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第5話 元社畜、時間を持て余す

「飽きた」


 何度目かわからない言葉をつぶやく。ベッドに寝転がっていた慧人は、もう一度「飽きた」とつぶやくと上半身を勢いよく起こした。


(まさか何もしなくていい日常に飽きるなんて……これも全部会社のせいだ)


 色あせることなく脳裏に蘇る会社や仕事に舌打ちしたくなった。「せっかくの休日なのに」と思いながらベッドから下り、「そもそもこれって休日なのか?」と自分で自分に突っ込む。

 ブラック過ぎる会社のせいで、慧人はいつの間にか予定のない時間を楽しめなくなっていた。「マジか」と額に手を当てながら、広すぎるワンルームのような部屋をグルグルと歩き回る。気がつけば「これが一生続くのかよ」と顔をしかめていた。

 結婚相手の屋敷に来てから五日が過ぎた。「毎日寝放題だ」と喜んだのは最初だけで、三日目にはすでに飽き始めていた。毎日時間に追われるように仕事をしていたからか、することがないと不安で仕方がない。そのうち向こうの世界に置きっぱなしになっている仕事が気になり、ついにはパソコンに向かって仕事をしている夢まで見てしまった。


(どれだけワーカーホリックなんだよ)


 仕事がないと落ち着かないなんて洒落にもならない。あんなに大変だった仕事を懐かしいと思い始めている自分に笑いたくなった。このままじゃ病んでしまう。病みそうな社畜生活じゃなくなったというのに、今度はすることがなくて病んでしまいそうになるなんて冗談じゃない。

 ブツブツと文句を言いながら歩いていると、トントンとドアを叩く音がした。「来た!」と思い、返事をする前に自分からドアを開けに行く。


「……ケイト様、どうかされましたか?」


 廊下にいたのは毎日顔を合わせている執事の男だ。朝食の前には迎えに来て、終わった後には部屋まで送ってくれる。それどころかこうして昼食や夕食のときも必ず顔を見せた。その男が呆れたような表情を浮かべていることに気づき、「いや、なんでもないです……」と小声で答える。何かやることがないか聞かなくてはという気持ちが先走りすぎた。男の後ろに食事を載せたカートが見えて、慌てて塞いでいたドアの前を開けた。

 イケメンの結婚相手が言ったとおり朝食はダイニング……と呼ぶには広すぎる部屋で食べている。そのときテーブルに座るのはイケメンと自分だけで家族らしき人の姿はない。食事中、イケメンの背後に控えているのはこの男で、初日に自分を部屋まで案内してくれたときにトイレや風呂の説明をしてくれたのもこの男だ。おそらくあのイケメンに自分の面倒を見るように命じられているのだろう。


(イケメン直属の部下ってところか)


 五日経ったものの顔を合わせるのは結婚相手とこの男、それにメイドたちしかいない。彼らの中でもっとも話しかけやすいと思ったのがこの男だ。


(あのイケメンには声かけづらいんだよなぁ)


イケメンが過ぎるからか、それとも話しかけるなというオーラが出ているからか、結婚相手なのにどうも話しかけづらい。その点、執事の男は人当たりがいい雰囲気だからか話を聞いてくれそうな気がした。ということで、慧人は執事の男に暇潰しになる何かがないか訴えることにした。

 テーブルの上に昼食が並べられていく。今のうちに話をしようと男に近づいたところで、「そういえば名前、なんだったっけ」ということに気がついた。


(たしかフ……トス……やばい、思い出せない)


 外国人っぽい名前だったことは覚えていが思い出せない。開きかけた口を閉じたところで「ケイト様」と向こうから話しかけてきた。


「もしかしてわたしの名前、忘れてしまいましたか?」


 まさかの言葉にギクッとした。「いや、その、ええと……あはは」と笑って誤魔化したものの、とりあえず笑っておこうというのはあまりいい方法ではない。わかってはいるが名前すら覚えられない恥ずかしさと相手への申し訳なさで、ついへらりと笑ってしまった。そんな慧人を男がじっと見ている。


「ははは……あの、すみません」


 駄目だ、居心地が悪すぎる。大人しく頭を下げると、フッと息を吐くような音が聞こえた。一瞬「笑われた?」と思ったものの、顔を上げたときにはいつもどおりの表情に戻っている。


「ファントスですよ。覚えられなかったら“きみ”とか“おい”とかで結構です」

「いえ、大丈夫です。覚えます」


 神妙な顔でそう答える慧人に、男――ファントスがクスッと笑った。「やっぱりさっきも笑ったんだな」と思ったところで「あぁ、失礼しました」とファントスが表情を改めた。


「聞いていたケイト様とは違っているように見えたので、つい」


 その言葉に一瞬ドキッとした。「もしかしてばれたか?」と様子を窺うように顔を見るが、とくにそういった表情には見えない。それにホッとしつつ「気をつけないとな」と改めて肝に銘じた。


