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第18話 精霊の本に起きたとある現象

 慧人の中を冷たい風のようなものが吹き抜けた。じっと立ち止まっている慧人を静かに見つめていたファントスが口を開く。


「ルイス様が疑っているのはお父上のほうですよ」

「え……?」

「ケイト様を心から疑っているわけではありません」


 視線を上げるとこげ茶の目とぶつかった。


「丹下公は何かと噂のある人物ですから、今回の結婚にも裏があるのではと用心しているのです」

「……そうですか」


 もしかして疑われていることに落ち込んでいると思い、気を遣ってくれたのだろうか。相変わらずよく気が回る人だなと思いつつ、「外面がいいだけとか思ってごめん」と心の中で謝る。


「まぁ、噂とあまりに違っていたので別の意味で疑ってはいるようですが」


 続いた言葉に「ん?」と思い、改めてファントスを見た。口元が笑っているように見えるのは気のせいだろうか。そういえば何度か呆れたように自分を見ていたことを思い出し、「この人、外面がいいんじゃなくて意地が悪いのか?」と眉をひそめた。何も知らせず書庫に向かったりルイスたちの両親に会わせようとしたりしたのも反応を見るためだったのかもしれない。


(もしそうだとしたら意地が悪すぎるだろ)


 眉間に皺が寄る慧人に、「やはり噂とは違っているようで安心しました」とファントスがすまし顔で告げた。


「どういう意味ですか?」

「ルイス様は大変な口下手で……あぁ、もちろんお気づきだと思いますが」


 ルイスの様子を思い出し、「口下手ねぇ」とため息が漏れそうになる。ああいうのは口下手ではなく単なるコミュニケーション不足というのだ。そもそもルイスには自分と会話しようという気がないとしか思えない。


「噂と違い、ケイト様はよくしゃべる方だとお見受けしました」

「嫌味ですか?」

「褒め言葉ですよ。それに臆することなく話ができる性格だとも思っています。それならケイト様のほうから話しかけていただくのがよいかと、ふと思いまして。そうすればルイス様とよい関係を築けるのではないかと思った次第です」

「俺から話しかけるんですか?」


 なぜそんなことを言い出すのだろう。それにファントスは自分を疑っているのではないのだろうか。


(意地が悪いんじゃなくてタチが悪いのか?)


 真意がわからず眉間に皺を寄せると、「もしやタチが悪いなどと思っていませんか?」と指摘され、「心まで読めるのかよ」と顔をしかめた。


「これでも一応、主人思いの従者でとおっているんですが」

「ということは、今のも主人を思っての助言ということですか?」

「そう受け取ってもらってかまいません。ケイト様が疑わしくない人物だとわかればルイス様の悩みの種が一つ消えると思っての提案です」

「……俺のこと、疑ってますよね?」

「ルイス様が疑っているのは精霊の本を見つけたことに対してです。本当に偶然見つけただけなのか、それとも見つけることができる何かをケイト様がお持ちなのか気になっているのです。それなら直接本人に尋ねればよいと思われるでしょうが、ルイス様はあのように口下手でして。そういうこともあり、できればケイト様から話しかけていただければと」

「俺が話しかけたほうが悩みの種が増えそうですけどね」


 慧人の返事にファントスが「おやおや」というようにおどけた表情を浮かべた。「馬鹿にしてるのか?」と睨むと、今度は微笑みを浮かべる。


「未来の藤桜公であるルイス様には悩みの種が尽きないのです。その中でも比較的早くに解決できそうなのがケイト様と精霊の本に関してでしょう。そういえばその後、似たような本を見かけたりはしていませんか?」


 精霊の本という言葉にドキッとした。書庫で見つけた光る本を思い出し、「いえ、別に」とだけ答える。


(そうか、光ったのは最初の一回だけだからファントスは気づいてないのか)


 それに読むときにはページに触れないように気をつけてもいる。おかげでその後ルイスに指摘されることはないが、本当にルイスが気づいていないのかはわからない。


(どっちにしても言わないほうがいいよな)


 せっかく楽譜に書かれた曲が何かわかったところなのに没収されてはたまらない。しかも新たな謎も出てきた。どうしてあんな現象が起きるのかわからないまま取り上げられたのでは気になって眠れなくなる。


(三日間ずっと見てきたからこそ気づいた。あの本、おそらくリアルタイムで書き換えられている)


