「兄様、これなんですけど何の本かわかりますか?」
ジェレミがそう言いながらテーブルの空いているところに謎の本を置いた。おそらく食事の前に話したほうがいいと判断したのだろう。食事を終えるとすぐに食堂を出てしまうルイスに話を聞くなら、たしかにこのタイミングしかない気がする。
先に反応したのはファントスだった。ルイスの斜め後ろにいつもどおり控えているが、珍しく目を少しだけ見開いている。そんなファントスの気配に気づいたらしくルイスも本に視線を向けた。その目はすぐに細くなり、そのままジェレミへと向けられる。
「その本をどこで見つけた?」
「書庫です」
「おまえがか?」
「いいえ、ケイトお兄様です」
語尾に「えへん」と付くような誇らしげな声でジェレミが答える。それになんとも言えない気持ちになりながら、わずかに表情を変えたルイスを窺うように見た。
不意にルイスと視線が絡んだ。澄んだ碧眼が自分をしっかり見るのは初日以来で、金髪碧眼はジェレミで慣れたと思っていたのにやはりドキッとしてしまう。「相変わらずのイケメンっぷりだな」と思いながら身構えたのは何か言われるのではと思ったからだ。ところが予想に反してルイスの口が開くことはなく、しかし視線が逸れることもない。まるで見つめられているように感じた慧人の鼓動が段々と速くなる。
(ジェレミの笑顔も圧がすごいけど、イケメンは視線だけでもすごいな)
そもそもこんな美形に見つめられたことがない慧人は気恥ずかしくて仕方がなかった。もし自分が女性だったら一発で恋に落ちただろう、なんてことまで思ってしまう。
「本を見つけたというのは本当か?」
淡々とした声に膝に置いていた手に力が入る。「もしかして見たらまずい本なのか?」と思いつつ、こくりと頷いた。
「いつ見つけた?」
「さっきですけど……」
慧人の返事にイケメンが「ふむ」と考えるような仕草を見せた。やはり見てはいけない本だったのだろうか。それなら先にそう言っておいてくれればいいのに……そんなことを思いながら、次は何を言われるのだろうかと慧人が再び身構える。
「兄様、もしかして大事な本なのですか?」
兄の様子に感じるものがあったのだろう。ジェレミが不安そうにそう尋ねる。そんな弟にちらりと視線を向けたルイスが「これは精霊の本だ」と答えた。
「精霊の本、ですか?」
「精霊が書いた本だと言われている。まさかまだ書庫に残っていたとは思わなかった。すべて回収したと思っていたんだが」
「あ! もしかして兄様の書斎に移動させた本って、精霊の本だったんですか?」
やや興奮した様子で本を見るジェレミと違い、ルイスの表情は相変わらず冷たいままだ。その原因が自分にあるに違いないと思った慧人は眉間に皺を寄せながら理由を考えた。
(俺がこの本を見つけたのがまずかったってことか? ……そういや余計な詮索はするな的なことも言われたっけ)
しかし書庫に入っていいと言ったのはルイスだ。そのとき読んではいけない本があると言わなかったのもルイスで、今回のことは自分の落ち度じゃない。
(そうだ、俺が悪いんじゃない……はずなんだけど)
自分を見る鋭い碧眼に冷や汗が流れた。不機嫌なイケメンの顔がやけに恐ろしく見えるからか、愛想笑いを浮かべようとして失敗した。そんな慧人とは違い、ジェレミは「やっぱりルイス兄様はすごいですね!」と感嘆の声を上げている。
「見ただけで精霊の本だとわかるなんて、さすが玉条の血を引く兄様です! あぁ~、やっぱり兄様はすごいなぁ」
うっとりした眼差しで兄を見つめるジェレミの言葉に引っかかるものを感じた。「うん?」と内心首を傾げる慧人の隣で「僕の兄様が玉条の血筋だなんて、とても誇らしいです」とジェレミが頬を赤くしている。
(……そうか)
今の言葉で違和感の正体がわかった。「玉条の血を引く兄様」なんてわざわざ言うのがおかしいのだ。
