昼食は至って和やかに、そしていつもより少しだけにぎやかに進んだ。両親がいるからかジェレミはいつも以上に熱心に話をし、それに答える両親も終始微笑んでいる。
「手紙ばかりで一向に帰って来ないと心配していたが、杞憂だったな」
「どうして心配するんですか? 僕、もう子どもじゃないのに」
「わたしたちからすればどんなに大きくなっても子どもに変わりはないよ」
そう告げた父親の目がチラッとルイスを見た。しかしルイスが父親を見ることはなく会話に参加することもない。その様子に父親が苦笑しているということは、家族といてもルイスの態度はいつもこうだということなのだろう。
慧人は「なんだかなぁ」と思いながらパンをかじった。嫁姑問題より家族関係のほうが厄介そうだ。「口、出さないほうがよさそうだな」と思いながらパンを飲み込む。両親がいるからか、いつもなら何度かこちらを見る視線もない。そういう意味ではルイスも多少なりと両親の存在を気にしているのかもしれない。
いつもより少しだけ長い昼食の時間が終わるとジェレミに呼び止められた。しばらく書庫には行けないと眉尻を下げている。
「俺のことは気にしなくていいから」
「でも、」
「ジェレミのことが心配で来てくれたんだろ? ご両親と一緒にいてやれよ」
ジェレミが屋敷に来てそれなりの時間が経っている。たとえここが本宅だったとしても、なかなか帰って来ない十二歳の息子を両親が心配するのは当然だ。
(本当はルイスのことも心配で様子を見に来たって感じだけどな)
食事中の様子から慧人はそう察した。それなのにルイスのあの態度はどうなのだろう。両親の気持ちに気づいていないわけではなさそうなのに、そこまで徹底しないといけない理由が何かあるのだろうか。
(本気でジェレミの一件が自分のせいだと思ってるにしても、あれじゃあなぁ)
思った以上に面倒くさい性格なのかもしれない。そんな人物とはたして仲良くなれるだろうか。「お兄様ならきっとルイス兄様のよきお相手になると思います!」と期待に満ちた眼差しをしていた表情が目の前のジェレミと重なる。
(何かきっかけがあれば話くらいはできるようになるかもしれないけど……)
そのきっかけが見当たらなかった。唯一ルイスが反応しそうなのは精霊の話題だが、そんな話を振ればますます疑われてしまう。
(この先何十年と顔をつきあわせることを考えたら、今のうちに仲良くなっておくほうがいいのはわかってる)
ルイスは結婚相手で、このまま元の世界に戻れないのならこの先一生添い遂げることになる。この国の平均寿命が何歳かはわからないが、五十年か六十年は一緒にいることになるだろう。
(政略結婚だったとしても、その間ずっとこんな感じってのもなぁ)
ため息が出そうになるのを呑み込みながらジェレミの肩をポンと叩いた。
「せっかくなんだからご両親と過ごしてこいよ」
しばらく迷うような顔をしていたジェレミだが最後は照れくさそうな笑みを浮かべた。天使のような笑顔に癒やされるのを感じながら、煌びやかな両親と食堂を出る後ろ姿を見送る。
(さて、俺は例の本を調べるとするか)
そう思い、書庫に続く廊下に行こうと反対側のドアへと振り向いたときだった。目の前に人影があり、「ぅおっ」と言いながら慌てて飛び退いた。誰だよと思いながら視線を上げるとルイスが立っている。再び驚く慧人の様子を気に留めることなく、唇に指の背を当てながらどこかをじっと見ていた。
(どこ見てるんだ……? って、俺の手?)
どうも右手を見ているような気がする。「右手がどうしたんだ?」と思いながら持ち上げたところで、その手をルイスに掴まれた。
「は? え? なに?」
驚いて手を引こうとしたものの、そのままグイッと持ち上げられてしまった。何事かと見ていると、持ち上げた右手に顔を近づけてくる。そのまま指先に鼻を近づけ、なぜかクンと匂いを嗅ぎ出した。
「へ?」
その後も何度もクンクンと鼻を鳴らしている。
(何やってんだ?)
やっていることは意味不明だがルイスの顔は真剣だ。突然の奇行に手を振り払うことも忘れ、呆然と見つめる。
「何を触った?」
「は?」
「何か変わったものを触っただろう?」
指先からほんの少し顔を離したルイスがそんなことを言い出した。どういう意味かわからずポカンとイケメンを見つめる。
(何を触ったって、食器だろ?)
