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第13話 疑われた慧人

「おまえは誰だ? ケイト・丹下青鏡ではないな?」


「これが噂の顎クイか」なんて思ったのは一瞬だけだった。問いかけているように聞こえるが、ルイスは明らかに「ケイト」じゃないと確信している顔をしている。慧人は頬を引きつらせながらそっと視線を逸らした。


(ジェレミと違って兄貴のほうは勘が鋭そうだよな)


 もしかすると自分が「ケイト」なのか最初から疑っていたのかもしれない。背中をツーッと汗が流れ落ちる。


「はは、何言ってるんですか? 俺はケイトですよ」

「本物なら“俺”とは言わないはずだ。それにその口調、丹下公の元で育った貴族子息とは思えない」


 指摘されて「しまった」と思った。たしかにベルサイユ宮殿みたいな屋敷に住んでいたお坊ちゃんが「俺」と言うのはおかしい。ジェレミが「僕」と言っているからかまったく気がつかなかった。


(いや、一人称以前の問題だろ。お坊ちゃんらしい口調なんて俺には無理だぞ)


 今さら取り繕ったところでルイスはますます疑いを強くするだろう。生え際から流れ落ちる汗がやけに生々しく感じられる。


「そもそもそんなに話すこと自体おかしい。わたしが知っているケイト・丹下青鏡はほとんど口を開くことがなかった。母親や弟を前にしてもだ」


 慧人はグッと唇を噛み締めた。


(父親から話を聞いただけじゃなかったのか)


 今のは直接「ケイト」を見たからこそ出てきた言葉に違いない。結婚前に会っていることくらい少し考えれば予想できたはずなのに、どうしてそこに思い至らなかったのだろう。さすがにデートはしなかったかもしれないが、対面でお茶くらい飲むことはあったはずだ。


(なんで気がつかなかったんだ)


 異世界という環境に思ったより緊張していたのだろうか。それとも結婚を諦めたアラフォーだから気づけなかったのだろうか。


(ははっ、経験値がなさすぎて気づけなかったってことか。なんたって恋人がいたのも学生時代が最後だしな)


 思わず苦笑いを浮かべそうになった。自虐的な言葉がいくつも頭に浮かんでは消える。


(結局、俺の人生どこにいてもこんな感じなんだな)


 いつも大事なところでつまずいているような気がする。学生時代、初めて付き合った彼女と別れることになったのもたった一度デートに行けなかったことが原因だった。その日は急なバイトのシフト変更でどうにもならなかった。彼女にとっては大事な日だったらしいが、事前に言ってくれなければわかるはずがない。


(でもって、今回は言葉遣いで失敗したってわけだ)


 そもそも異世界転移なんて最初から無理ゲーだったのだ。「ケイト」の記憶がないのになりきることができるはずもない。しかも「ケイト」はガチャでいえばハズレのようなものだ。それなのに必死になっても仕方ないじゃないか。そこまで考えた慧人の口元が自嘲で歪んだ。


(ハズレって……俺だってハズレみたいなもんだろ)


 そうだ、佐々野慧人だってハズレみたいな人生だ。俯きながら「はっ」と小さく笑った。それから歪めた口を真一文字に結び、「それでも」と奥歯を噛み締める。「それなら」と思い、グッと拳を握りしめた。


(ハズレも二度目なら、もう少しうまく生きることができるかもしれないよな)


 異世界に来てまだ一カ月かそこらしか経っていないのに諦めるのは早すぎる。それに「ケイト」は自分よりまだ若く、人生はこれからだ。ハズレの人生でも自分は「ケイト」より長く生きている。そのぶん人生経験を積んでいると考えればなんとかなるかもしれない。


(異世界に来てまでハズレの人生なんて冗談じゃない)


 ここで諦めれば異世界ホームレスまっしぐらだ。そんなことになれば間違いなく社畜生活よりひどいことになる。この国の常識すらわからない自分が無事に生きていくためにも今の生活をなんとしても守ってみせる。

