その後も書庫に行くたびに精霊に関係する本のタイトルが視界に飛び込んでくる現象が続いた。もはや本の当たり屋状態といってもいい。
(本のほうからアピールしてくるってんなら読んでやろうじゃねぇか)
あまりの状況に半分逆ギレのような気持ちになった慧人は、目に留まった本を片っ端から読むことにした。「何がしたいんだよ」と思いながら手当たり次第読み進めて二日が経った。「マジで精霊のことばっかりだな」とため息が漏れそうになりつつも、数を読んだからかあることに気がついた。
どの本にも精霊が言ったとされる言葉は書かれているが、姿形に関する記述がない。光を見ただとか火の玉が見えただとかいうオカルト的なことすら書かれていなかった。
(それなのになんで精霊がいるってわかるんだ? 姿が見えないのにどこから精霊の言葉が聞こえてくるんだ?)
どの本にも “精霊が話した言葉”とはっきり書かれているのに、占術師が精霊の姿形を語ったといったことは書かれていない。慧人の脳裏に浮かんだのはイタコや霊媒師という言葉だった。姿が見えないのは幽霊のようなものだ。そんな存在の言葉を伝えるのは占術師という人物だけで、その言葉が本当に精霊の言葉なのか誰も疑ったりしないのだろうか。
(占術師にしか聞こえないなら占術師が勝手にどうとでも伝えられるってことだよな? もし嘘をついたとしても誰もわからないんじゃないのか?)
そのリスクに誰も気づいていないとは思えない。だが、この国では国王と並ぶほど占術師は敬われているらしい。つまり占術師の発言を誰もが信じているということだ。「うーん」と考える慧人の耳にチリンという鈴のような音が聞こえてきた。
(またか)
以前より頻繁に聞こえるようになったからか驚くこともなくなった。今日は用事があるとかでジェレミがいないからか、いつも以上によく聞こえる気がする。
(当たり屋みたいな本にどこからか聞こえてくる鈴の音……って、これじゃあ完全にノイローゼじゃないか)
しかも鈴の音が何かの鳴き声に聞こえるときさえある。最初は鈴虫みたいな虫の声かと思ったが、どうもそういう感じでもない。
(ここに来てから一カ月ちょっと……いや、二カ月くらいか?)
カレンダーがないため正確な日数はわからないが、そこそこの時間が経っているはずだ。そうした長い時間ストレスに晒されると幻覚や幻聴が現れると聞いたことがある。しかも時間が経ってから症状が出ることもあるらしい。「マジか」と眉をひそめながら読んでいた本を棚に仕舞おうとしたときだった。
「ん?」
何かが視界の片隅で光ったような気がした。本を棚に戻し、光ったほうへと足を向ける。
(……これって……)
下から二番目の棚に記号らしき文字が書かれた本があった。伸ばした手を一旦止め、屈んでから背表紙をじっと見る。どこからどう見ても背表紙に書かれているのは記号だ。
きょろきょろと周囲を見回した。誰もいないとわかっていながら、ついそんなことをしてしまったのはルイスの顔が一瞬頭に浮かんだからだ。
(また似たような本を見つけたってわかったら、ますます疑われそうだな)
ここは見なかったことにするのがいい。わかっている。それなのに手を伸ばさずにはいられなかった。その場に座り込んだ慧人は、本を引っ張り出すとパラパラとめくった。
(……中身もあのときの本と似てるな)
ページには文字以外に記号や五線譜のようなものが書かれている。意味はわからないが、おそらくこれも精霊が書いた本に違いない。
(精霊が書いた本、か)
ページに書かれた楽譜を指でなぞった。楽譜を書くくらいだから精霊も音楽が好きなのだろうか。
(ピアノの楽譜、最後に見たのは中一のときだっけ)
中学に入ってから習い事をスパッとやめた慧人だったが、ピアノだけはしばらく続けていた。ところがピアノが続けられるのにどうしてほかの習い事は続けられないんだと父親に言われて結局やめてしまった。今思えば、習い事の中で本当に好きでやっていたのはピアノだけだった気がする。苦い記憶に顔をしかめながら音符の上を右手でゆっくりとなぞる。
(ずっと見てなかったからか、すっかり読めなくなってる)
五線譜が楽譜だということはわかっても、長く見ていなかったからか記号のように見えた。そのためどんな曲かまではわからない。それでも気になってパラパラとページをめくっていると見覚えのある楽譜が目に留まった。
(これ、どこかで見たような……)
眼鏡をかけていたときの癖で、ついページに顔を寄せながらじっと見る。
(たぶんこれはミで、次はレ……のシャープか?)
