『シヴァ。ねえ、聞いてる?』
名前を呼ばれてはっと視線を上げる。
懐かしい風景だ。海沿いの喫茶店、ここはテラス席だ。
目の前には懐かしい恋人がいる。
彼女は長い黒髪をゆったりと結い大きなピアスをしている。
緑色の瞳と目が合って、ああと頷いた。
『聞いてなかったわけじゃない。君が綺麗だから、ついね。』
『もう、また。』
彼女はまんざらでもなさそうに微笑むと頬杖をついてカップに口を付けた。
『そういえば…まだ聞いてなかった。』
シヴァの口がそう呟く。意識とは関係ないのは夢だからだろう。
『うん?』
『これからのこと。返事を聞かせてもらいたい…その、俺と一緒に暮らすかどうか。』
そうだ、これは。シヴァの気持ちがどんよりと重くなる。
彼女は眉をひそめると悲しそうに微笑んだ。
『それ…ね。シヴァ、私はヴァンパイアにはなれないし…それに永遠に生きるというのはわからない。』
『うん。』
『あのね、私、これからオペラ歌手になるわ。もう契約もしたの…シヴァとこのまま関係を続けてもいいのかも知れない。でも、公に出て私だけが時間を過ごしていくのは辛い。』
シヴァはテーブルの上で両手を組む。まるで祈るような気持ちだ。
『俺は君と一緒に過ごしたいと願っている。』
小さな囁きは彼女の耳に届いただろうか?
彼女は苦しそうに片手を口元に当てると俯いた。
『あなたを愛しているのよ。』
大きな瞳から涙が零れ落ちる。
これが別れの言葉になった、そうだ、そうだった。
『俺は君を愛している。でも君が永遠を望まないなら仕方ない。』
『うん。』
あっけない終わり。シヴァは夢の中でもう一度繰り返している。
そうか、あの時あの歌を歌ったから…。
彼女はシヴァの両手を包むように両手を差し出した。
『ねえ、あの詩に私が曲を付けるわ。いつまでも大切に歌い続けるわ。私は永遠を選べないけど私の歌はあなたと永遠に生きるわ。どうか私を許して、シヴァ。』
『君はオペラ歌手だろう?あの詩はふさわしいのかな?』
シヴァが笑うと彼女は頷いた。
『平気よ。オペラ歌手がどのような歌を歌おうとも素晴らしいものになるわ。永遠に歌い継がれていくような、私とあなたのための、二人の子供のような。』
彼女が微笑む。
そうだ、どうして記憶は薄れてしまうんだろうな。
夢の中でさえも鮮明なのに、きっと目が覚めたら何もかも忘れてしまう。
愛している恋人のこの微笑すら。
シヴァは目を閉じた。本当はこのままこの時を永遠に過ごしていたいくらいだ。
それでも体は急速に目を覚まそうとしている。
はっと目を開けると白い天井が広がっていた。
そして胸の上にずっしりと重いものが乗っている。
シヴァは少し頭を上げてそれを見ると、見たことのある頭がそこにあった。
『カイル?』
かすれた声でそれを呼ぶ。
けれどそれは動くことなくよく見るとすうすうと寝息を立てていた。
もう一度横たわって胸の上のカイルをそっと撫でる。
手には暖かい温もりが伝わってきた。
シヴァはふうっと息を吐く。どうやら現実のようだ。
『あ、起きたの?』
開ききったドアからゼロが入ってくる。
『その子、目が覚めたとたん君の傍にいるって聞かなくてさ。とりあえず応急処置はしたけども、また寝ちゃったんだよね。君も同じだけど。』
『ああ、それで出来たのか?』
『うん、出来たよ。ベットの横に置いてある、飲んで。』
シヴァはカイルを起こさないようにして起き上がると、ベットの傍にある棚の上のカプセルを取り口に放り込んだ。
ぐっと飲み込み、少ししてから体の中をざわざわと熱気が上がってくる。
『うん、いいみたいだね?顔色も良くなった。』
ゼロはハハと笑い、傍の椅子に腰掛ける。
『その子起こす?少しだけ注射で入れたんだけど足りないと思うんだよね。』
『ああ、我々は口から飲む必要があるからな。』
『それは君だけだよ。』
シヴァはカイルの肩に触れるとそっと揺らした。
『カイル。』
ゆさゆさ揺らされてカイルは小さく唸るとゆっくり顔を上げた。
そしてシヴァを見ると少し青い顔で微笑み、でもすぐにその顔は泣きべそになった。
大きな瞳からぼろぼろと涙が零れる。
『大丈夫だ、心配をかけたな。』
『良かった。目が覚めたら知らない所であなたは倒れているし…ゼロさんは何か飲みなさいって言うし、怖くて。』
『ああ…ゼロ、お前説明しなかったのか?』
ゼロはハッとして破顔した。
『そういやしてないな。』
『まったく。』
シヴァはカイルの頭を撫でて微笑む。
『カイル、ゼロが君のために作ってくれたから飲みなさい。元気になる。』
カイルはゼロに視線を移す。
困り顔のゼロからカプセルを受け取ると口に放り込んだ。
ごくりと音がしてカイルが目を閉じる。そしてパチッと目が大きく開いた。
『どうだ?』
『あ、すごい。体がいつもと違う。』
カイルはにこにこしながら体を動かした。
シヴァは目の前のカイルがいつもと違うのに驚いて大きく瞬いた。
それに気付いてゼロがカイルに問う。
『ねえ、君はどれくらい血を飲んでなかった?』
『え?』
カイルはゼロに振り向くと斜め上に視線を上げて考える。
『多分…随分長い間。知り合いのお婆さんが生まれた時だから…、どれくらいかなあ。』
それでか、とシヴァは頷く。
カイルと出会ってから少量ではあったが食事に混ぜていたものの、元より足りていなかったんだ。
いつもどこかぼんやりしていたのは性格ではなく、これが問題だった。
カイルはシヴァのほうを向くと嬉しそうに微笑む。
『でも、良かった。何もなくて。』
『うん。』
シヴァの胸にカイルがもたれこむ。
今まであまりそうしなかったせいかシヴァの心臓が少し早くなった。
『じゃあ、これでオッケーね。ああ、良かった、良かった。』
ゼロは両手でパチパチと拍手をする。
『ああ、それで私はどれくらい眠っていたんだ?』
『ん?丸一日だね。時間にすれば。』
『そうか、ゼロ、今回はありがとう。礼を言う。』
シヴァが頭を下げるとカイルも同じように下げた。
『お礼なんていいよ、僕は君にお願いしたいしね。』
ゼロは嬉しそうにポケットに手を突っ込んで体を揺らす。
『君には僕の趣味に付き合ってもらう、わかってるでしょ?ね?』
ああ…とシヴァはうな垂れる。
そうだった…そんな約束をしたっけ。急いでいたから忘れていた。
『趣味ってなんですか?』
カイルはシヴァの顔を見つめる。
『いや、それはいいんだ。君は気にする必要はない。』
ゼロは嬉しそうに笑った。
『もちろん君もお願いしたいけどシヴァは怒るだろうから、今はシヴァだけ。』
シヴァは大きな溜息をつくとうな垂れた。