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第17話 不意に滲み出す不安

 美形の両親が屋敷にやって来て三日が経った。初日は昼食を一緒に取ったものの、翌日からは朝食と夕食は美形家族と一緒に食べるが昼食は今までどおり部屋で食べている。ジェレミからは「昼食も一緒に食べましょう!」と天使の笑顔で誘われたが、せっかくの家族団らんを邪魔したくなくて遠慮した。同時に美形家族の中に平凡な顔が混じるのはどうなんだと思ったもの事実だ。


(ああいう人たちを顔面偏差値が高いって言うんだろうな)


 昼食を食べ終わった慧人は、姿見の前に立ってそんなことを思った。「ケイト」には悪いが、キラキラまぶしいあの人たちの中にこの顔で入るのはどうも居心地が悪い。そんなことを考えてもショックに感じないのは自分が「ケイト」だという実感が薄いままだからだろうか。


(ま、元の俺の顔でも無理だけどさ)


 そんなことを考えながら頬をペタペタと触る。触っている感触はあるのにどうしても違和感が拭えない。眼鏡がなくても遠くが見えること、それに縮んだ身長には慣れた。それなのにこの顔は何度見てもしっくりこない。もう二カ月くらい経っているのにだ。「アバター使ってネット配信してる人たちってこんな感じなのか?」と思ったところで頬や顎を撫でていた手が止まった。


(そういや俺の顔ってどんなだったっけ)


 鏡を見ながら考える。飽きるほど見てきたはずの自分の顔なのに、なぜかぼんやりとしか思い出せなかった。目はどんな形だっただろうか。鼻は、口はどうだっただろうか。意識して見たことがなかったせいか、ぼんやりしたイメージしか浮かばない。最後に鏡を見たとき、長くなった襟足に鬱陶しく思ったことが蘇った。その髪型さえ今は違う。


(いくら別人の中の人になったからって、自分の顔が思い出せないなんてことがあるか?)


 不意に背中がゾクッとした。まるで自分が「ケイト」に上書きされていくような気がして体がブルッと震える。思わず「佐々野慧人、三十六歳独身」と口にし、つっかえることなくそう言えたことに少しだけホッとした。


(大丈夫、俺は佐々野慧人だ)


 住んでいたマンションの住所もスマホの番号もちゃんと覚えている。クライアントの顔も名前も、パンフレットで散々お世話になった編集プロダクションの担当者の顔だって思い出せた。


(そうだよ、忘れるわけない)


「だって俺は佐々野慧人なんだから……」と口にした言葉が尻すぼみに小さくなった。本当にそれでいいのだろうか。ここにいる限り自分は「ケイト」で「佐々野慧人」ではない。それなのに「佐々野慧人」だということにホッとしている自分に気がつき、眉間に皺が寄った。


(いや、それじゃ駄目だろ)


 こんな気持ちでは今の自分が「ケイト」だとルイスに言った意味がなくなる。上辺だけ「ケイト」だと思っていても本当の意味で「ケイト」になったとはいえない。こんな気持ちでは、いずれこの世界の人間じゃないということがばれてしまうに違いない。


(ばれたら本物の「ケイト」かどうか以前に間違いなく放り出される)


 何者かわからない存在を受け入れてくれるはずがない。宇宙人や妖怪みたいな気味の悪い存在は自分だって間違いなく追い出す。


(そうなったら異世界ホームレスまっしぐらだ)


 それもつらいが、慕ってくれているジェレミを騙しているような気がして心が痛んだ。ルイスやファントスにも申し訳ない気持ちになる。


(俺は「ケイト」でなくちゃいけない)


 改めてそう思った。そうすることでしか生きる術はなく、そうしなければ傷つける存在ができてしまった。


(周りに「ケイト」だって思わせるためには、まず俺自身が自分を「ケイト」だって本気で思わないと駄目だよな)


 だからあのとき腹をくくった……つもりになっていた。最近では完全に素で過ごしているからか、すっかり「ケイト」でいる気になっていた。

 だが、本心では自分が「佐々野慧人」でなくなることに恐怖を感じている。自分が自分でなくなるような感覚に腹の底からゾッとした。せっかくやる気になっていた気持ちが少しずつしぼんでいく。


