ある夜。
私は、珍しく一人でリビングに座っていた。
暖炉にはまだ火が灯っているけれど、どこか空気はひんやりとしていた。
母は、いつものように食事の準備を終え、私の向かいに座る。
真っ赤な長い髪をなびかせる横顔は、英雄とも伝説とも呼ばれる大魔女の面影よりも、今は“母”そのものに見えた。
「アリア。今日も、何かあった?」
私は少し迷った。けれど、このままじゃ駄目だと、心が告げた。
「・・・マティアって、どんな人だったの?」
母の手が止まった。スプーンが静かに皿の縁に触れ、乾いた音を立てる。
視線が一瞬揺れ、またすぐに戻ってくる。
「・・・どうして、急にそんなことを?」
「夢に出てきたの。“マティアに似た”存在が、私に何かを語りかけた。あの影は・・・ただの幻じゃない。確かに“意志”があった」
母の瞳が細くなる。その色は、まるで炉に潜む金属の熱のようだった。
「・・・マティアは、“闇の魔女”だった。それ以上を知る必要はない」
「でも、それだけじゃない。“選ばれなかった”って・・・あの影は、そう言った。まるで、何かが歴史から切り捨てられたみたいに」
母の表情が、わずかに揺れた。
けれどすぐに、静かに首を振る。
「アリア。あなたはまだ幼い。世界には、知らなくていい闇もある。記録に残されないのは、理由があるの」
その言葉は、優しいようでいて、はっきりとした“拒絶”だった。
でも私は、もう止まれない。
「最近、マシュルの様子がおかしいの。なんだか体調を崩しているみたいで、何日も学校を休んでる。・・・もしかしたら、あそこで“闇”に触れたのが関係あるんじゃないか、って思って」
「あら、マシュルくんが?」
母の瞳が、初めて揺れた。
そして、低く呟くように言った。
「・・・マティアの“封印”は、私たち八人の魔女によって施された。でも彼女だけは、最後まで“完全には”封じられていない。彼女は、自ら望んだ。“名も記録も要らない。ただ、真実を残せる場所に還る”と。だから、あの封印には綻びがある。共鳴が起きても──不思議じゃない」
「じゃあ、やっぱり・・・!」
「でも、それがマシュルに直接及ぶとは思っていなかった。彼が“器”を持っていたとは」
私はその言葉に、全身が凍りつくような感覚を覚えた。
「器・・・?」
母はゆっくりと立ち上がり、棚から小さな本を一冊取り出した。
それは、革表紙の古びた日誌のようだった。魔力の封がかけられており、家族以外は決して開けないようになっている。
「この中に、マティアの記録が残っている。八人の魔女の中で、彼女だけが記録を禁じられ、同時に最も深く“神魔戦役”に関わっていた」
「見ていいの?」
「・・・覚悟があるなら。けれど、一度読んだらもう、昔のようには戻れない」
私は、その本に手を伸ばした。
(マシュルが危ないなら・・・私が、知らなくちゃいけない)
掌に触れた革の表紙が、かすかに熱を帯びていた。
それは、遠い昔に失われた魔女の記憶──いまだ封じきれぬ“闇”の中へと、私を招いているようだった。
夜が深まり、窓の外は、まるで墨を流したような闇に包まれていた。
部屋の中には灯火石だけが淡く光り、その下に一冊の古びた書物が置かれている。
母が、渡してくれた本。
題名も著者名も書かれていないその本は、まるで時間の彼方から流れ着いた“封印された記憶”のようだった。
私はゆっくりとページをめくる。
かすれたインク、古い文字で綴られた文章の間に、いくつもの断片的な記録が浮かび上がっていく。
“邪神ガラネルに立ち向かう我らは、「世界に属する力」によって構成されるべきと決断した。”
“光と闇は、ともに根源にして対極。だが、闇は──『この世界のものではない』。”
「この世界のもの、じゃない・・・?」
それはつまり、“初めから居場所がなかった”ってこと・・・?
私は思わず声を漏らした。“闇”の魔法というのは、この世界に確かに存在するものだからだ。
ゼスメリアでも、闇魔法を専攻する子も多くいる。
本のページをめくっていくと、“ある人物”の記述だけが曖昧にされ、何かに塗り潰されていた痕跡がある。
誰かが、意図的にその名前と存在を消そうとしたのだと分かる。
それでも、わずかに残された筆跡があった。
“マティアの力は、確かに我らの戦いに不可欠であった。”
“だが、ガラネルと対峙するその力は、時に“共鳴”し、境界を曖昧にする。”
“やがて彼女は、世界のために『己ごと封ずる』という選択をした。”
指が止まる。
“共鳴”。──あの言葉がまた、現れた。
ページの端には、誰かの手書きのような補足がある。インクが新しい。
> “彼女は「選ばれなかった」のではない。”
“「受け入れられなかった」のだ。”
その存在が、あまりに大きく、あまりに異質だったから。
・・・私たちは、彼女を恐れたのだ。
静かな怒りのような、深い哀しみのような筆跡だった。
私はそのページに手を置く。言葉では言い表せない感情が、胸の奥でじわじわと熱を帯びる。
マティアは、戦った。誰よりも深く、邪神に近づき、そして・・・世界を救った。
けれど、その功績も名前も、光の下には置かれなかった。
「・・・“闇”だから?」
ぽつりと、私は呟いた。
「“世界のものじゃない”から・・・?」
その問いに答える者はいない。ただ、静かな闇が部屋を包んでいる。
私はそっと本を閉じた。その表紙に、まるでそこに名があるかのように指先を置き──そっと呟いた。
「・・・マティア」
その名を、口に出してみる。
一瞬、空気がふるりと揺れた気がした。
どこか遠くで、誰かが微笑んだような──そんな予感が胸に差し込む。
私は目を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「・・・私は、忘れたくない。たとえ世界が“なかったこと”にしても、私は──」
風が、部屋のカーテンを揺らした。
“何か”が、私の決意に静かに応えたかのように。