「ルイス兄様とお兄様、最近仲良しですよね」
突然の言葉に、慧人は思わず「は?」と声を漏らしてしまった。脚立のような台に腰をかけたまま視線を上げると、胸に本を抱えたジェレミがにこりと笑っている。
「よく目が合ってるからそうなのかなと思って」
浮かべる笑顔は相変わらず天使のようだ。
「仲良し……か?」
「僕、兄様があんなに誰かを気にしている姿を初めて見ました」
「気にしてる?」
「はい。食事中、お兄様をよく見てるじゃないですか。きっとお兄様のこと、気に入ったんだと思います」
うれしそうに話す顔を見ると「いや、違うだろ」とは否定しづらい。しかし自分を見るルイスの視線はどう見ても疑っているような眼差しだ。
(仲良くなってほしいって思ってるからそう見えるだけじゃ……)
そうだとしたら申し訳ない気持ちになる。慧人は「そうかな」と曖昧に微笑むことしかできなかった。
詰め寄られた日以降、顔を合わせるたびにルイスの視線を感じるようになったことには気づいていた。つい見返してしまうものの碧眼は冷たいままで、監視されているような気さえしている。それなのにジェレミにはルイスが自分を気に入っているように見えるらしい。
(ジェレミはブラコンだからなぁ)
二人は異母兄弟だ。そのせいかはわからないが、ルイスの弟に対する態度はあまりに冷たすぎる。それでもジェレミは純粋に兄を慕っているようで、今朝も朝食を取りながら満面の笑みで話しかけていた。
(異母兄弟だったとしても、二人がいがみ合う理由はなさそうなんだけどな)
たとえばジェレミが父親の跡を狙っているとしたらルイスに疎まれても仕方がないだろう。だが、ジェレミはルイスがいかに優秀ですばらしい後継ぎか何度も口にしている。声や表情を見れば本心から兄を慕っているのもよくわかった。それはルイスもわかっているはずだ。
(単にジェレミが気に入らない……なんて懐の狭いことを思うようにも見えないしな)
母親が違うこと以外に弟に冷たくする理由が何かあるのだろうか。「うーん」と考える慧人に、ジェレミが「僕は二人に仲良くなってほしいです」と微笑んだ。
「ケイトお兄様なら、きっとルイス兄様と仲良くできると思うんです」
「仲良くねぇ」
ジェレミには悪いが仲良くなれるとはどうしても思えない。そもそも結婚自体が政略的なものなのだろうし、ルイスのほうも仲良くしたいと考えているようには見えなかった。
慧人の気のない返事にジェレミが少しだけ眉尻を下げた。そうして「ルイス兄様には、伴侶でも友人でもいいから誰かと仲良くなってほしいんです」と寂しそうな顔する。
「兄様は自分が玉条の血を引いていることを気にしてます。自分のせいで周りを傷つけるんじゃないかといまだに思っているんです。だから僕ともあまり会わなくなって……それでこの屋敷にも一人で住んでいるんです」
ジェレミの表情は何か思い悩んでいるように見える。「お兄ちゃんに嫌われてるかもしれない」と人生相談めいたことを口にした塾の生徒を思い出し、思わず肩をポンと叩いていた。
「俺に話したら少しは気が楽になるか?」
「お兄様……」
碧眼がパッと見開かれた。しばらく考えるような素振りを見せたものの、ジェレミも聞いてもらいたいと思っていたのだろう。やや俯き加減になりながら「僕がまだこの屋敷にいた頃ですけど……」と話し始めた。
「僕、ルイス兄様にもらった小さな鳥籠をいつも持ち歩いていたんです。手のひらに載るくらい小さな木でできた鳥籠なんですけど、兄様の手作りで……。僕、どうしてもそれがほしくて何度もねだったんです。部屋に飾っておくことを条件に譲ってもらったんですけど、兄様にもらったのがうれしくて、こっそり持ち歩いていたんです」
ジェレミが胸に抱えていた本をギュッと抱きしめた。