 拳に力を入れ、文字どおり腹をくくるように下腹にグッと力を入れた。「俺はケイトだ」と何度も言い聞かせてからルイスを見る。まるで見据えるようなルイスの眼差しに一瞬たじろいだものの、ここで腰が引けるようじゃこの先やっていけるはずがないと気合いを入れ直した。


(これが一発目の夫婦ゲンカってやつだな)


 そう思うと少しだけ心に余裕ができた。「きっとなんとかなる」と言い聞かせながら、プレゼン前にいつもしていたように軽く深呼吸をする。そうして疑いの眼差しを向けているルイスを見つめ返しながら口を開いた。


「あなたがご存知のケイトは本物じゃありません。これが本当のケイトです」


 慧人の言葉にルイスが眉をひそめた。何を言い出すんだというように碧眼が細くなる。


「あの家で俺が本当の俺でいることができたと思いますか?」

「どういう意味だ?」

「俺は国王陛下の子どもです。たとえ城から追い出されたとしても、その事実がなくなるわけじゃありません。それはおわかりいただけるかと思います」


 ルイスの返事はない。


「人にはそれぞれの処世術があります。あの家で俺にできることは、あなたがご覧になったようなケイトとして生きることだけでした」


 これまでの「ケイト」がどんな人物だったかは知らない。たとえ知っていたとしても一生演じ続けるのは無理な話で、いずれ化けの皮が剥がれるだろう。


(それなら今の俺が本当の「ケイト」だと信じ込ませるだけだ)


 それにルイスが本当の「ケイト」を知っているとはどうしても思えなかった。家族とすら会話がなかった「ケイト」のことを、あの家族がどれだけ知っていたかも疑わしい。あの家で「ケイト」に興味や関心を持っていた人間がいたとも思えない。きっと本当の「ケイト」を知っている人は一人もいなかったはずだ。


(一世一代の大博打ってところだな)


 だが、本物を知らない相手になら勝算はある。「なんとかなる」と何度も言い聞かせながら拳を握る手にグッと力を入れた。


「以前の俺をご存知ならご理解いただけるかと思います。あれはあの家でのケイトです」

「では、今ここにいるのが本当のケイト・丹下青鏡だと言うのか?」

「はい」


 こういうときは自信たっぷりに言い切るほうがいい。人は堂々とした様子を見せられると「そうかもしれない」と思い始める。現にルイスも思案するような表情に変わった。


「それにしては人が変わりすぎているように思える」

「結婚とは人を大きく変えるものです。違いますか?」


 慧人の言葉に思うところがあったのか、ルイスが「ふむ」と考えるような様子を見せた。指の背を唇に当てながらじっとこちらを見ている。ここで視線を逸らせばまた疑われるだろう。慧人はバクバクする心臓をなんとか抑え込みながら碧眼を見つめ返した。

 部屋に静寂が流れた。どのくらい時間が経っただろうか。短いような長いような沈黙に、慧人の額にじわりと汗が滲む。


「なるほど、これが本来のおまえの姿というわけか」


 探るような碧眼に、耳の後ろを汗がツーッと流れ落ちた。


「以前見たときとはあまりに違うが、置かれた立場からあのような様子だったと言い切れなくもない。それに家族であっても本心を見せないのはよくあることだ」


 ルイスが一歩体を引いた。観察するような視線は変わらないが、睨むような眼差しではなくなっている。


「おまえが本物のケイト・丹下青鏡かどうかは一旦保留にする。本を見つけたのも偶然ということにしておいてやろう。見つけることができても読めないのであれば偶然の可能性も捨てきれないからな」


 いつの間にか強張っていた肩や腕からゆっくりと力が抜けた。とりあえず乗り切ることができたとホッとしたところで、「それにしても」と言葉を続けるルイスに再びドキッとする。