音符を確認するように指でなぞった。「ミレミレ……」と音を思い浮かべ、「やっぱりどこかで見たような……」と昔の記憶をたどる。そのときガチャリとドアが開く音が聞こえてきた。
ハッと顔を上げた慧人は、慌てて本を棚に戻した。立ち上がるとファントスが歩いて来る通路とは逆の通路を小走りで移動し、そうして何食わぬ顔で隣の棚の前に立つ。
「昼食のお時間です」
本を探している振りをしつつ、「わかりました」と答えた。ファントスに精霊の本をまた見つけたと知られるのはまずい。そう思って咄嗟に行動したが、おかげで二冊目の存在には気づかれていないようだ。本を見つけたことがばれるより、本の存在がばれなかったことになぜかホッとする。
いつもどおりファントスの後に続いて書庫を出た。静かな廊下を歩きながら、光っているように見えた本のことについて考えた。
(あの辺は今朝も見たのに、記号が書かれた本があることに気づかなかった)
それに本が光ったように見えたのも初めてだ。「どれだけアピールしたいんだよ」と思いながらも、これまでの本とは違うような気がして落ち着かない。
(食事が終わったらもう一度見てみるか)
曲がり角でいつもどおり曲がろうとした慧人の足が止まった。前を歩いているファントスがそのまま真っ直ぐ進んだからだ。
「部屋、こっちですよ」
声をかけると「あぁ、失礼しました」とファントスが振り返った。「そういや書庫に初めて行ったときもこんなだったな」ということを思い出し、「優秀な執事っぽいのに案外抜けてるのか?」と失礼なことを思いながらファントスを見る。
「今日の昼食は食堂で取っていただきます」
「食堂で?」
「ご当主夫妻が、ぜひご一緒にと」
ご当主夫妻……聞き慣れない言葉に一瞬首を傾げ、「ルイスとジェレミの両親か」ということに気がついた。「ケイト」にとっては舅、姑ということになる。
「げ」
思わず出てしまった言葉にファントスが「フッ」と笑った気がした。馬鹿にしたような顔はしていないが、明らかに目は笑っている。
(そういやジェレミとルイスが異母兄弟だって話題になったとき、呆れたような顔で俺のことを見てたっけ)
人当たりがよさそうな顔をしているが外面がいいだけかもしれない。「いい人そうなのは見た目だけかもな」と思いながら後を付いていく。
(それにしても、このタイミングで家族に会うのかぁ)
緊張するというより戸惑いのほうが強かった。できれば遠慮したいが、結婚相手の家族に会わなくて済むようなうまい言い訳を思いつくはずがない。「どんな顔して会えばいいんだよ」と思っている間に食堂に到着してしまった。
「お兄様!」
食堂に入るなり抱きついてきたのはジェレミだった。すぐに離れたものの、慧人が口を開く前に「ケイトお兄様です」と両親に紹介し始める。なんとか愛想笑いを浮かべながら見た両親は、ファンタジー世界に登場しそうな「ザ・貴族」という服を身に纏っていた。二人ともジェレミと同じ金髪碧眼だからか無駄にまぶしい。
父親はまさにイケオジというような雰囲気で、さすが美形兄弟の父親だなと納得した。母親のほうは想像していたよりずっと若く、こちらも間違いなく美人だ。なんとなく目元がジェレミに似ているからか天使のように見えなくもない。
(天使っていうより女神様か)
まるで芸能人一家のような美形家族にため息がこぼれた。そんな中に平凡な「ケイト」が混じるのかと思うと複雑な気持ちになる。「これは完全に浮くな」と思ったところで、父親が一歩踏み出しながら右手を差し出してきた。
「初めまして。挨拶が遅くなって申し訳なかったね」
「挨拶は欧米風なんだな」と思いながら慧人も右手を差し出す。ところが手を取った父親は握手をすることなく、なぜか慧人の手を持ち上げた。そうかと思えばおもむろに手の甲にキスをする。突然の出来事に慧人は「は?」と目を見開いた。
「これは失礼。息子の伴侶だと思ったら、つい」
斜め後ろで母親が「あなたったら」と笑っている。馬鹿にするような雰囲気ではないから、本当に「つい」出てしまったのだろう。隣ではジェレミが「父様、お兄様は女性じゃないんですよ」と頬を膨らませていた。
「ジェレミはすっかりきみの味方だな。いや、申し訳なかった。気を悪くしないでほしい」
「いえ、それは大丈夫ですけど……」
「本当に気を悪くなさらないでね」
「ケイトお兄様はそんな心の狭い人じゃありません」
「あらあら、ジェレミは本当にケイト様が好きなのね」
「おまえからの手紙はまるで恋文のようだったぞ」
「ちょっと、母様も父様もやめてください!」
顔を赤くするジェレミはいつもより子どもらしく見えた。両親を前にすると年相応に戻るのだろう。そんなジェレミと両親の様子に微笑ましくなるが、ルイスだけはいつもどおり視線を向けるわけでもなく静かに席に座っている。
まるで家族と一線を画しているように見えるのは、ジェレミが話してくれた過去の出来事のせいなのだろうか。そんなルイスには両親も慣れているようで、素っ気ない態度を取られても気にすることなく話しかけていた。
(おいおい、せっかくの両親との再会だぞ。せめて笑顔くらい見せてやれよ)
思わずそう突っ込みながらルイスを見ていた慧人は、背後に控えるファントスの隣に知らない男が立っていることに気がついた。黒目黒髪は日本人っぽいが、アジア人より目鼻立ちがはっきりしている。
(新しい使用人か?)
慧人の視線に気づいたのか、男がチラッと視線を寄越してきた。その視線の鋭さにドキッとした。
(こういうの、前にもあったな)
ベルサイユ宮殿で目が覚めた朝、メイドらしき女性から向けられた視線を思い出した。どうやらどこにいても「ケイト」は歓迎されていないらしい。ベルサイユ宮殿での家族を思い出すと、美形兄弟の両親から無視されなかっただけよかったと思うべきだろうか。
(「ケイト」で居続けるのも大変だな)
お飾りとしてただいるだけでいいと言われたものの、そんな状況ではなくなってきた。思わず漏れそうになったため息を呑み込んだ慧人は、「お兄様、こちらです」と腕を引くジェレミに笑顔を返しながら席に着いた。