「あっちに手をかけて、こっちに足をかければ……、うん。次の窓枠までうまく降りられるでしょ」
窓から首だけを出し、外壁を確認しながらアリシアはひとり頷いた。
アラン王子の部屋は三階に位置している。城は庶民の住居と違い、天井高があるため、その分地上からの距離も離れていた。
初めは寝具を結び合わせたものを下まで垂らし、地上まで降りようかと考えたが、それだと脱出の証拠が残ってしまう。窓の近くに大きな気が生えていればと思ったが、そう都合よく生えているものでもない。ただその代わり、外壁が石壁で小さいが凹凸があることがわかった。小さい頃から木登りや崖登りを遊びでやってきた自分なら、手をかける窪みさえうまく見つけられれば、命綱なしでもなんとか降りられそうな気がした。
「窓枠を休憩地点にうまく使えば、指の力も地面まではもつよね」
ここに連れてこられた際の服は処分されてしまっている。ただ、財布だけは返してもらえた。大金は入っていないが、城下町の雑貨店でプレゼントを買うくらいの予算はある。
アリシアはシャツとズボン、ブーツだけを身にまとい、鏡の前に立って全身を確認する。少々衣服が上等すぎるが、道中泥で汚していけば、それなりに庶民には見えるだろう。
窓枠に手をかけて飛び乗り、背中を外側に向けてそっと左足を下ろし、石壁の出っ張りにつま先を引っ掛ける。強度を確認したあと、今度は右足の踏み場を探そうとした——その時。
「殿下」
「え、うわっ」
石壁にかけるはずだった右足が行き場を失う。両手は窓枠を捉え損ね、そのまま真っ逆さまに落ちた。
——死ぬ……!
地面にぶつかると思いきや、ぼすん、という音と共に、何か大きなものに包まれる。
「無茶をされますね」
「……セオドア?!」
「あなたの部屋付きメイド、イブと言いましたか。彼女に言われたのです。あなたが今夜あたり窓から抜け出そうとするだろうと」
アリシアは額を打った。部屋に籠るということを、ずいぶんすんなりと了承してくれたと思ったが。すべてお見通しだったのか。
これはもしや、ギロチンの流れだろうか。いくらセオドアが自分に好意を持ってくれていたとしても、職務に真面目な彼のこと、逃げ出そうとした身代わり王子を見逃そうとするはずはない。
すっかり青くなった顔でセオドアの様子を伺う。だが彼は、堪えきれないといった様子で破顔した。
「……ふふ。アリシア様、私があなたを悪いようにすることはありません。ご安心を」
全部顔に出ていたのだろう。セオドアはアリシアの顔を見ながら、くすくすと笑い始める。
「よかったぁ……ほっとした……でも、部屋へは連れ戻されるんだよね……?」
「何かご用事があったのでしょう? あなたのことです、この後に及んで逃げ出そうとしたのではないはず。私に事情を話してみませんか。何かお役に立てるかもしれません」
セオドアに話してもいいものか。いや、話せば偽バーベナ姫の身を危険に晒すことになる。
「……友達と気まずくなっちゃって。仲直りの品を買いに行きたいんだ」
逡巡ののち、ぼやかして伝えてみることにした。セオドアは真偽を確かめるように真面目な顔でアリシアを見つめたあと、にこりと口元だけで微笑む。
「なるほど。個人的な贈り物だから公費は使われたくないわけですね」
「うん、自分の財布は没収されなかったから。それを使って何か買いたいなと」
「真面目な方ですね。ますます好感度が上がりました」
セオドアはアリシアを抱き抱えたまま、額に軽く口付けをする。
「んなっ……!」
驚くアリシアを楽しげに見つめながら、セオドアは彼女を地面に下ろす。鬼のようなセオドアが自分を女の子扱いすることになれぬ上、こんなふうに優しくされると調子が狂う。
「今夜はお休みください。夜更かしは美容の大敵ですから。明日、お迎えにあがります。私が街へお供しましょう」
「えっ、止めないの?」
アリシアはパチクリと瞬きを繰り返す。
意外だ。絶対に許してもらえないと思ったのに。
「私が一緒であればなんら問題ありません。それに、あなたと個人的な時間を過ごせる良い機会ですから」
セオドアの目尻の笑い皺が深くなる。アラン王子として接してきた時には見たことのない柔らかい表情に、ドギマギしてしまう。
「いや、えっと」
「断らないでください。断れば私は、今夜見たことを報告しなくてはならなくなります」
ニヤリ、と意地悪げに口角を上げるセオドアは、いつも鍛錬場で見ていた雰囲気に近い。
「その言い方はずるいよ……」
「恋は時に駆け引きを必要とするものです。では明日お迎えにあがります。楽しみにしていますよ」
彼の大きな手がアリシアの頭を優しく撫でた。
促されるまま、セオドアの大きな背中に続き、トボトボと月明かりの中を歩き出す。
一人での外出は許されなかったが。監視付きで城下町に降りられるならそれでもいい。逆に後ろめたさがなくなってよかったかもしれない。
とりあえずいい方に考えてみようと、アリシアは思ったのだった。