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73.炎が選んだ記憶

 もうもうと燃え盛る炎。その向こうに、”彼女”の姿が浮かび上がっていた。

赤い瞳。長く流れるような髪。そして、その手の中に揺れるのは、私が知らないはずの、けれど確かに覚えている“焔”。


「あなたは・・・」


声を出そうとした瞬間、世界が弾けた。焼けるような光とともに、視界が白く包まれる。




「お前は・・・まだ、私ではない・・・」


 最後に、そうとだけ聞こえた。





 目を覚ました時、私は母の部屋にいた。

額に布が乗せられ、頬にはうっすらと涙の跡が残っていた。


「気がついたのね」


聞き慣れた、しかし妙に張り詰めた声。

顔を上げると、母が椅子に座ってこちらを見つめていた。その手には、見慣れない古びた本が握られている。


「・・・これは?」


「あなたが夢の中で“フィア”と呼んだ相手。その名前が刻まれた、唯一の記録。昔、ゼスメリアに在学していた頃に見つけたもの」


 私はごくりと喉を鳴らした。母の赤い瞳が、どこか遠い過去を見つめるように細められる。


「私はずっと悩んでいたの。あなたが、私の娘であると同時に、“あの始まり”を継ぐ存在なのではないかと」


「始まり・・・?」


「ええ。・・・フィア・ベルナード。かつて生きていた炎の魔女で、邪神ガラネルが現れるまでの五百年間、唯一この世界を脅かした存在よ」


 心臓がどくんと跳ねた。

その名前に覚えはない。けれど、心のどこかが、強く反応する。


「でも、彼女が“ただの破壊者”だったとは、私はどうしても思えなかった。そしてこの書物を読んで、確信したの。フィアは、ただ怒りに駆られて世界を焼いたのではない」


母の手が、魔導書を撫でる。


「彼女は、何かを守ろうとしていた。誰かを、救おうとしていた。炎でしか守れないものが、きっとそこにあったの」


「・・・。もしかして、私はフィアの生まれ変わりなの?」


 そう尋ねると、母は小さく首を振った。


「わからない。でも──血は、確かに繋がっている。あなたは、フィアの“意志”を継いでいる。けれど、フィアではない。アリアはアリアよ。・・・それに、彼女の血を引いているのは私だって同じ」


静かな時間が流れた。


私は、ゆっくりと布団を起き上がった。

瞳の奥に、まだ燻るような熱を感じる。


「・・・夢を見たの。夢の中に、彼女がいた。彼女は・・・“お前はまだ私ではない”って言った」


 母は驚いたように眉を上げた後、小さくうなずいた。


「彼女は、あなたに何かを託そうとしているのかもしれないわ。過去を終わらせるために。あるいは・・・未来を変えるために」




 夜風が、窓の隙間から入り込む。

私はそっと目を閉じた。炎の記憶が、遠いどこかで軋むように揺れている。


けれど、私は私だ。

フィアでもない。母でもない。

私は、アリア・ベルナード。

この炎は、私のものだ。


「ありがとう、母さん」


 そう呟いた私の声に、母は言葉なく微笑み返した。





 それから数日、私は体調を崩したまま学院を休んだ。

いつの間にか外には雪が降り積もり、季節は冬になっていた。


熱は下がっていたのだが、体の芯に残る“焦げたような感覚”が抜けなかった。

夢の中のフィアの言葉が、何度も耳の奥で反響する。


 ──お前は、まだ私ではない。


 それが「いつか私がフィアになる」という意味なのか、それとも「私にはまだ至っていない」という意味なのか。


どちらとも取れる曖昧さに、私は不安と好奇心を抱えたまま日々を過ごしていた。




 その夜、私はまた夢を見た。

今度は、ただの幻影ではなかった。


私は灰色に染まった廃墟の中に立っていた。焼け焦げた柱、崩れた屋根、煤けた空。風に舞うのは灰と、誰かの泣き声のようなざわめき。


「・・・ここは・・・?」


 思わず口に出した声に、背後から応える声があった。


「この場所を、かつて“楽園”と呼んだ人々がいた」


振り返ると、赤い瞳に炎の衣、けれど前よりも少しだけ若く見える女性──フィアがいた。

彼女の顔には、どこか人間らしい迷いの色が残っている。


「焼いたのは、楽園?」


 私がそう問いかけると、フィアは黙って目を伏せた。そしてゆっくりと歩き出し、足元の瓦礫をかき分けるようにして手を伸ばす。


そこには、壊れた石碑があった。


──「ユスラ神殿」。

私はその名に見覚えがなかったが、胸の奥がひりつくように痛んだ。


「これは・・・?」


 フィアは答えなかった。けれど代わりに、風が炎の記憶を運んできた。




──祭壇の上に縛られた少女。

──祈る大人たちの狂信的な瞳。

──炎が上がるとともに、少女の叫びが夜を裂いた。




「・・・何これ・・・やめて・・・!」


 私は思わず耳を塞いだが、フィアの声が届いた。


「ここは、“希望”の名のもとに、罪なき子どもたちが捧げられ続けた場所」


「・・・っ」


「私が焼いたのは、救いの名を借りた“虐殺”。あの時、誰もそれを止めなかった。だから、私は・・・」


彼女の炎が、静かに舞った。

それは怒りではない。悲しみの炎だった。


「私は、楽園を焼いたのではない。私は、“偽りの神”を焼いたのだ」




 私はその言葉を、深く胸に刻んだ。


フィアの炎は破壊ではなかった。抗いだった。理不尽に抗い、誰にも届かぬ声を、世界に刻もうとした意志だった。


 ──この炎は、私のものだ。


私は夢の中で、再びフィアと向き合った。


「・・・私は、あなただけにはならない。でも、あなたの“痛み”は、ちゃんと受け取る。私の中で、生かす」


フィアは黙ってうなずいた。

その瞳に、ほんのわずかに安堵が浮かんだ気がした。


そして次の瞬間、景色は崩れ、私は再び目を覚ました。




 外はまだ夜。窓の外に、赤く滲む月が浮かんでいる。


──ユスラ神殿。

──偽りの神。

──供物として捧げられた子どもたち。




 私の中で、“フィアの過去”と“私の未来”が、少しずつ重なり始めている。



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