泣く子には勝てない。ギャルだからって、そこんとこは変わらないらしい。
「ずびーっ! ……ふぅ、思いっきり泣いたらスッキリしちゃった」
ティッシュで鼻をかむ氷室。その顔は泣いていたとは思えないほど晴れやかなものだった。
「はいはい。それは何よりだよ」
場所は俺が住むアパート。結局押し切られる形で家の中へと招いてしまった。
まあ、あのまま泣いている氷室を放置するわけにもいかなかったし。誰かに見られたら俺が悪者になってしまっていたかもしれない。悪人面というのも厄介だ。
今のところは下半身に熱が集まる気配はない。室内に女の子の良い匂いが漂っている気がするが、これくらいで煩悩に負ける俺ではないのだ。
「って、何やってんだ氷室っ」
「え? エロ本探しているだけだけど?」
気づけば氷室が四つん這いになってベッドの下を覗き込んでいた。お尻をフリフリと振っているのはわざとかと怒鳴りたかったが、ぐっと我慢する。
ただでさえ短いスカートだってのに……。こいつには羞恥心ってもんはないのかっ。あっ、ちょっ、中身が見えちゃう……っ!
「んー……めぼしいもんはなさそうねぇ。今頃はエロ本よりもスマホに隠しているもんなのかな?」
「おい氷室。お前男子の部屋に入ったらいつもこんなことしてんのか?」
氷室はベッドの下に突っ込んでいた頭を勢い良く俺に向けた。
「そんなのしたことない! アタシがこんなことするの……あ、晃生だけだよ?」
いじらしい仕草で、上目遣いでうかがってくる表情は可愛い……と、思ってやりたいところだが、やっていることを考えると呆れるしかなかった。だって男の部屋に入って最初にやることがエロ本探しなんだぜ?
カラオケの時は良かったのになぁ。安心の氷室に、俺の気が抜けていく。
「それにしても、物があんまりないよね。ベッドだけは立派だけどさ。晃生って趣味とかないの?」
郷田晃生の趣味は女とピー(自主規制)すること。……なんて言えるわけがないよな。
基本、外で女をナンパして食うことばかりの生活だったようだからな。アパートだって寝るための場所でしかない。そう思うとこれでも生活感が出てきた方なのだ。
「下手な趣味を持つと金がいくらあっても足らねえだろ。男の一人暮らしなんてこんなんでいいんだよ」
「ふーん。男ってそんなもんなんだ」
「そうそう。氷室が今まで付き合ってきた男はどうだったんだ?」
何気なく振っただけなのに、氷室はひどく狼狽した。
「……いない」
氷室は顔を俯かせて、小さな声で何か呟いた。
「え、なんだって?」
「彼氏なんていないって言ったの! 今まで一回もできたことない! くっ、これで満足かぁっ!」
真っ赤になった顔を上げた氷室が爆発した。あまりの勢いに仰け反る。
「え、マジ?」
「マジよ! アタシは晃生みたいにはなれないのよ……うわーん!」
氷室は俺のベッドに飛び込んで、枕に顔を埋めてわんわんと泣き出した。さすがにこれは嘘泣きだよね?