(それって、まるで自分には玉条の血が流れてないって言ってるようなもんだよな)
だが、二人は兄弟だ。天使のようなジェレミと冷たい表情ばかりのルイスは雰囲気こそ違うものの、金髪碧眼の美形という点はよく似ている。
「それなのにルイスだけ玉条の血筋っぽく聞こえるのは……あ、」
部屋がしんと静まりかえった。「兄様はすごいです」と手を叩いていたジェレミも動きを止め、じっと慧人を見ている。
(これは……やってしまった、よな……)
時が止まったような空気に、触れてはいけない内容だったに違いないと悟った。どんなに寝不足でも仕事でこんな失敗をしたことはない。それなのになぜうっかり口を滑らせてしまったのだろう。生え際からタラリと汗が流れ落ちる。
おそるおそる向かい側のルイスを見た。これまでにないくらい強い眼差しでルイスがこちらを見ている。その後ろでファントスも自分を見ているが、若干呆れたような表情に感じるのは気のせいだろうか。ちらりと隣を見るとジェレミは不思議そうな顔をしていた。
「あー……いや、その、はは、ははは」
なんとも言えない雰囲気に思わず笑ってしまった。しかし慧人の乾いた笑いはすぐに消えてなくなる。あまりの居心地の悪さに頬を引きつらせていると、その様子を不思議に思ったのか「どうしたんですか?」とジェレミが首を傾げた。
「その、ルイス……様とジェレミは兄弟なのに、どうしてルイス様だけが玉条の血を引いてるみたいな言い方をするのかなぁと思って……いや、他人の家のことあれこれ詮索するのはよくないよな。うん、今言ったことは気にしなくていいから」
「もしかしてお兄様、知らなかったんですか?」
「え?」
隣を見ると、天使のような笑顔を浮かべながらジェレミが言葉を続ける。
「僕とルイス兄様は母親が違います。だから僕に玉条の血は流れてませんよ?」
告げられた内容に、笑顔を引きつらせていた慧人の表情が完全に固まった。「母親が違います」という言葉を反芻し、気まずい思いが一気にわき上がる。
「え? マジで……? いや、あの、ええと……無神経なことを言ってごめん」
「やだな、お兄様。みんな知ってることだから気にしないでください」
「みんなって……」
「お兄様が陛下の子だということと同じくらい、ルイス兄様と僕のこともみんな知っています。だから気にしないでください。僕に玉条の血が流れていなくても兄様の弟だというだけで僕はうれしいんです」
「それよりお昼を食べましょう!」というジェレミの声で話は終わった。ジェレミは本当に気にしていないのか、いつもどおり楽しそうに最近読んだ本の話をしている。ルイスのほうも相変わらず反応が薄いままでジェレミに視線を向けることもない。
(気まずいのは俺だけか)
いや、そのほうがいい。自分の不用意な言動のせいで空気が悪くならなくてよかった。慧人はホッとしながら精霊が書いたという本に視線を向けた。
(精霊が書いた本、か)
だから記号や楽譜のようなものが並んでいたのだろうか。不意に「チリン」という鈴のような音が聞こえた気がした。「あれ?」と思いルイスやジェレミを見るが、二人には聞こえなかったのか気にしている様子はない。
チリン。
また鳴った。その音が本から聞こえたような気がした慧人は、その後も音が聞こえるたびにチラチラと本に視線を向けた。
食事が終わると、立ち上がった慧人の手をいつもどおりジェレミが握った。そうして「お兄様、書庫に行くんですよね?」と言いながら手を引こうとする。ところが「待て」という声が重なりジェレミが動きを止めた。
振り向くとルイスがこちらに近づいて来るところだった。いつもなら食事が終わると何も言わずに食堂を出て行くのに、なぜかこちらをじっと見ている。
「ジェレミ、先に書庫に行っていろ」
一瞬きょとんとしたジェレミは、すぐに「はい、兄様」と笑顔を浮かべ部屋を出て行った。気がつけばファントスも片付けをしていた侍女たちもいない。二人きりという状況に嫌な予感がした慧人は、額にじわりと汗が滲むのを感じた。
