——そろそろ、やばいかも。
ここまでギリギリ致命傷は避けてきたが。あちこちの筋肉が悲鳴をあげている。強烈な剣戟を受け続けてきた手は痺れて痛み、ほとんど力が入らない。
何度も視界を遮る光にも嫌気がさしていた。初めは陽の光かと思っていたが、執拗にチラつく光は人の手によるものだと途中から気がついた。
——ロベリアの剣士にアラン王子を殺させたいんだな。きっと。
肩を上下させながら、呼吸を整える。
カイオスの動きは、試合序盤とまったく変わらない。疲れも痛みも、恐れさえも感じない薬の力というのは凄まじい。同じ人間と戦っているという感覚がしなかった。
——次の一撃で倒せなきゃ終わる。でも、もう一度邪魔が入ったら。
最悪の状況が頭をよぎり、判断を鈍らせ、前へ出る勇気が削ぎ取られる。
「おい気合い入れろ! あれだけ努力してきただろうが!」
ざわめく観客の声の中で、一際目立ったある人の声。
聞き覚えのあるハスキーな声に、頭が冴えた。キリヤだ。
「邪魔者は始末した、思いっきりやれ! 勝たねえと承知しねえからな!」
そのひと声で、先ほどからうるさい虫の如く視界を飛び回っていた光が消えていることに気づく。
「……ありがとう、バーベナ!」
満身創痍の体に鞭を打ち、最後の力を振り絞り、気合いをいれた。剣を握り締め、飛び込んでくる相手の一挙手一投足を捉えようと目をこらす。
カイオスの剣がアリシアに迫る。十分にひきつけてから、ギリギリのところでかわすと、前に踏み出し、左足でカイオスの膝を思い切り蹴り飛ばした。骨の砕ける音が聞こえ、カイオスが右膝から崩れ落ちる。
「トドメだ!」
アリシアはそのまま体を捻り、振り向きざまに後頭部へ会心の一撃をお見舞いした。
金属が地面に叩きつけられる音が聞こえる。カイオスの体はもう動かなかった。彼の鎧の口元からは、吐瀉物が漏れ出している。痛みや疲労は薬で誤魔化せようとも、身体的にはとうに限界を迎えていたのかもしれない。
闘技場から一切の声が消える。
静寂ののち、会場全体を震わすほどの大きな歓声が上がった。
「やった……。やり切った……」
キリヤの蹴り技のおかげだ。彼と特訓する前までは、蹴りで足を潰して剣で致命傷を与えるなんていう発想は思いつかなかった。
足も手も震えている。少しでも気を抜けばこのまま倒れてしまいそうだ。それでも「アラン王子」でいるために。アリシアは頭の鎧をとり、右腕を天に向かって突き上げた。
「アランよ。見事最強の栄誉を守り切ったお前に、最大の賛辞を。ロベリアのカイオスも、素晴らしい戦いを演じてくれた」
グラジオ王はそう言うと、跪くアリシアの方へ顔を向ける。闘技場の中心に設けられた舞台に、二人は立っていた。王はトーナメントの勝者に贈られる盾をアリシアに授け、誇らしげな顔で笑いかける。
「アラン、勝者の願いを聞こう。なんでも欲しいものを述べるが良い」
アリシアは立ち上がると、王から顔を背け、天を向き、両手で頭を抱え、そしてまた下を向く。
「おい、早くしろ」
小声で王にそう促されたアリシアは、どんどん染まっていく頬を手の甲で隠しながら、戸惑いがちに答える。
「バ……バーベナ姫からの、キスを」
「ん……? なんだと?」
「バーベナ姫からのキスを!」
女性の観客たちから凄まじい悲鳴が聞こえる。恥ずかしさからアリシアは肩をすぼめた。
アリシアが叫んだ願いの内容に、驚き言葉を失っていたグラジオ王だったが。薄く笑いつつ、勝者の言葉に応えた。
「よかろう。この国の未来は明るいな。きっとロベリアとグラジオの良好な関係は、いつまでも続くことだろう」
キリヤが、ガーネットに手を引かれて闘技場の中心へと向かってくる。
アリシアの緊張は頂点に登っていた。
こんな大衆の面前で、男性と口付けを交わすことになろうとは、港町にいた頃の自分には想像もできないことだった。
キリヤはアリシアの目の前に立つと、両腕を首に回してきた。女神のように美しい顔。しかしよく見れば男としての色気も持ち合わせている。
彼は額をすり合わせると、アリシアだけに聞こえるような声で話しかけてくる。
「本当にキスで良かったのかよ」
「いや、だって、約束したし」
彼は頬を緩め、くすくすと笑い始める。
「冗談だったんですけど」
「えええ!」
「まあいいや。特訓の報酬、あとで宝石とかもちょうだい」
「そ、それはいいけど」
「ん」
「んんん!」
紅のひかれた、柔らかい唇の感触が広がる。剣術を教えていた街の子どもが「キスはレモンの味がするんだぜ」と教えてくれたが、特に味はしなかった。
しかも思っていたより長い。キリヤは右から左から、何度も口を合わせてくる。息継ぎの瞬間がわからない。巷の恋人たちはどうやってタイミングを測っているのだろうか。
アメジストのような瞳の主は、一度顔を離すと、恍惚とした表情でアリシアを見て、もういちど唇を重ねてくる。
「ちょ、バーベナ、むぐ」
———ダメだー! 恥ずかしさがもう限界!
「あれ? アリシア?」
そう呟いたキリヤの声は、アリシアには届いていなかった。
おそらく、戦いの疲れもあったのだと思う。
アリシアはキリヤにしなだれかかるように崩れ落ちて、眠るように気を失っていた。