「二十三歳にしては物言いが不相応だな。そういえばジェレミも随分年上のような気がすると言っていたが、年長者というより商人のように聞こえなくもない」


 探るような眼差しに「マジか」と思った。


(こいつ、二十三歳だったのか)


 実際の年齢を聞かされると「とんでもなく若いな」と苦笑いしたくなった。自分よりも一回り以上年下の若者になりきるのは難しすぎる。二十代前半の金持ちのお坊ちゃんが何を考えているかなんて慧人には想像すらできなかった。


「まぁいい。今後はこれがケイト・丹下青鏡だと踏まえたうえで接することにする」


 言葉とは裏腹に碧眼は「疑っているぞ」と言わんばかりの様子だ。慧人はとりあえず「ははは」と笑って誤魔化すことにした。


(さて、どこまで信じてくれたかな)


 ルイスが本物の「ケイト」を知らなかったとしても、この国の人間じゃないことには気づかれてしまいそうな気がする。貴族なら知っていそうなことを何も知らないのだからばれるのは時間の問題かもしれない。


(いや、「ケイト」だってそんなに詳しくないかもしれないよな?)


 ジェレミから聞いた「ケイト」は世捨て人のようなイメージで、周囲のことに関心を持っているようには思えなかった。少なくとも“生気が薄い生き人形”のように感じていた周囲は「ケイト」が聡明で物知りだとは思っていなかっただろう。いくら読書家だったとしても知識人とは限らない。それなら何も知らない今の自分とあまり変わらないのではないだろうか。


(それならなんとかなるか……?)


 知らないことがあったとしても疑われないかもしれない。それなら、あとは自分が「ケイト」だと貫きとおせばなんとかなるかもしれない。

希望の光が見えたところで、ルイスがテーブルに置いたままの本を手にしたのが見えた。そのまま部屋を出て行こうとする背中に、思わず「その本、どうするんですか?」と声をかける。振り返ったルイスの表情にハッとした。


(どうして呼び止めたりしたんだよ、俺)


 今のはどう考えても悪手だ。それなのになぜか本のことが気になって、つい声をかけてしまった。自分でもどうしてそんなことをしたのかわからず困惑する。


「精霊の書いた本を書庫に戻すわけにはいかない」


 ルイスが冷たい表情でそう答えた。


「そ、そうですか」


 これ以上、本のことに触れては駄目だ。そう思った慧人の耳に「チリン」と鈴のような音が聞こえてきた。やはり本から聞こえているような気がする。そう思った途端に本を取り戻さなくてはというおかしな気持ちがわき上がった。なんとか引き留めようと、勝手に口が動く。


「あの、ルイス……様は、その本に書かれていることが読めるんでしょうか」


 碧眼が細くなった。背中に汗がじわっと滲むのを感じながら、ルイスが抱えている本をチラチラと見た。


「中途半端な敬称は必要ない」

「え?」

「どうせ頭の中では敬称など付けていないのだろう?」


 指摘され、思わず誤魔化すように愛想笑いを浮かべてしまった。不自然な様付けも機嫌を悪くさせる原因だったらしい。へらりと笑う慧人を一瞥したルイスは何も言うことなく食堂を出て行った。それを見送りながら「ふぅ~」と息を吐く。


(とりあえずなんとかなった……か?)


 少なくとも今すぐ出て行けとは言われなかった。だが疑われているのは間違いない。油断しないようにしなければと思いつつ、やはり本のことが気になって仕方がなかった。何度も聞こえてくる鈴の音のようなものも気になる。


(そういや読めるかどうか答えなかったな)


 じわりと汗が滲んでいた額を拭った慧人だが、ルイスが持って行った本を思い出すとなぜかそわそわして仕方がなかった。しかし、その原因をここで考えていてもわかるはずがない。


(とりあえず書庫に行くか)


 気を取り直した慧人は、小さくため息をつくと食堂を後にした。

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