 トントン。


 ドアを叩く音にハッとした。返事をすると「失礼します」とファントスがドアを開ける。後ろにはいつもどおりカートを押すメイドの姿があった。この後メイドはテーブルの片付けをし、自分はそれに「至れり尽くせりだな」と思いながらファントスの先導で書庫へ行く。しかし、これらは本来「ケイト」が受けるもので「佐々野慧人」がされることじゃなかったはずだ。


「どうかしましたか?」


 よほど変な顔をしていたのか、それとも姿見の近くに突っ立っている自分を不思議に思ったのか、ファントスがじっとこちらを見ていた。「いえ、なんでもないです」と愛想笑いを浮かべたものの頬が引きつっているのは自分でもわかる。慧人はなんともいえない気持ちになりながら「書庫に行きます」と姿見から離れた。

 書庫への廊下をいつもどおりファントスに先導されながら歩く。窓から外を見ると今日も青空が広がっていた。「ここには梅雨とかないのかな」と思っていたからか、「ずっと晴れてますね」という言葉がポロッとこぼれ落ちた。


「例年なら雨期に入る頃なんですが、今年はまだのようですね」


 雨期ということは、この国にも梅雨のような季節があるということだ。もしかしたら四季があり、雨期の後は夏が来るのかもしれない。不意にうだるような暑さの中、イベント会場で列の整理をした一年前のことを思い出した。この記憶もいずれ顔のようにぼやけてしまうのだろうか。そう思うと、つい眉が寄ってしまった。


「何か心配事でも?」

「え?」


 視線を向けるとファントスが少し先で立ち止まっていた。いつの間にか距離ができていたようで、慌てて「何もないですよ」と愛想笑いを浮かべながら近づく。そんな慧人にファントスがため息をつくような様子を見せた。


「もしかして疑われていることを気にされていますか?」


 書庫で疑っているか尋ねたことを言っているのだろう。


「いえ、気にしてません」

「本当に?」

「あー……まったく気にしてないかと言われたら微妙ですけど、ジェレミからいろいろ聞いたのでなんとなく事情は察しています」

「そうですか」


 ファントスが歩き出した。一人分距離を空けながら慧人も後に続く。


「やはり噂とは違っていますね」

「そうですか?」

「今のケイト様が本来のケイト様だということは伺っています」


 やはりファントスはルイスの右腕的な存在なのだろう。ルイスに話したことはファントスにも伝わっていると思ったほうがいい。そして逆も然りということだ。


(おかしなことがあれば報告するってことか)


 あえてそう受け取れるような言葉を口にしている、慧人はそう感じた。それとも単に疑っているとアピールしたかったのだろうか。


(ルイスのほうはそこまででもないような気がしてたけど、気のせいだったのか)


 指先を嗅がれた日から、ルイスの視線が少しだけ和らいだように感じていた。だから疑いが少し晴れてきたのかと思っていたが違ったのだろうか。


(ルイスよりファントスのほうがよほど疑ってそうだけどな)


主人のために率先して疑うのが執事の役目だと言いたいのかもしれない。香草が苦手だと一発で見抜かれたことを思い出し、ルイスよりもファントスのほうが油断ならないかもしれないとわずかに身構える。


(ファントスみたいな人にも俺を「ケイト」だって信じてもらうには、やっぱり俺自身が「ケイト」だと自覚しないと駄目ってことか)


 何年かすれば「ケイト」だという自覚が芽生えるだろう。だが、何年も疑われたままというのは正直つらい。それにいつ自分がこの世界の人間じゃないとばれるか心配しながら生活するのも大変だ。そう考えると早く「ケイト」だと自覚したほうがいい。


(でも、それって「佐々野慧人」がいなくなるってことになるんじゃ……)


 ここにいるのは「ケイト」で「佐々野慧人」じゃない。自分が心から「ケイト」になるということは「佐々野慧人」がいなくなるということで、元の世界にもここにも「佐々野慧人」は存在しないことになりはしないだろうか。

 慧人の足が止まった。それに気づいたファントスが足を止め、ゆっくりと振り返る。静寂が流れるなか、慧人は塵一つ落ちていない廊下をじっと見つめていた。


(そうか、それが異世界転移ってことなのか)

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