「あの日、僕は鳥籠を持って庭を歩いてました。庭に咲いてる花を鳥籠の中に入れようと思ったんです。きっと綺麗だろうし、兄様に見せたら喜んでくれるんじゃないかと思って……。でも、急に強い風が吹いて……それで僕、庭の池に落ちてしまって……」
まだ幼かったジェレミは溺れかけた。ルイスが助けて事なきを得たが、直後からジェレミが池に落ちたのは自分のせいだと言い始めたらしい。
「鳥籠のせいで精霊が暴れて、それで池に落ちたんだって言うんです。でも、あれは僕が足を滑らせて落ちただけの事故です。それなのに兄様は自分のせいだと言って……この屋敷は危ないからって、僕を別邸に移したんです。僕一人じゃ寂しいだろうからと父様たちも別邸に行くようにと勧めたのも兄様です」
顔を上げたジェレミの碧眼はつらそうに揺れていた。おそらく自分のせいで大好きな兄が一人きりになってしまったと思っているのだろう。
「冷たく見えるかもしれませんけど、ルイス兄様は思慮深くてとても優しい兄様なんです」
「ジェレミと話さないのは、池に落ちたのが自分のせいだと今でも思ってるからってことか?」
「……たぶん」
「なるほどなぁ。そして今でも同じようなことが起きると思っているから、ジェレミを遠ざけるような態度を取ってるってことか」
ジェレミが眉尻を下げながら寂しそうな顔をした。
「兄様はあのときからずっと自分のことを責めているんだと思います。僕、もう全然気にしてないのに……。それにあれは約束を守らなかった僕が悪いんです」
ジェレミのことだ、溺れたのは兄のせいじゃないとこれまで何度も訴えたのだろう。それでもルイスの態度は変わらなかったということだ。「相当な頑固者なのかもな」と思いながら、悲しそうに目を伏せるジェレミの肩をポンポンと叩いて慰める。話して少しは気が紛れたのか、顔を上げたジェレミには寂しさを滲ませながらも笑顔が浮かんでいた。
「それにしても精霊の仕業か……。でも、精霊は占術師にしか見えないんだよな?」
「そう聞いてます」
「それじゃあ、どうして占術師でもないルイスが精霊の仕業だって言い切れるんだ? 見えないのにおかしくないか?」
「僕も少し聞いただけですけど、兄様には精霊を感知する能力があるんだそうです。兄様のお母様は先代の占術師とは双子だったので、きっとそのせいだろうって父様が話してました」
大好きな兄の話題だからか、沈んでいたジェレミの表情が段々と明るくなってきた。
「兄様は本当にすごいんです。僕が池に落ちたことがきっかけで工作も絵もやめてしまったんですけど、本当になんでもできるんですよ! とくに兄様が描いた絵はとても素敵でした。お兄様にも見てほしかったなぁ」
うっとりした笑顔はすっかりいつもどおりだ。ところが、またしてもしゅんとした表情に変わる。
「僕が池に落ちたのは兄様のせいじゃありません。それなのに、また同じことが起きるんじゃないかと心配して、僕たちを別邸に移したままでいるんです。もちろん香山のことや未来の藤桜公としてのお考えもあると思います。でも、だからこそ、僕は兄様の隣には誰かが必要だと思うんです」
「……もしかして、それを俺に?」
「はい! ケイトお兄様はルイス兄様と似ていると思います。思慮深くて自分をしっかり持っていて、そういうお兄様だからこそルイス兄様の隣にいてほしいと思ってます。お兄様ならきっとルイス兄様のよきお相手になると思います!」
迷いのないジェレミの眼差しに頬がひくついた。
(思慮深く自分をしっかり持ってるって、誰のことだよ)
突っ込みたいことはいろいろあるが、期待するような眼差しのジェレミを見ると、やはり否定しづらい。「俺が完璧なイケメンの隣にふさわしいわけないだろ」と思いながら愛想笑いを浮かべたときだった。
