返答する永徳に、刹那は鼻息を漏らす。
「やっぱり。甘い雰囲気もないし、佐和子は編集長に対してよそよそしいし。しまいには先日の富士子様の四十九日にも呼ばなかったし」
笹野屋永徳の母である笹野屋富士子の四十九日法要は、実は先週の土曜日に執り行われていた。婚約間近ということであれば、佐和子が手伝いに参加していてもおかしくはない。
しかし永徳は、四十九日の日程でさえ佐和子に伝えていなかった。
「山本五郎左衛門様にもまだ紹介されてないでしょう?」
「まあ、父は納骨のときに一瞬姿を現したくらいで。ほとんど話す時間もなかったから」
核心には触れずに、のらりくらりと論点をずらす永徳のやり方に、刹那は慣れていた。言葉で言われずとも反応を見れば、だいたい永徳がなにを考えているのかはわかる。ベテラン編集部員としての長年の勘というやつだ。
「危ないですものねえ。人間があやかしの世界に、なんの肩書きもなしに入り込むっていうのは」
そう言って空を仰いだ刹那を見て、永徳は苦笑する。
「……刹那は鋭いねえ」
「大魔王の息子の『嫁候補』。これほど強力な盾はありませんものね。 おまけに佐和子が持ってるあの根付。まじないかなにか仕掛けてあるでしょう」
「ああ、あれね。彼女に悪意を持って害なすあやかしは返り討ちに合うように、ちょっとした術をね。でも安心しておくれ。編集部員には襲いかからないようにしてあるから」
「まあ『嫁候補』の肩書だけじゃあ守りきれないこともありますもんね。でもなんでそんなめんどくさいことまでして、人間の佐和子を引き入れたんです?」
「なんでだろうねえ」
ヘラヘラとそう言う永徳に、イライラしつつ。刹那はシュルシュルと首を戻す。
「『嫁候補』は嘘だったとしても。編集長、佐和子のこと女性として気になってはいるんじゃないですか?」
刹那のストレートな質問に、永徳は真意の読めない笑みを浮かべる。
「どうかな。真面目でいい子だとは思うよ」
「はあ、そうやってねえ、もたもたしてるから女に逃げられるんですよ、編集長は。いい人止まりのポジションで終わっちゃうんです」
「うう……。今の言葉は痛いねえ」
ずり落ちかけていた佐和子を背負い直し、寝ていることを確認すると、永徳はふたたび前を向いた。
「彼女は人間世界でいろいろあったみたいでね。ほっといたら行き倒れてしまいそうな様子だったから、少々強引に雇い入れただけなんだ。でも鳥海さんは人間だからね。本人も好んであやかしに関わったわけではないし、いつか元の世界へ戻してあげないと」
「佐和子はうちでの仕事を楽しんでいるように見えますよ」
「長くあやかしの世界に浸かっていては、人間の社会に戻るに戻れなくなってしまう。今うちでの仕事を楽しんでいたとしても、彼女はそう遠くない未来、きっと迷うはずだ。どちらの世界で仕事をするのかを」
「編集長の気持ちは? 佐和子の選択に任せて、あの子がうちを辞めることを選んだとして。そのまま見送ってしまっていいんですか? 自分の気持ちを伝えなくて後悔しないんですか?」
「……んー」
「はっきりしないわねえ。イライラしちゃう」
「刹那、おじさんていうのはね。傷つくのが怖い生き物なんだよ」
永徳がそう言うと、刹那は思い切り顔をしかめた。
「編集長はおじさんには見えません。第一、あやかしから見たらまだ若造も若造ですからね。アタシに喧嘩売ってるんですか?」
「見た目は若くともね。人間の年齢で言えばおじさんなんだ」
刹那と永徳は屋敷の前で別れた。彼女の背を見送りつつ、永徳は佐和子の自宅へと続く道をのんびりと歩いていく。
夜空を見上げながら、彼はひとり呟いた。
「いつか鳥海さんが人間の社会へ戻るって言ったとき。俺が行かないでくれって言ったら、君は留まってくれるんだろうか。……でもそれは、俺のエゴだよねえ」
今宵は満月だった。寝静まりつつある街を照らす清らかな光は、自分の心の内さえも照らし出してしまいそうで。永徳は思わず目を背けた。