永徳が指し示したのは化粧品フロア。無数のスポットライトに照らされたモードな印象のフロアには、四十ものブランドが出店している。なかなかエスカレーターエリアから出られない編集部員たちを置き去りにし、永徳は躊躇なく通路を進んでいく。慌ててカルガモの群れの如く彼の背中についていく編集部員たちの最後尾に、佐和子も続いた。
「店員さん、これ、なんだい?」
永徳が声をかけたのは、髪をアップスタイルにまとめた美容部員の女性。振り向いてすぐ目に入った挙動不審な集団に驚いた彼女だったが、声をかけてきた永徳に視線を合わせると、恥じらうような表情に変わる。
笹野屋永徳という人は、本当に「顔がいい」のだ。
彼が指し示していたのはコスメカウンター。コスメ選びの相談や、肌状態の確認、販売されているコスメを実際に体験できる場所である。ただ、他のブランドとは違い、この店のカウンター上には大きめのタブレットが置かれている。
「こちらの画面の前に座っていただきますと、当店で取り扱っている商品を全て、お客様のお顔に実際にメイクしたかのようにシミュレーションをすることができるんです」
美容部員の彼女は、営業スマイルでそう解説するが、なぜ永徳がそんなことを聞いてきたのか要領を得ず、若干の困惑が表情の向こう側に見える。
「へええ! すごいじゃない!」
彼女の言葉を聞いてすかさず身を乗り出してきたのは刹那だ。
「お試しになられますか?」
「せっかくだし、刹那。やっていただいたらったらいいじゃないか」
永徳がそう言い終わる前に、刹那はタブレットの前の席に陣取る。
「ここに座ればいいのよね?」
タブレットの画面に刹那の顔が映る。すると即座に分析画面が立ち上がり、パッと結果が現れる。
「お客様のお肌の雰囲気ですと、ブルーベースのメイクがお似合いになるかと思います。こちらなんていかがでしょう?」
分析結果をもとにそう解説しつつ、美容部員がタブレットを指先で操作すると、再度画面上に現れた刹那の顔が映し出される。そして「ブルベ・春」のボタンをタップすると、刹那の顔の雰囲気が一気に変わった。
「え! なにこれ、アタシ?」
青みがかったピンク色のチーク、紫を基調としたブラウン系のアイシャドウ、桃を思わせる色味のリップ。透明感がありながらも、大人っぽい雰囲気を纏ったメイクが、画面上の刹那の顔に投影されている。しかもスタンプを写真に貼り付けたような違和感のある表示ではなく、本当にメイクを施したかのように映し出されていた。刹那が左右に首を振っても表示がずれないので、顔の立体感を精緻に認識しているようだ。
「お時間のない方や、実際に体験することに抵抗がある方にもご好評いただいています。気軽に体験できるということで」
食い入るように画面を覗き込む刹那に向かって、彼女が解説を加えた。
「すごい、人間の世界にはこんな技術もあるんですね」
感心するマイケルの横で、小鬼の双子は飛び跳ねてはしゃぎ出す。
「オイラも! オイラもやってみる!」
「俺も俺も!」
「宗太郎さんはマスク外しちゃダメですよ!」
今にもマスクを取ろうとする宗太郎を佐和子は慌てて制した。
「あ、いけね。そうだった」
あやかしの集団が騒ぎ始めたせいか、なにかのイベントが始まったのかと勘違いした他の客まで集まってきてしまった。永徳は店員からパンフレットらしきものを受け取ると、盛り上がる編集部員たちをそそくさと外へと連れ出す。
「ちょっと編集長、なによ、なんでそんなに急いで出てきちゃうのよ。もうちょっと見ていたかったのに」
むくれてそう言う刹那を宥めつつ、永徳は困った顔で笑う。
「いやあ、悪い悪い。でも収拾がつかなくなりそうだったからね。それにほら」
彼は自分の腕時計を見せながら、文字盤をコツコツと指で叩いてみせた。
「ああ、そろそろ時間ですね」
スマホをチェックし始めたマイケルに、佐和子は尋ねる。
「なんの時間ですか?」
「お店の予約の時間です。あれ、編集長、主役に話してなかったんですか?」
「ああ、そういえば話していなかったかもなあ」
とぼけた様子でそう言う永徳を見て、佐和子の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「あの、笹野屋さん、予約って」
永徳は口角を上げると、悪戯を種明かしするように佐和子に告げる。
「君の歓迎会だよ」
「えっ」
てっきり企画案のヒントをもらうための外出だと思っていたのに。
自分の歓迎会のための編集部員総出だったことを知り、佐和子は両手で口元を押さえる。
「アタシがやろうって言ったのよ。だいぶ編集部にもなじんてきたし、そろそろいいんじゃないかってさ。……ほら、初めの頃、アタシあんたに酷い態度とっちゃってたし。ちゃんと『歓迎会』やってあげたかったのよね」
「刹那ちゃん……」
「それに佐和子、最近肩に力入りまくってたしね! 一旦酒でほぐしたほうがいいかと思ったのよ!」
感無量、という言葉はこういうときのためにあるのかもしれない。
くすぐったくて、ちょっぴり照れ臭くて。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しくて。
少し前まで暗闇を突き進むようだった心の中に、暖かな火が灯り、あたりを照らしていく。佐和子の瞳は、涙で潤んでいた。
「さあさ、こんなところで立ち止まっていると、大衆の迷惑になっちゃうからね。お店に向かおうか。……こう人が多いと、術が使えないのが厄介だねえ。またあの人混みの中に逆戻りか」
やれやれ、と肩を落としつつ。永徳は道を先導していく。また迷っては大変なので、会場の予約担当だというマイケルに店の名前を聞き、佐和子は永徳の横に追いついた。
春の夜の柔らかな風に黒髪を靡かせながら、永徳は佐和子に向かって微笑む。
「鳥海さん、よく覚えておいで。君はひとりじゃない、仲間がいる。壁に当たったら、ひとりで抱え込まず、自分から仲間に相談するんだ。三人寄れば文殊の知恵というだろう?」
「……そうですね。今日お出かけの支度をする中でも、皆さんから今回の企画のヒントをいただきました。……ひとりで抱え込んじゃうのは、私の悪い癖なのかもしれません」
「責任感が強いのは悪いことじゃない。何事も、バランスだよ」
マイケルが予約をしておいてくれた店は、大きな人工の桜を囲むように個室が配置された和風居酒屋だった。各個室のガラス窓からは、ライトアップされた桜を眺めることができる。
「鳥海さん、あらためて、ようこそ『あやかし瓦版編集部』へ! 乾杯!」
永徳の掛け声を合図に、編集部員たちはグラスを天井に向けて掲げる。
光に照らされた桜の木に見守られながら、あやかし一行は美味しい日本酒とともに、人間の編集部員を歓迎したのだった。