 本を見つけた翌日、気になった楽譜部分を何度も見直しているうちに『エリーゼのために』の冒頭だということに気がついた。二小節程度しかなかったためほかの曲の可能性もあるが、慧人の頭には小学生のときに何度も弾いた『エリーゼのために』が浮かんだ。

 ところが次の日に同じページを見ると、明らかに前日の楽譜とは様子が違っている。というより、なぜか冒頭の「ミレミレ」部分があちこちのページに書かれているのだ。極めつけは今日の午前中で、どのページの楽譜も「ミレミレ」ばかりになっていた。昨日までは別の楽譜が載っていたはずのところもすべて「ミレミレ」に変わっている。


(リアルタイムで書き換えないとあんなふうになるはずがない)


 慧人はあの本が不思議な力で書かれているのだと実感せずにはいられなかった。同時に精霊は実在するのだと心の底から理解した。


(もし本当にあれが精霊の仕業だとしたら、どうなるのか最後まで見届けたい。それにどうして「ミレミレ」なのか理由も知りたい)


 三十六年の人生で精霊なんてファンタジーな存在に出くわしたのは初めてだ。できればこの先どう変化するのか知りたい。ほかの記号や文字も変化するのか確認しつつ、今回の変化が何を意味しているのか解読したいとも思っていた。


(今のところ楽譜が『エリーゼのために』っぽいのと、前後に反復記号っぽいのが付いてるのでワンセットって感じなんだよな)


 太い二本線と「:」が組み合わさっているように見えるあれは、おそらくリピートと呼ばれる反復記号だ。実際は太線と細い線に「:」だが、何度も見ているうちに慧人にはそれがリピートに見えてきた。ちなみに名前と意味を思い出すのに半日かかった。きっと楽譜を見なくなって随分経っているからだろう。記号にどういう意図があるのかはわからないが「ミレミレ」をくり返し読ませたい、ということだと慧人は理解した。


(それがどのページにも載ってるってことは、それだけ楽譜が重要な何かってことだよな。それにしては「ミレミレ」だけってのがよくわからないけど)


 それにほかの記号や文字と意味が繋がっているのかもわからないままだ。今のところ変化しているのは楽譜のところだけのようだが、ほかの部分もこれから変わるのかもしれない。そのときすべての意味がわかる可能性がある。それとも別の謎がまた発生するのだろうか。あれこれ考えているうちに段々とやる気が戻ってきた。


(とにかく精霊の本のことは黙っておこう)


 しかし、勘がよさそうなファントス相手に誤魔化しきれるかどうか……それならと、慧人は自分から別の話題を振ることにした。


「ルイスのこと、よくわかってるんですね。やっぱりそのくらい優秀でないと従者は務まらないんでしょうね」


 若干の嫌味を込めながらそう言うと、器用に片方の眉だけひょいと動かした。そのまま少し考えるような仕草をするファントスにドキッとする。もしや話題をすり替えようとしていることに気づかれたかと警戒しながら見守った。

 ファントスが「フッ」と息を吐いた。続けて「まぁいいか」とつぶやくような声が聞こえる。


「友人としても従者としても付き合いが長いので、ルイス様の考えていることは大体予想できるようになりましたね」


 どういう意味か一瞬わからなかった。「ん?」と首を傾げ、目をパチパチとしばたたかせる。


「あの、ファントスとルイスは友人なんですか?」

「おや、ご存知なかったんですか。なるほど、周囲に関心がないのは噂どおりのようで」


 もしかして嫌味を返されたのだろうか。思わずムッとすると「悪い意味で言ったわけではありませんよ」と返ってきた。

 こげ茶の目がじっと見ている。慧人も負けじと見返した。


「やはり思ったとおりの人物のようで安心しました」


 つぶやくような小さな声を聞き取ることはできなかった。「何か?」と聞き返したが「いいえ、なんでもありません」と返される。それでもこげ茶の目が逸れることはなく、まるで何かを探っているように見えなくもない。


(もしかして俺が「ケイト」じゃないってばれたか?)


 よく気がつく優秀な執事なら、とっくに何か気づいているに違いない。焦り始めたところで「ところでケイト様は貴族落ちという言葉をご存知ですか?」と尋ねられ、「へ?」と力が抜けた。


「きぞくおち?」

「はい。じつはわたし、元は第五爵の出身でして、子どもの頃はルイス様と学友だったんです」


「ですから友人と告げたまでです」と続いた言葉に、「へ?」という間抜けな返事がこぼれ落ちた。

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