「・・・あれ、いま、何て言ったの?」
私の声が、風に消えそうなほど小さく響いた。
けれど、誰も答えられなかった。あの“影”の最後の声を聞いたのは、どうやら私だけだったらしい。
ライドが眉をひそめて言う。
「アリア、どうした?何か聞こえたのか?」
私は少しだけ躊躇してから、口を開いた。
「・・・フィア、って。そんなふうに聞こえたの。気のせいかもしれないけど・・・でも、なぜかすごく、懐かしい気がして」
その名に、心の奥底がざわつく。
まるで、自分でも忘れていた記憶が呼び起こされそうになるような、奇妙な感覚だった。
マシュルが静かに言う。
「もしかすると、あの影はアリアに・・・アリアだけに何かを伝えようとしてたのかもな」
「それって・・・私にだけ、何か“繋がり”があるってこと?」
「そうかもね。あいつ・・・今思うと、アリアのことを見てた。最後の最後まで」
シルフィンの言葉に、私は無言でうなずいた。
確かに、あの“目”──あの黒い光は、私を見ていた。
まるで、何かを思い出させようとするように。
そして同時に、ひとつの疑念が私の中で静かに芽吹いていた。
──“影”は敵なのか?
それとも、“敵にされた存在”なのか?
その答えはまだ、霧の中だ。
「・・・ありがとう、みんな。怖かったけど、少しだけ・・・前に進めた気がする」
私がそう言うと、三人はそれぞれに笑ってくれた。
「次に来ても、僕らは負けない。なあ、アリア」
ライドが拳を差し出す。
「うん、絶対に」
私も拳を合わせた。その手のぬくもりが、夜の冷たい空気に染み込んでいく。
シルフィンとマシュルも、それに続いた。
影の気配はまだ、完全には消えていない。
だけど今は──この四人なら、きっと乗り越えられる。
そんな確信が、私の胸に灯っていた。
(フィア・・・?)
頭の奥がわずかに軋む。どこかで聞いた気がする。
でも、それは私──三春だった頃の記憶にはなかった。
むしろ、今のアリアとして生きてから、夢のどこかにあったような──いや、もっと前?
火の中で、誰かが私の名を呼んでいた──そんな幻のような記憶が、ふと浮かぶ。
「・・・“フィア”って、誰か知ってる?」
私が問いかけると、三人は顔を見合わせて首を振った。
「いや、知らない名前だな。学院にそんな名前の子もいなかったと思うだし」
「うーん、聞いたことない。文献とかにも・・・私は見たことないな」
シルフィンとライドが即座に答える。
マシュルも静かに考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「・・・でも、“名前”を呼ぶって、何か意味があるよな。名前には力が宿る。魔術的にも、精神的にも」
「確かに、それはそうだ。つまり、あれは私に“呼びかけていた”・・・?」
私がそう問いかけると、シルフィンが険しい顔で頷いた。
「ただの敵意や攻撃じゃない。もっと、個人的な・・・執着に近い何かを感じたよ。少なくとも私はね」
(執着・・・?私に?)
心の中に、冷たい何かが滴り落ちる。
あの“目”が、私だけを見つめていた理由──それは、私と“フィア”の名前に何らかの因果があるから?
だが、その真相は今の私にはわからない。
ただ、ひとつだけ確かなのは──あの“影の精”は、進化していた。
そして明確な意志を持ち、私たちを「見ていた」。
「・・・気を抜けないな、これからも」
ライドがそう言うと、誰も異を唱えなかった。
この世界の中に、“現実の影”が入り込もうとしている。
サラの悪夢は、ただの予兆に過ぎなかったのかもしれない。
そして、“フィア”という謎の名前が示すもの──それは、私の運命と、もうひとつの何かを示しているのかもしれない。
(・・・サラ、何か知っているかも)
私は心の中で、彼女の名を呼んだ。
次に訪れる“影”の気配が、もう背後まで迫っていることを感じながら。