書庫のドアが開く音が聞こえた。カツカツと通路を歩く音が近づき、ファントスが姿を現す。
「昼食のお時間です」
「もうそんな時間? 僕、本を仕舞ってきますね」
ジェレミがパタパタと小走りでドア近くの棚のほうへと去って行った。ジェレミが持っていたのは『エレメターナ王国記Ⅱ』と書かれた本で、慧人が書庫に来てから最初に読んだシリーズだと聞いて読み始めたらしい。
(ジェレミはいい子だし、こんなにも慕ってくれてる。俺にできることならしてやりたいとは思うけど……)
相手がルイスでなければ仲良くできたかもしれない。結婚相手とは仲良くしたほうがいいこともわかっている。それでもルイスと仲良くなるのはあまりにもハードルが高かった。そもそも向こうにその意志がないのに自分から近づくのは遠慮したい。詰め寄られた日のことを思い出すと背中にじわりと汗が滲んだ。
(イケメンが怒ると妙に迫力があるっていうか……それになぁ)
通路で姿勢よく待っているファントスを見る。
「あの」
呼びかけるとこげ茶色の目がちろっと慧人を見た。
「俺のこと、やっぱりまだ疑ってますよね?」
問いかけにファントスが答えることはなく、表情を変えることもない。
「いまだにこうやって呼びに来るってことはそういうことですよね?」
ファントスはおそらくルイスの片腕のような存在だ。食堂でいつも背後に控えている様子から慧人はそう推測した。そのファントスがいまだに食事の時間になるとわざわざ書庫まで呼びに来る。朝、部屋に迎えに来るのも書庫への付き添いもファントスが行っていた。
(側近みたいな人にそんなことさせてるってことは、まだ大いに疑ってるぞってことだよな)
ファントスに視線を向けたまま脚立のような台から腰を上げる。
「わたしは主人の命令に従っているだけです」
表情一つ変えないファントスの様子に「精霊の本の存在もたぶん知ってたんだろうな」と確信した。あの本を見たとき、最初に反応したのはファントスだった。精霊が書いた本だとルイスが説明する前に表情が変わったということは、あの本の存在をあらかじめ聞いていたからに違いない。
(俺が書庫からああいう本を持ち出さないか見張ってたってところか)
それとも移動を含めたすべての様子を窺っていたのだろうか。どちらにしてもルイスはまだ自分のことを疑っている。ジェレミには申し訳ないが、そんな相手と仲良くなるのは無理な話だ。
ふと、ファントスの視線が持っている本に注がれていることに気がついた。さり気なくタイトル部分を隠しながら「俺も本、仕舞ってきます」と言って背を向ける。
(精霊に関係する本を読んでることは当然知られてるだろうけど……それも疑われてる原因なんだろう)
本の表紙には『占術師が伝える精霊の言葉』と書かれている。読みたくて手に取った本ではないが、精霊という文字が書いてあるとつい手にしてしまっていた。ここまでくると、もはや病気のような気さえする。
(いや、今の状態はどう考えても病気だろ)
本を棚に戻しながら、視界の端に飛び込んでくる本のタイトルに眉が寄った。最近では見ようとしなくてもタイトルのほうから飛び込んでくる。しかもすべて「精霊」の文字が入った本ばかりだ。
向こうの世界でこんな経験をしたことはない。取り立てて読書家というわけでもなかった慧人は、学校の図書室に行く機会も多くなかった。たまに行ってもタイトルが気になって手に取るなんてこともなかった。それなのにここでは本のほうから読んでくれと言わんばかりにアピールしてくる。そう感じること自体、もはや病気だといってもいい。
(マジで何なんだろうな)
ため息をつきつつ、視界に飛び込んでくる「精霊」という文字を振り切りながら本を棚に戻す。そうしてファントスがいる通路へと踵を返した。