触ったのはフォークやスプーン、グラス、あとはパンくらいだ。ルイスも一緒に食事をしていたのだから聞かなくてもわかるはず。質問の意図がわからず困惑していると、碧眼がジロッと睨むように慧人を見た。
「なぜ指先に精霊の痕跡が残っている?」
「精霊の痕跡……?」
「間違いなくこれは精霊の痕跡だ。どこで精霊に触れた?」
ルイスの言葉にハッとした。「あれか」と、慧人の脳裏に五線譜のようなものが浮かぶ。
(そういや精霊を感知できるとか言ってたっけ)
もしかして精霊が書いた文字を触っても感知できるということだろうか。話半分で聞いていた慧人だが、ルイスの様子から精霊も占術師の力も本当に存在するに違いないとようやく理解した。だからといって正直に本のことを話すわけにはいかない。
(また没収されたら困る)
困ることは何もないはずなのに、なぜかそう思った。「あの本を隠しとおさなくては」という気持ちがわき上がってくる。
「何を触った?」
ルイスの視線が鋭くなった。美形の睨む顔はやっぱり恐ろしい。背中にじわりと汗が滲むのを感じながら、それでも慧人は「な、何も触ってません」と答えた。
「本当か?」
「本当です」
「では、なぜうろたえている?」
「う、うろたえてなんかいませんけど」
「嘘をつくな」
「ついてませんって」
「それならどうして視線を逸らす?」
慧人の肩がビクッと震えた。視線を逸らしたのは怖いと思ったからだけじゃない。至近距離にある美形すぎる顔に目とメンタルが耐えられなかったからだ。指先から離れた顔が今度は自分の顔に近づいてくるのを感じ、「ひぃ」と慌てて顔ごと逸らした。
(なんで近づいてくるんだよ!)
横を向いた頬に吐息が当たったような気がして「ひょえっ」と首をすくめた。こんな近くに顔があるのに直視できるはずがない。
(自分がとんでもない美形だって自覚持てよ!)
心の中でそう文句を言いながら目を瞑った。本当は今すぐにでも逃げ出したいところだが、掴まれた右手を振り払うことができない。緊張なのか羞恥なのかわからない感覚に慧人はちょっとしたパニックに陥っていた。
「答えろ」
ルイスの問いかけよりも肌に触れた吐息に「ひぃ」と声にならない悲鳴が漏れた。「近い近い、近いってば!」と焦りながら、「か、顔が」とだけ口にする。
「顔?」
とんでもなくいい声がとんでもない至近距離から聞こえてきた。耳が痺れるような感覚と首筋に鳥肌が立つのを感じながら、「顔、近いですって!」と小さく叫ぶように答える。慧人がそう口にした直後、ルイスの気配が離れたのがわかった。掴んでいた手も離れ、腕や肘に当たっていた体も遠のく。
(い、嫌な汗かいた)
無意識に呼吸を止めてしまっていたらしく、ようやく息を吐き出すことができた。冷や汗とは違う変な汗がうなじを流れていくのを感じながら、そっと目を開ける。おそるおそる視線を向けると、一瞬だけルイスと視線がぶつかった。何か言われるのではと身構えた慧人だが、なぜかルイスのほうが少しだけ顔を逸らす。
(……なんだ?)
視線を逸らされた理由がわからず眉をひそめた。そのままじっと見ていると、今度は完全にそっぽを向いてしまった。そのままくるりと背中を向けてしまう。
「とにかく余計なことはするな。いいか、変わったものや見慣れないものにも触れるな。それがおまえ自身のためだ」
やけに早口でそう告げたかと思えば、まるで逃げるようにルイスが食堂を出て行った。それを呆然と見送りながら、最後に見た横顔を思い返す。
(……顔、ちょっと赤かったような……)
しかもやけに早口だった。もしかしてルイスも動揺していたのだろうか。
(イケメンでもあの距離は照れるんだな)
吐息を感じるほど至近距離にあったルイスの気配を思い出し、慧人の顔が少しだけ熱くなる。
(もし顔逸らしてなかったら、鼻、ぶつかってそうな距離だったしな……そりゃそうか)
そこまでの至近距離はさすがのイケメンも焦ったに違いない。しかもハタから見ればキスする直前のような状態だ。ふとそう思い、「は?」と小さな声が漏れた。
(いやいやいや、あれは余計なことするなって怒られてただけだろ)
思わず突っ込むように否定したものの、なぜか鼓動が妙に速くなる。キスなんてとんでもない言葉を思い浮かべてしまったせいで、詰め寄られていたときとは違う意味で背中を汗が流れ落ちた。
(そりゃあルイスは結婚相手だけど……って、だからそういうんじゃないんだって)
おかしなことを考えてしまった。右手で火照った顔をあおぎながらため息をつく。無駄にパタパタと動かしながらルイスが出て行ったドアを見ていた慧人は、あおっていた手を止め指先をじっと見た。
(さっきのって……もしかして心配してくれたのか?)
