目的地のマーブレまでは、馬車に乗って一週間ほど。
王子夫妻のハネムーンともなると、帯同する家臣団も含め、膨大な人数になる。馬も人も休憩させねばならないため、タウンハウスや宿場町をいくつか経由する予定だ。
「はー、今回はセオドアのおっさんがいなくてよかったー。あのおっさん絶対俺のこと怪しんでるよな」
ぐいっと馬車の中で体を伸ばしながら、キリヤはカウチに体をもたれかけさせる。
この男、仮初の夫の前だからといって、リラックスしすぎではなかろうか。
グラジオ王国騎士団の精鋭、メンシスの副団長を務める男セオドア。アリシアを身代わり任務から解放した暁には、結婚を申し込みたいと言われている人物である。
王子誘拐疑惑の情報をつかんだ彼は、このハネムーンへの帯同を熱望したそうだが、首都の防衛が手薄になるという理由で国王から却下されている。
彼にはキリヤが再び身代わりとしてやってきていることは伏せられている。
だがキリヤの言う通り、野生のカンか何かで勘づいている気がした。
「お、街だぞ、アリシア! 最初の宿泊先ってことは、エンディアか。っていうかなんか祭りみたいなのやってない?」
カーテンの隙間から外を覗いていたキリヤが叫ぶ。
「えっお祭り?」
興味を惹かれたアリシアも、キリヤが見ているものを見ようと、カーテンに手をかけた。
「うわあ……!」
夕焼け色に染まり始めた空の下。
人出で賑わう港町に連なる店々の軒先に、赤、青、白の鮮やかな旗が掲げられている。通りのあちこちに出店が出ていて、旗と同じ色のワンピースを着た踊り子らしき女性たちが、大通りを踊り歩いていた。
活気ある風景に見惚れているうち、いつしか山道に入った馬車は、小高い丘の上に立つ屋敷に到着した。グラジオ王族専用に建てられたタウンハウスだ。
「真っ青……綺麗……」
海街にふさわしく、マリンブルーで壁を塗られた屋敷は、建具が全て白で統一されており、それがまたリゾート感を醸し出している。
タウンハウスに見惚れていると、キリヤに脇腹を突かれる。王子らしく振る舞えとのお叱りだ。
「アラン王子殿下、そしてバーベナ妃。長旅お疲れ様でございます。エンディアのタウンハウスの管理を任されております、執事長のヴィンセントと申します」
真っ白な髪をオールバックにし、綺麗に整えられた口髭を蓄えた老年の紳士が挨拶を述べる。
「よろしく頼む。素晴らしく手入れがされているな。まるで建てられたばかりのようだ」
「グラジオの英雄にそうおっしゃっていただけるのは、恐悦至極の極みでございます。職人たちも喜びましょう」
人の良さそうな笑みを浮かべた彼は、「さあ、お部屋へご案内します」と先を歩いていく。
彼の案内に従い、アリシアは建物の中へと進んだ。
「今日は何の祭りをやっているんですの?」
キリヤが女声を巧みに使い、尋ねる。
「今週は海神ミレーネの感謝祭なのでございます」
「海神ミレーネ、ですか?」
ヴィンセントの返答に、キリヤは首を傾げる。どうやらグラジオでしか信仰されていない神らしい。
「海神ミレーネというのは、海の守神だ。時には過酷な高波をもたらし、容易く船乗りの命を奪う。しかし気まぐれに豊漁をもたらしたりもする。気まぐれな女神なのだよ」
「さすが王子殿下。私めが説明する必要もございませんな」
へへへ、と心の中で照れ笑いをする。王子は若い頃、グラジオ国内の各地を飛び回っていたため、各主要都市についての知識が深い。そのためアリシアも、地理に関しては力を入れて学んでいた。祭りのことは知らなかったが、勉強していた知識が役に立ってニンマリする。
「気まぐれなミレーネに捧げ物をして、歌い踊り日頃の感謝を伝えることで、船乗りの安全を祈願するのがこの祭りなのでございます。賑やかな一方、人が多く出歩きますので、場所によっては治安も悪化します。くれぐれも夜は出歩きませんよう」
先に釘を刺されてしまい、アリシアはキリヤと顔を見合わせる。
——そうだよねえ、王子様とそのお妃様だもんね……。
密かに夜抜け出すことを楽しみにしていたアリシアは、ヴィンセントに見えないように肩を落とす。
こういう時、自分が平民だったらと思ってしまう。
ただ以前と違うのは、王子を救出できれば、また平民として穏やかに暮らす道に戻れる希望があるということ。
——でも。
部屋に案内され、ヴィンセントが辞した後。早速ベッドに倒れ込んでいる「相棒」を見やる。
彼は、「自由になったら俺と結婚してほしい」と言った。
しかし彼はロベリアの王子だ。バーベナの身代わりを続けるということは、今後も引き続き王族に留まることを決めたのだろう。
——キリヤはああ言ったけど、さすがにロベリア王が、ただの平民の女との結婚を許すはずがない。
アラン王子がグラジオに戻れば、自分は平民としての自由を手に入れることができる。しかしその先には、キリヤとのお別れがやってくるのだ。
そう考えると、胸が疼く。
せっかく叶った初めての恋の甘い時間は短い。
ひたって別れの苦しみを味わうくらいなら、今までの距離感を保つ方が傷は浅くて済む。
そう思っているのに。この人の誘惑は、強引で甘い。
うっかりしていると、絡め取られて動けなくなりそうな気がする。
人知れず、ため息が漏れる。
すると、視界に綺麗な女、いや男が飛び込んできた。
「おいアリシア、なにしけたツラしてんだよ」
「うえ」
「あ、もしかしてあれか? 祭りに出かけるなって言われて落ち込んでるわけ?」
「いやいや、違うって」
「またまた〜無理すんなよ〜」
そう言いながら、彼は意気揚々とクローゼットへと入っていく。
今回の旅はハネムーンということで、使用人たちには極力部屋に近づかないように頼んでいる。そのせいかキリヤのテンションが高い。
「じゃじゃーん」
「ああっ、キリヤそのかっこ!」
クローゼットから出てきたのは、平民風の服に着替えたキリヤ。
そして彼は、さらに背後に何か隠している。
「アリシアはこれを着ろ」
渡されたのは、シックだが可愛らしい型の緑色のワンピース。
「ま、まさかキリヤ」
「抜け出すに決まってんだろ! せっかく祭りがある時期にやってきたんだ。大人しくじっとしてられるかっての」
まるで少年のようにはしゃぐ彼を見てアリシアは気が抜けた。
「はしゃぎすぎでしょ」
年相応の十代の少年の笑みを見て、アリシアも釣られて笑う。先のことを考えても仕方ない。まだマーブレにはつかないのだ。
今この時だけは、目の前の幸せを噛み締めよう。そう、アリシアは思ったのだった。