「なぜ精霊の本を見つけることができた?」
やはり本のことか。食事中、本を見るたびに視線を向けられているような気がしたのは思い過ごしではなかったらしい。ルイスの碧眼が探るような眼差しで自分を見ている。
(下手に誤魔化さないほうがよさそうだけど……)
いや、そもそも誤魔化さなくてはいけないようなことは何もしていない。慧人は「たまたまです」とだけ答えた。
「では、なぜあの本に注目した?」
「こういう本は初めて見たので、変わってるなぁと思っただけです」
「本当におまえが見つけたんだな?」
「えぇ、まぁ」
やはり見つけたこと自体がまずかったらしい。「それなら事前に立ち入り禁止の棚とか言っておけよ」と思いながらテーブルに置かれたままの本にちらりと視線を向ける。それを遮るように「本当か?」と言いながらルイスが近づいてきた。
「本当です」
「どうやって見つけた?」
「だから、たまたま目に入って……って、あの、」
「たまたま? 本当に偶然見つけたのか?」
「そうですけど……あの、ちょっと」
一つ尋ねるたびにルイスが一歩近づいて来る。これだけのイケメンだとそばに近づいてくるだけで圧がすごい。思わず後ずさりした慧人だが、かまわず迫ってくるルイスから逃げようとして壁際に追い詰められてしまった。
一歩後ろに引いた踵が壁に当たる。もう後ずさりすることはできない。慧人は諦めるようにルイスを見た。
(……思ったより大きいな)
目の前に立つルイスは自分より頭半分ほど大きかった。身長だけでなく全体的に自分より一回りほど大きいからか、イケメン効果と相まって威圧感がすごい。
(ルイスが大きいのか、それとも「ケイト」が小柄なのか……)
薄々小柄なんじゃないかと思っていたが気のせいじゃなかったらしい。ドアの高さを不自然に感じたのは自分が縮んだからだと慧人はようやく理解した。
(向こうの俺はそこそこ身長があったんだけどな)
最後に測ったのは学生時代だが一七六センチあった。日本人の中では決して低いほうじゃない。「向こうの俺なら同じくらいの目線だったのに」と若干悔しいような気持ちになりながら顔を見ていると、ルイスがさらに一歩近づいてきた。
「見つけたのはあの本だけか?」
「そうですけど……」
顎を上げなければ視線が合わないほどの距離に戸惑いながら、イケメンの眼力に耐えられず慧人がへらりと愛想笑いを浮かべた。もちろんルイスが微笑み返すはずがなく、冷たい碧眼に見据えられて笑っていた唇がヒクッと震える。
「なぜ精霊に興味を持つ?」
「別に、精霊だけに興味があるわけじゃなくて……はは……」
鋭さを増すルイスの視線に「まずいな」と思い、つい逃れるように顎を引きながら視線を逸らした。
(そりゃあ興味はあるさ。なんたって向こうじゃファンタジーにしか出てこない存在だからな)
だが、調べようと思った理由はそれだけじゃない。ここで生きていくために必要な知識だと思ったからだ。
(いや、そうじゃなくて……どうしても気になって、気がついたらその手の本ばかり手に取ってるっていうか……)
いつの間にか気になって仕方がなくなっていた。本を読むことはただの暇潰しだったはずなのに、「精霊」の文字を見ると手に取らずにはいられなくなってしまった。
(だからって、なんでこんなに精霊のことが気になるのか自分でもわからないんだよなぁ)
わからないものは尋ねられても答えようがない。
慧人の目がウロウロとさまよい始めた。どう答えたらいいのか戸惑う様子が段々と動揺しているような仕草に変わる。そんな慧人を見るルイスの碧眼がますます冷たくなっていることにも気づかない。
視線を泳がせている慧人の顎をルイスが掴んだ。そのまま視線を合わせるようにグイッと持ち上げられる。
「おまえは誰だ?」
冷たい碧眼に、慧人の喉がごきゅっと嫌な音を立てた。