目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

52.赦しの境界

静かだった。

耳に届くのは、自分の呼吸音だけ。


体が重い。まぶたの裏に、ぼんやりと赤い残光が揺れている。


(ここは・・・?)


意識が浮上する。ゆっくりと、現実に戻ってくる。


 ベッドの感触。窓辺の風の音。遠くで鳥の鳴く声。

それらが少しずつ、私の知覚を目覚めさせていく。


「目が覚めたのね、アリアさん」


穏やかな声がした。

顔を向けると、保健室の先生が椅子に座っていた。私の傍に付き添ってくれていたらしい。


「・・・私、どれくらい寝てたんですか?」


「三日間です。あなたは魔力が完全に枯渇し、倒れた・・・かなり無茶をしましたね」


 その声は、とても心配の色が強かった。


「・・・リーネは?」


「無事です。記憶の檻がどういう作用をもたらしたのか、詳細までは分かりませんが・・・彼女はあなたを守るために、氷の結界を展開しました。それがなければ、あなたは・・・」


私はうなずいた。思い出す。

最後の瞬間、リーネが伸ばしてくれた手。あの手のひらの温度と、泣きそうな声。


(・・・なんで助けるのよ)


 怒りの混じった問いは、心の奥に沈んでいった。


「彼女、何か言ってました?」


 先生は少し迷ってから、小さな封筒を差し出してきた。


「手紙を預かっています。アリアさんが目を覚ましたら、渡してほしいと」


受け取ったそれは、私の名前が震えるような筆跡で書かれた封筒だった。

封を開けると、折りたたまれた紙が一枚。




『 アリアへ


ごめんなさい。全部、思い出した。

前の世界のこと。あなたのこと。

毎日毎日、苦しんでたあなたの声。

「やめて」「助けて」って声。


あのとき私は、笑ってた。

助けようともしなかった。

私は、あなたをいじめてた。

あなたの尊厳と人生を壊す加害者だった。


なのに、この世界で何も覚えてなかった。

そんな自分が、怖い。

なんで、覚えてなかったんだろうって思う。


私はきっと、あの時のことをなかったことにして、逃げてたんだと思う。

あなたと、私自身の痛みから。


でも、あなたの魔法で思い出した。

私は、あの世界で確かにあなたを・・・「殺した側」だったんだって。


だから、もう逃げない。

あなたの前からも、記憶からも。


いつかあなたに、ちゃんと謝りたい。

許されないことなのはわかってる。でも・・・それでも、私は謝りたい。


こっちの世界で、今度はあなたの命を救えてよかったって思ってる。


許して、とは言わない。

ただ、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。



リーネ・シュトラウス・・・かつての野々村愛美より    』







 涙は出なかった。でも、心が静かに、締めつけられるようだった。


覚えてなかった。思い出した。

どちらにせよ、リーネの罪には変わらない。

でも、彼女はそれを逃げずに書いてきた。


 私は手紙をそっと胸にしまい、目を閉じた。


憎しみと怒りは、まだ胸にある。

でもそれは、少しだけ、形を変えた気がした。


(・・・あんたは、忘れてなかったんだね)


ならば、次は私の番だ。


私は、またリーネと向き合わなければならない。

ただの怒りじゃなく、もっと深くて、複雑な感情を抱えたままでも──それでも。


目を開けると、明るい日の光が差していた。





 学院の中庭。

午後の光が、雪をやわらかく照らす。

私は、そこに立っていた。


歩き出すのが、少しだけ怖かった。

でも、逃げる理由はもうなかった。


 向こうからリーネが現れた。

制服の裾を握りしめ、うつむいたまま、ゆっくりと近づいてくる。


その背後には、ユエがいた。小さくうなずいて私に目配せをし、そっと距離を取る。


 私は歩み寄り、リーネの前で足を止めた。


「・・・来たんだ」


私の声は、思ったよりも落ち着いていた。

それに対してリーネは、顔を上げることすらできないようだった。


「アリア・・・いや、三春・・・」


 震える声。目元は赤く腫れ、頬には乾いた涙の跡。

私は一歩だけ前に出た。


「全部・・・思い出したの」


リーネは、しっかりと顔を上げた。

泣いていたけど、目は逃げていなかった。


「私・・・あの時、ユエ・・・じゃなくて、芽依さんが突き落とされたの・・・見てた。三春さんが、机に落書きされて、毎日無視されてたのも、知ってた。止められなかった。怖かったし、見て見ぬふりをしてた」


 ぐす、と彼女は涙ぐんだ。


「なのに、あなたが屋上から飛び降りたって聞いた時 ・・・ほっとしたの。“終わった”って・・・思っちゃった。最低だって、今なら分かる。でもその時は、それすら思わなかった・・・」


声がかすれた。


「思い出したら・・・止まらなくて・・・怖くて、苦しくて、吐きそうで・・・でも、それ以上に・・・申し訳なかった」


 そこで彼女は深く頭を下げた。地面に、額が着くほどに。


「ごめんなさい・・・!本当に、ごめんなさい・・・!あなたと芽依さんを殺したのは、私です。私も・・・間違いなく、あなたたちを殺したんです・・・!」


涙が雪に落ちていく。

静かな、悲しい音だった。




 ──私は、何度もこの瞬間を想像した。


思い出してくれたら、苦しんでくれたら、後悔してくれたら・・・

少しは、楽になれると思ってた。


でも、現実は違った。

痛みは、消えなかった。

彼女の涙を見ても、叫びを聞いても、胸の奥の冷たい感情は、まだそこにあった。


 それはきっと、ユエだって同じだ。


「・・・許すって言ったら、楽になる?」


私は静かに言った。


「“ああ、やっと赦してもらえた”って、思える?」


 リーネは答えられなかった。ただ、震える唇を噛んだ。


「無理だよ。私は、死んだんだよ。あの日、屋上から飛び降りて。“もう終わらせたい”って、思ったんだよ。それは・・・いまさら『ごめんなさい』で帳消しにできることじゃない」


 私は、リーネの真正面に立つ。

そして──そっと、手を伸ばし、その肩に触れた。


「でも・・・」


その続きを言葉にするまでに、少しだけ時間がかかった。


「少なくとも、“殺してやる”って思ってたほどの憎しみは・・・もう、今はない」


 リーネが顔を上げる。赤く腫れた瞳が、私を見た。


「・・・あんたを許すなんて、まだできない。たぶん、ずっとできないかもしれない。でも・・・もしかしたら、いつか。“もういいよ”って、言える日が来るかもしれない」


私はそこで、一度だけ目を閉じた。


「・・・それまで、あんたは自分と向き合い続けて」


 リーネは、何も言わなかった。けれど、深くうなずいた。

涙を流しながらも、まっすぐに。


その後ろで、ユエがそっと目を伏せた。


 彼女も、私も、愛美も、あの世界では“壊されて”いた。そして、決別したはずだった。

でも今、この世界でまた出会ってしまった以上、どこかで向き合わなければいけなかった。


それが、今日だったのだ。




 赦しは、まだ遠い。でも、復讐だけが答えじゃない。

そう思えるくらいには、私たちは生きてきた。


──それだけで、十分だった。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?