原作で氷室が処女だというのは知っていた。だけど彼氏いない歴=年齢、とまでは思っていなかった。
だって、原作では経験済みじゃないの? と疑いたくなるくらいに手慣れた感じだったのだ。「これで処女とか無理あるわー」と感想を漏らした記憶がある。
「晃生は……」
氷室が少しだけ顔を上げて、目だけを俺に向ける。言いにくそうにして、口を枕に埋めたままもごもごさせる。
「彼女……いるの?」
目を潤ませて、そんなことを聞いてきた。
「……」
氷室は、郷田晃生のことが好きなのだろう。
原作であれだけ従順だった理由がよくわからなかった。とくに脅されている描写はなかったし、氷室羽彩というキャラも好き好んで寝取りに協力している感じでもなかったから。
ただ、振り返ってみれば郷田晃生のことが好きなんだろうなという描写は、わかりにくいが確かにあった。無理やり処女を奪われた時なんか幸せな顔をしていたもんな。
なぜ氷室が郷田晃生のことが好きなのか。その理由は語られていない。サブヒロインという立ち位置だったし、語る必要はないと判断されたのだろう。郷田晃生自身、恋愛的な意味で好かれているとは考えていなかったようだ。
頭をがしがしとかく。エロいシーンばっかりに目が行っていたから、こんなことを不思議に思うことはなかった。
「別に彼女なんかいねえよ」
「でも、白鳥とはホテル行ったんでしょ?」
結局それは気にしてんだな……。
現時点で氷室とどうこうなろうとまでは考えられない。郷田晃生の意識が完全に消え去っていない以上、深い関係になりすぎるのは彼女のためにならないように思える。
氷室は俺にとって大切な友達だ。女として見られないとかじゃなくて、彼女が傷ついてしまうような事態にはしたくなかった。
「だからどうした? ラブホテルに行ったからって氷室が考えていることになったとは限らね──」
「ホテルってラブホのことだったの!?」
……あれ?
「アタシはてっきり普通のビジネスホテルかと……。ラブホってことはやっぱり……っ」
もしかして俺、墓穴掘っちゃいました?
いや待て。落ち着け俺。まだ挽回の余地はある。
「落ち着け氷室。ラブホってのは女子会にも使われるらしいんだ。つまり、ちょっと話をするために俺と白鳥がラブホを利用してもなんらおかしいところはない!」
「そ、そうやって白鳥をラブホに誘ったんだ……」
まずい。どう理由をつけても信じてもらえる様子じゃないぞ。
氷室は焦りを抑えようとしているのか、サイドテールの髪をいじっている。けれど視線があっちこっちへと落ち着きなく動き、全然平静ではなかった。
「べべべ、別に……晃生がそういう人だって、アタシわかってるし……。うん、晃生がそうしたいなら、文句なんか言わないし……」
ええいっ、従順モードになるんじゃねえ!
「氷室」
「晃生が白鳥にその……したいってんなら……アタシは協力するし……」
「俺の話を聞けよ氷室!」
「は、はいっ」
語気を強めると、ようやく氷室は顔を上げた。
いくら言葉を重ねても届かない。だったら、俺にできるのは嘘ではないと態度で示すことだけだ。
姿勢を正して、真っすぐ氷室の目を見つめる。
「俺は白鳥とホテルに行った。それは事実だ。だがな、泣いていたあいつを慰めただけだ。それ以外のことは、何一つやっちゃいない」
嘘は言っていない。元気なムスコを見せつけたり、白鳥の裸を見たりはしたが、何もしちゃいないのだ。
俺の真剣さが伝わったのか、氷室がこくんと小さく頷いた。
「……なんか、晃生って本当に変わったね」
「言っただろ。俺はまっとうに生きるんだって。そのために以前の俺を変えていくんだ」
「青春のためだっけ?」
「そうだ。俺は高校生活を充実させたいんだよ。そのために、俺には氷室が必要だ」
「っ!?」
氷室は悶絶したみたいに足をじたばたさせる。
そう、氷室にも変わってもらわなければ困る。
原作で悪役だった郷田晃生と氷室羽彩。この二人が変わってもらわなければ、安心して青春なんぞ送れるわけがない。
もし俺が郷田晃生の意識に負けてしまった時。今の氷室では言いなりになってしまうだけだろう。
そうならないように氷室のことも変えてみせる。彼女にも素敵な青春ってやつを送ってほしいと、心の底から思うから。
「ああっ! 晃生の枕に口紅の跡が……。やっぱり女を連れ込んでいるんだ」
「……それ、さっきお前が顔を埋めた時についたやつじゃないのか?」
「あ」
アホな氷室を変えるには、相当骨が折れそうだった。