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114.悪役は甘えん坊

 母さんと最後に一緒に食事したのはいつだろうか?

 あの事件の後も、俺と母さんは一緒に暮らしていた。でも明るい雰囲気が戻るなんてあるはずもなく、互いに塞ぎ込んでいたように思う。

 親子といえど、そんな空気に耐えられるはずがない。俺が小学校低学年の頃だったろうか、ついに母さんが限界に達した。

 それまで一緒に食事した機会はあった……ような気がする。でも思い出せない。きっと、あまり良い記憶ではないのだろう。


「あ、晃生くん? どうしたの?」

「え?」


 気づけば対面で美味そうにビールを飲んでいたはずのさなえさんが狼狽していた。

 どうしたの? って、こっちが聞きたいのだが。


「気づいていないの? 晃生くん……泣いているわよ」


 言われて目元に手をやれば、確かに濡れた感触があった。


「あ、あれ?」


 今度は俺が狼狽してしまう。

 郷田晃生が涙を流すなんてあり得ない。だって元は漫画の悪役で、主人公が好きになった女を寝取りまくる最低男なのだ。血も涙もないと言われても、納得できるだけの所業を予定していた男なのだ。

 なのになぜ……涙が出るのだろうか? こんな女々しい現象が起こるはずがない。俺に限って人前で涙なんか流すはずがないのに……っ。


「め、目にゴミが入ったんだろうよ」


 目をゴシゴシと擦るのに、いつまでも濡れたままだった。いくら拭っても止まらない涙に、感情が遅れて込み上げてくる。

 悲しかった、悔しかった、そんな単純なもんじゃない。複雑でグチャグチャになって、自分でもどんな感情なのか言葉にならない。それでも何かしら吐き出そうとしているのか、涙がとめどなく流れ続けた。

 声にならない。身体が勝手に震えて、こんな大きい身体がやたらと小さく感じた。


「晃生くんっ」


 対面からガタッと物音が聞こえた。そして、頭を引き寄せられて抱き締められた。


「大丈夫。大丈夫よ……」


 安心できる声だった。胸がぽかぽかするような、優しさに満ちていた。

 さなえさんは柔らかくて良い匂いがした。ほっとさせてくれる匂いに顔を埋めたくなる。


「我慢しないで。泣いてもいいのよ。私は大人だから、受け止められるわ」


 俺の女たちにはない安心感。親子ほどの差があるからこそ、心の中でせき止めていた力を抜くことができたのかもしれない。


「うあ……うああああっ!」


 さなえさんの胸の中でわんわんと声を上げて泣いてしまう。

 悪役のくせに。男のくせに。高校生のくせに。でかい図体を丸めて、まるで子供のように大人の胸に抱かれて泣いた。

 みっともねえ。本当にみっともないと思うのに、我慢せずに泣いていると、段々と心がすっとしていく。

 それが本当に心地よくて……。俺は泣き止むまでさなえさんに甘えたのであった。



  ◇ ◇ ◇



「いきなり泣いたりしてすんません……」

「い、いいのよ……」


 ようやく泣き止んで、落ち着くために俺たちはソファで隣り合って座っていた。

 気恥ずかしさから俺は顔を逸らし、さなえさんはそんな俺をチラチラと見ている。


「あ、晃生くんって……その……けっこう甘えん坊さんなのね」

「……うっさいっす」


 この人はなんてことを言うんだ。ちょっと胸に顔を埋めて頭をよしよしと撫でられながら泣いていただけじゃねえか。……さなえさんの胸元が俺の涙でぐっしょり濡れたことについては申し訳なさしかないが。


「ふふっ、晃生くんはもっと大人っぽいのかと思っていたわ」

「俺はただの年頃の男子っすよ。泣きたい時くらいあります」

「そうよね。ごめんなさい……」


 さなえさんがしゅんとする。なんだか俺がいじめているみたいで居心地が悪い。


「まあ、いいっすけど……」


 我ながら人の胸で泣いておきながら何様なのだろうか。だけど今は気恥ずかしさが勝っていて、ぶっきら棒にしか返せそうにない。


「……うふふ」


 不意にさなえさんが微笑んだ。その笑みは優しくて、柔らかい。


「……今のって笑うとこでしたか?」

「ふふっ。ごめんなさいね」


 口元に手を当ててまた笑うさなえさん。酔いが回っているのかよく笑う。だけど、そんな彼女の笑顔を見ているとこっちも笑えてくる。


「……やっと笑ったわね」

「え?」

「晃生くん、ずっと怖い顔してたから」


 親のこと、過去のこと。それらが俺の感情をかき乱して表情を繕う余裕すらなかった。

 たくさん泣いて、笑えている自分がいて……。少しだけ自分を取り戻せたような気がする。


「晃生くんが今悩んでいることって……梨乃や日葵ちゃん。他の子には言えないことなのかしら?」

「いえ……」


 普通の悩み事なら打ち明けたい。俺が逆の立場なら力になりたいと思うから。

 けれど弱いところを見せたくない気持ちもあった。俺の女たちを「守る」と言った手前、簡単にはカッコ悪いところを見せたくない。


 ……いや、違うな。

 俺は怖いのだ。母を苦しめる原因を作ったのは俺だ。その事実を知れば、あいつらが失望するんじゃないかって……それが、とてつもなく怖いんだ。


「強がってるわけじゃないんすよ。悪いことをしたのは俺だから……。そのことをあいつらに知られて、失望されたくなくて……。ただ自分可愛さに俺は……っ」


 ……そうか、結局俺は自分のことばっかりなんだ。

 あの時は母さんがひどい目に遭っているのに怖くて動けなかった。今は俺の女たちに失望されたくなくて、過去を話せないでいる。

 自分が傷つきたくなくて何もできやしない。いつまで経っても、俺の性根は変わらねえ……。


「んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはぁーっ!」


 落ち込む俺をよそに、さなえさんはビールを飲んだ。全部飲んだらしく、ローテーブルに置かれたビール缶が軽い音を立てる。

 そして、頭を抱きかかえられた。大柄な男が抵抗もなく倒れるとは思っていなかったのか、さなえさんは俺の頭を抱えたまま後ろへ倒れ込む。

 俺たちはソファの上で重なり合う。さなえさんの心臓の音が聞こえる。ちょっとビール臭くて、緊張感を和らげた。


「……私、酔っ払っちゃったみたい」

「そ、そうっすか」

「だからね……晃生くんが何を話したって、夜が明ける頃には忘れてしまうわ」

「……そうっすか」


 さなえさんの優しさに、目頭が熱くなった。

 彼女は俺の母親ではない。なのにここまでしてくれるのか……。娘の彼氏だからって、本当の母親だってこうまでして俺なんかの手を取ろうとはしてくれないだろう。


「……俺、小さい頃は母親と二人で暮らしていたんですよ」


 これが甘えだとしても、俺は吐き出すものを止められずにはいられなかった。


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