静かだった。
耳に届くのは、自分の呼吸音だけ。
体が重い。まぶたの裏に、ぼんやりと赤い残光が揺れている。
(ここは・・・?)
意識が浮上する。ゆっくりと、現実に戻ってくる。
ベッドの感触。窓辺の風の音。遠くで鳥の鳴く声。
それらが少しずつ、私の知覚を目覚めさせていく。
「目が覚めたのね、アリアさん」
穏やかな声がした。
顔を向けると、保健室の先生が椅子に座っていた。私の傍に付き添ってくれていたらしい。
「・・・私、どれくらい寝てたんですか?」
「三日間です。あなたは魔力が完全に枯渇し、倒れた・・・かなり無茶をしましたね」
その声は、とても心配の色が強かった。
「・・・リーネは?」
「無事です。記憶の檻がどういう作用をもたらしたのか、詳細までは分かりませんが・・・彼女はあなたを守るために、氷の結界を展開しました。それがなければ、あなたは・・・」
私はうなずいた。思い出す。
最後の瞬間、リーネが伸ばしてくれた手。あの手のひらの温度と、泣きそうな声。
(・・・なんで助けるのよ)
怒りの混じった問いは、心の奥に沈んでいった。
「彼女、何か言ってました?」
先生は少し迷ってから、小さな封筒を差し出してきた。
「手紙を預かっています。アリアさんが目を覚ましたら、渡してほしいと」
受け取ったそれは、私の名前が震えるような筆跡で書かれた封筒だった。
封を開けると、折りたたまれた紙が一枚。
『 アリアへ
ごめんなさい。全部、思い出した。
前の世界のこと。あなたのこと。
毎日毎日、苦しんでたあなたの声。
「やめて」「助けて」って声。
あのとき私は、笑ってた。
助けようともしなかった。
私は、あなたをいじめてた。
あなたの尊厳と人生を壊す加害者だった。
なのに、この世界で何も覚えてなかった。
そんな自分が、怖い。
なんで、覚えてなかったんだろうって思う。
私はきっと、あの時のことをなかったことにして、逃げてたんだと思う。
あなたと、私自身の痛みから。
でも、あなたの魔法で思い出した。
私は、あの世界で確かにあなたを・・・「殺した側」だったんだって。
だから、もう逃げない。
あなたの前からも、記憶からも。
いつかあなたに、ちゃんと謝りたい。
許されないことなのはわかってる。でも・・・それでも、私は謝りたい。
こっちの世界で、今度はあなたの命を救えてよかったって思ってる。
許して、とは言わない。
ただ、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
リーネ・シュトラウス・・・かつての野々村愛美より 』
涙は出なかった。でも、心が静かに、締めつけられるようだった。
覚えてなかった。思い出した。
どちらにせよ、リーネの罪には変わらない。
でも、彼女はそれを逃げずに書いてきた。
私は手紙をそっと胸にしまい、目を閉じた。
憎しみと怒りは、まだ胸にある。
でもそれは、少しだけ、形を変えた気がした。
(・・・あんたは、忘れてなかったんだね)
ならば、次は私の番だ。
私は、またリーネと向き合わなければならない。
ただの怒りじゃなく、もっと深くて、複雑な感情を抱えたままでも──それでも。
目を開けると、明るい日の光が差していた。
学院の中庭。
午後の光が、雪をやわらかく照らす。
私は、そこに立っていた。
歩き出すのが、少しだけ怖かった。
でも、逃げる理由はもうなかった。
向こうからリーネが現れた。
制服の裾を握りしめ、うつむいたまま、ゆっくりと近づいてくる。
その背後には、ユエがいた。小さくうなずいて私に目配せをし、そっと距離を取る。
私は歩み寄り、リーネの前で足を止めた。
「・・・来たんだ」
私の声は、思ったよりも落ち着いていた。
それに対してリーネは、顔を上げることすらできないようだった。
「アリア・・・いや、三春・・・」
震える声。目元は赤く腫れ、頬には乾いた涙の跡。
私は一歩だけ前に出た。
「全部・・・思い出したの」
リーネは、しっかりと顔を上げた。
泣いていたけど、目は逃げていなかった。
「私・・・あの時、ユエ・・・じゃなくて、芽依さんが突き落とされたの・・・見てた。三春さんが、机に落書きされて、毎日無視されてたのも、知ってた。止められなかった。怖かったし、見て見ぬふりをしてた」
ぐす、と彼女は涙ぐんだ。
「なのに、あなたが屋上から飛び降りたって聞いた時 ・・・ほっとしたの。“終わった”って・・・思っちゃった。最低だって、今なら分かる。でもその時は、それすら思わなかった・・・」
声がかすれた。
「思い出したら・・・止まらなくて・・・怖くて、苦しくて、吐きそうで・・・でも、それ以上に・・・申し訳なかった」
そこで彼女は深く頭を下げた。地面に、額が着くほどに。
「ごめんなさい・・・!本当に、ごめんなさい・・・!あなたと芽依さんを殺したのは、私です。私も・・・間違いなく、あなたたちを殺したんです・・・!」
涙が雪に落ちていく。
静かな、悲しい音だった。
──私は、何度もこの瞬間を想像した。
思い出してくれたら、苦しんでくれたら、後悔してくれたら・・・
少しは、楽になれると思ってた。
でも、現実は違った。
痛みは、消えなかった。
彼女の涙を見ても、叫びを聞いても、胸の奥の冷たい感情は、まだそこにあった。
それはきっと、ユエだって同じだ。
「・・・許すって言ったら、楽になる?」
私は静かに言った。
「“ああ、やっと赦してもらえた”って、思える?」
リーネは答えられなかった。ただ、震える唇を噛んだ。
「無理だよ。私は、死んだんだよ。あの日、屋上から飛び降りて。“もう終わらせたい”って、思ったんだよ。それは・・・いまさら『ごめんなさい』で帳消しにできることじゃない」
私は、リーネの真正面に立つ。
そして──そっと、手を伸ばし、その肩に触れた。
「でも・・・」
その続きを言葉にするまでに、少しだけ時間がかかった。
「少なくとも、“殺してやる”って思ってたほどの憎しみは・・・もう、今はない」
リーネが顔を上げる。赤く腫れた瞳が、私を見た。
「・・・あんたを許すなんて、まだできない。たぶん、ずっとできないかもしれない。でも・・・もしかしたら、いつか。“もういいよ”って、言える日が来るかもしれない」
私はそこで、一度だけ目を閉じた。
「・・・それまで、あんたは自分と向き合い続けて」
リーネは、何も言わなかった。けれど、深くうなずいた。
涙を流しながらも、まっすぐに。
その後ろで、ユエがそっと目を伏せた。
彼女も、私も、愛美も、あの世界では“壊されて”いた。そして、決別したはずだった。
でも今、この世界でまた出会ってしまった以上、どこかで向き合わなければいけなかった。
それが、今日だったのだ。
赦しは、まだ遠い。でも、復讐だけが答えじゃない。
そう思えるくらいには、私たちは生きてきた。
──それだけで、十分だった。