(中身が別人だなんてばれたら追い出されかねない)


 そうなれば住む場所を失ってしまう。異世界でホームレスになるなんて命を捨てるようなものだ。衣食住だけは守らなくては……そう決意したところでファントスが「何かご要望でも?」と口にした。


「え?」

「何か言いたいことがあって話しかけようとしていたのではありませんか?」


 にこりと笑う顔は、髪が黒色だからか日本人っぽく見える。そういうところも話しかけやすいと思った一因かもしれない。


(それにしてもよく気がつく人だな。香草が苦手だってことにもすぐに気づいたみたいだし)


 二日目の朝食で香草入りのパンが出た。おそらくバジルか何かだったのだろう。小さい頃から紫蘇やパクチーみたいな香りの強いものが苦手な慧人は、パンをちぎった瞬間似たような香りがして眉を寄せた。すぐに表情を改めてなんとか食べたものの、部屋に戻る道すがら「もしや香草が嫌いですか?」と尋ねられて驚いた。

 そんな優秀な執事なら現状をどうにかしてくれるかもしれない。淡い期待を抱きながら「じつは……」と口を開く。


「ベッドも食事も大変感謝しています。部屋は広いしお風呂もトイレもピカピカで不満なんてまったくありません。ただ、その……やることがないのがつらいといいますか、退屈といいますか……」


 口調が段々と仕事をしているときのようになっていく。こうしたお伺いを立てる相手は上司かクライアントしかいなかったせいか、仕事のときを思い出して胃がきゅうっと縮み上がった。しかも怒らせたら一発アウト、会社で椅子がなくなるよりひどいことになるのは間違いない。

 伏せ気味になっていた視線を少しだけ上げた。ファントスの表情は変わらないが返事もない。「やっぱり駄目か」と思いながらも口にしてしまった手前、じっと返事を待つ。


「そういうことを要求されるとは思いませんでした。やはり聞いていた人物像と違うようですね」


 思わず「そっちか」と目を瞑った。どうやら「ケイト」という人物は何も要求しないタイプだったらしい。ベルサイユ宮殿での家族の様子を考えればわかりそうなものなのに、退屈に耐えられず余計なことを言ってしまった。

 これじゃあ自分から「中身は別人です」と言ったようなものだ。思わず「ははは」と愛想笑いを浮かべたものの、ファントスの表情が変わることはない。


「ははは……あー……」


 笑みの形のままの頬が引きつっていく。「ホームレスまっしぐらか……?」と視線を伏せたところで「わかりました」と言われて慌ててファントスを見た。


「伺っておきます」

「あ、ありがとうございます」


 本当にいいのだろうか。自分が「ケイト」ではないと疑っていないのだろうか。探るような眼差しを向ける慧人に、「そういえば」とファントスが言葉を続けた。


「退屈していたのなら、なぜ部屋の外に出ようと思わなかったのですか?」

「え?」

「部屋から出てはいけない、とは言われていないと思いますが」


 指摘されてハタと気づいた。“お飾り”だとか“政略結婚”だとか考えていたからか、すっかり部屋から出てはいけないものだとばかり思っていた。


(そういや自由にしていいって言ってたっけ)


 もし部屋の外に出てもいいなら、ぜひそうしたい。いい気晴らしになるだろうし、これだけ大きな屋敷なら探検めいたことも楽しそうだ。問題は迷子にならないかだが、そこは毎日少しずつ探索範囲を拡げていけばいい。「なんだかRPGキャラになった気分だな」と思うと気分が上がってきた。


「そうしたところは聞いていたとおりで安心しました」


 ファントスの言葉に、「それじゃあ適当に歩き回ることにします」と言いかけた口を閉じた。こげ茶の目が静かにこちらを見ている。


「用意が整いましたので昼食をどうぞ」


 テーブルを見るとホテルのルームサービルのような食卓が完成していた。


「暇を持て余しているという件は伝えておきますので少々お待ちください」

「……お願いします」


 頭を下げると、フッと小さく笑われたような気がした。そのままファントスとメイドが部屋を出て行く。

 テーブルに着き、社畜のときには食べることがなかった彩り豊かな料理を眺めた。見た目は洋食っぽいが脂っこいことはなく、どちらかというと慣れ親しんだ日本の食事に似ている。慧人は料理を見ていた目をドアに向けた。


(もし勝手に部屋を出てたらどうなってたんだろうな)


 料理に視線を戻し、クロワッサンのようなパンを手に取った。一口かじるとバターの豊かな風味と小麦の香りがふわっと口の中に広がる。何層も重なったパンをしゃくしゃくと噛みながら、慧人は“お飾り”の意味が少しだけわかったような気がした。

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