去り際の「それがおまえ自身のためだ」という言葉は自分を心配してくれていたように聞こえた。ふと、ジェレミが口にした「ルイス兄様は思慮深くてとても優しい兄様なんです」という言葉が蘇る。
(ジェレミのことも心配して別邸に住むようにしたんだよな……。ってことは、俺のことも心配してあんなことを……?)
一瞬「まさかな」と否定した。しかし、何も思っていない相手にわざわざ「おまえのためだ」なんて言うだろうか。
(……なんだよ、いい奴じゃんか)
もしかして、これまでの素っ気ない態度も心配してくれていた裏返しだったんじゃないだろうか。ルイスは自分のせいでジェレミが溺れたと思い込んでいる。つまり自分に近づく者は傷つけられると考えているということだ。だから不用意に近づかないようにあんな態度を取っていたのかもしれない。もちろん「ケイト」のことは疑っているのだろう。だが、それだけじゃない気がした。
(それならそうと、ちゃんと言葉にすればいいのに……どんだけ不器用なんだよ)
慧人の口元に笑みが浮かんだ。とんでもないイケメンで、ジェレミいわく優秀な人物らしいがあまりにも不器用すぎる。
(そういやまだ二十九歳だったっけ)
自分より七歳も年下だ。社会経験……というものがこの世界にあるのかはわからないが、あったとしてもまだまだ若手の年齢といえる。少し前に教育係になった二十八歳の後輩を思い出し、「あいつと同じくらいか」と思うと急に親近感がわいてきた。
(あいつ、仕事はからっきしだったけど人当たりだけはよかったなぁ)
逆にルイスは、仕事はできてもコミュニケーションが苦手といったところだろうか。
(あれだけのイケメンなんだから、人当たりがよければいろいろ有利になりそうなのに、もったいない)
素っ気ない態度も冷たい言動も、不器用さからきていると思えば微笑ましくなる。そういう奴だとわかれば見方も心構えも変わってくる。
「そうかそうか」とにやけながら廊下に出るとファントスが立っていた。「書庫まで案内します」と歩き出した執事の後ろ姿に「もしかして書庫でも何か起きると心配してたのかもな」ということに思い至った。
以前にも書庫には精霊の本があったようだから、まだ紛れていて事故が起きるかもしれないと考えたのかもしれない。だからファントスに様子を見るように命じたとは考えられないだろうか。
(ちょっと好意的に考えすぎか? でもジェレミが言うように本当に優しい性格だったとしたら、そういうことしてもおかしくなさそうだよな)
慧人の中のルイス像が少しだけ変わった。とんでもないイケメンなのに、不器用で言葉足らずのちょっと面倒くさい後輩に見えてくる。
廊下を歩きながら窓を見た。ここに来たときは春のような気候だったが、今も窓の外には澄んだ青空が広がっている。
(今ごろ向こうは梅雨かな)
それとも梅雨入り前から夏日続出だと今年も騒いでいるだろうか。晴れ渡った窓の外を見ながら胸がチクリとした。すでに懐かしく思い始めている元の世界に少しだけ思いを馳せ、前を見る。
(この時期になると夏休みイベントに向けて仕事量が一気に増えたっけ)
同時に人が辞めるのも多くなる。とくに大型連休明けは突然出社しなくなる人も出てきた。「なんとかしてやらないと」と思っていても、仕事に追われていたせいで後輩の面倒を満足に見てやることができないことが多かった。ルイスの不器用さを垣間見たからか、不意に辞めていった後輩たちの顔が浮かぶ。
(ルイスのこと、なんとかできないもんかな)
書庫に行ったら真剣にあの本のことを調べてみよう。もしあれが本当に精霊の書いた本だとしたら、ルイスが何をそんなに心配しているかわかるかもしれない。
(それがわかればルイスの負担も減るかもしれないし、そうなればジェレミも喜んでくれるだろうし)
慧人はこちら側に来て初めてやる気のようなものを感じていた。