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第20話 小さな異変

「そういえばルイス、気づいているか?」


 美形の両親が屋敷に来て八日目の朝食時、イケオジの父親が不意にそんなことを口にした。ルイスを見ると、フォークを持った手を止めて父親に視線を向けている。


「今年はやけに雨期の訪れが遅い。それなのに香山かぐやまは雨続きだ」

香山かぐやまがですか?」


 珍しくルイスが反応した。手にしていたフォークを置き、なにやら難しそうな表情を浮かべる。


(かぐやまってどこだ?)


 おそらくこの辺りの地名だろうが、なぜか聞いたことがあるような気がした。「かぐやま……かぐやま……」と反芻していた慧人の頭に「あめのかぐやま」という言葉が浮かぶ。


(国語で習った中にそんな言葉があったっけ)


 まさか向こうの世界で勉強した単語をこちらの世界で聞くことになるとは思わなかった。それとも自分にそう聞こえているだけで、実際は違う名前なのだろうか。そんなことを思いつつ、隣に座るジェレミに小声で「かぐやまってどこにあるんだ?」と尋ねた。


香山かぐやまは僕たちが住んでいる別邸がある、丘のような小さな山の名前です。この屋敷からだと、北側の窓からなら見えると思います」

「北側……」

「書庫への廊下は南向きの窓しかないので、たぶんあの窓からは見えないです」


 ヒソヒソと教えてくれたジェレミに「ありがと」と伝える。「いいえ」と言って微笑んだジェレミだが、すぐに眉尻を下げてしまった。


「どうした?」

「……別邸はもともとルイス兄様のお母様が住んでいたところで、精霊の影響を受けにくい場所なんだそうです」

「精霊の影響って……あ、」


 あぁ、そういうことか。精霊のせいでジェレミが池に落ちたと思い込んでいるルイスは、だから精霊の影響を受けにくい場所に弟を住まわせることにしたのだろう。眉尻を下げたままジェレミが微笑む。


「兄様が僕を心配してくれてるのはわかってます。でも、そこまでしなくてもいいのにってやっぱり思ってしまって……」


 こういうとき、どう答えるのが正解なのだろうか。兄に嫌われているかもしれないと相談してきた塾の生徒のことを思い出したが、自分がなんて答えたのか思い出せない。


(無難に「そのうち一緒に住めるようになるよ」なんて口先だけで慰めてもなぁ)


 そんな言葉でジェレミが喜ぶとは思えなかった。考え込む慧人に気づいたのか、ジェレミが「気にしないでください」と微笑み、「それに香山かぐやまはとても素敵な場所なんですよ」と囁いた。


香山かぐやまにはリンデンという木がたくさんあって、ハートみたいな葉っぱが可愛いんです。風が吹くと葉っぱが擦れる音がして、兄様のお母様はその音がお気に入りだったって聞いてます。兄様がくれた鳥籠も、香山かぐやまにあるリンデンの木で作ったものだったそうです」


 しょげていた顔が瞬く間にキラキラした表情に変わる。ルイスの話をするときのジェレミはいつもうれしそうで、それだけ兄を慕っているということだろう。そうした表情を見るたびに「ルイス兄様とお兄様はとてもお似合いだと思ってます」というジェレミの言葉を思い出した。心の底からそう思っているのか、天使のような笑顔で「ルイス兄様のこと、どう思いますか?」と尋ねてくることもある。


(ジェレミのためにも、せめて友人くらいの関係になりたいとは思ってるんだけどなぁ)


 ファントスが言うように以前ほど疑っていないのなら、会社の同僚、もしくはクラスメイトくらいの関係にはなれるかもしれない。そうなるためにもまずは話をしなくては駄目だ。だが、相変わらず話しかけるきっかけが持てないままでいた。


(俺には貴族同士の会話なんて無理だし、じゃあ二十九歳の若者が興味を持ちそうな話題をと思っても何も浮かばないしなぁ)


 ふと、会社の後輩たちのことが頭に浮かんだ。一回り以上年が違う後輩もいるが、仕事の話をしているうちに打ち解けられた気がする。


(そうか、そういう話題から入って、少しずつプライベートな話をするってのも手だな)


 問題は仕事のような共通の話題があるかどうかで、それを見つけるのが一番の難題かもしれない。


(でも、希望は見えた)


 書庫でルイスが興味を持ちそうなネタ探しもついでにやるとしよう。ようやく一歩前進したような感覚に少しだけ気が楽になる。


「それに香山かざんという領地の名前は香山かぐやまからきてるんですよ。初代の藤桜公が香山かぐやまの美しさを褒め称えて名付けたんだとか」

「へぇ」

「王都も香山かざんも昔は天候が不安定で大変だったそうですけど、そのときから香山かざんはずっと藤桜公が守ってるんです。そのおかげで藤桜香山とうおうかざんは今では豊かさの象徴になりました。そんな香山かざんをルイス兄様はもっと豊かにしようとしているんです。すごいですよね」


 ジェレミがキラキラした眼差しでルイスを見た。もはや慕っているというより心酔しているようにさえ見える。それに苦笑しながら慧人もルイスに視線を向けた。

 ルイスとイケオジの父親は難しい顔をしながら話し込んでいる。いくつか地名らしき名前を口にしているということは、ほかの領地でも気になることが起きているのだろう。


(雨期が遅いってことは梅雨入りが遅れてるってことだよな)


 慧人の脳裏に「異常気象」という言葉が浮かんだ。向こうの世界では地球温暖化で年々気候がおかしくなっていると言われていた。この国は精霊の力で天候が安定していると本に書いてあったが、精霊の力も万能ではないということなのだろう。


「王都以外で数カ所、雨期とは明らかに違う現象が起きているとは聞いていました」

「そうか。わたしのほうにも似たような報告が届いていたな」

「ですが、王都からはとくに気になる知らせは届いていません。もしこれが精霊を原因とする現象なら占術師が気づかないはずがないんですが……」


 ルイスがちらりとこちらを見た。


(ん?)


 一瞬絡んだ視線はすぐに外れ、再び父親を見ながら話を続ける。


(さっきのはなんだ……?)


 ほんの一瞬だけ絡んだ視線が妙に気になった。あんなふうに見られたのは初めてで、どうしたのだろうかと首を傾げる。


(何か言いたそうにも見えたけど……って、まさか)


 慧人の脳裏に「ケイト様にはその種を少しばかり潰していただきたいのです」というファントスの言葉が蘇った。あのときファントスは精霊に関することでルイスに協力してほしいと言いたかったに違いない。そして、おそらくルイスも似たようなことを考えている。そうでなければ“主人のために率先して動く”ファントスが勝手にあそこまで話をするとは思えなかった。


(自分が元貴族だとか、ルイスとは今も友人だと思ってるとか、わざわざ言うのはおかしいと思ったんだ)


 お涙頂戴ではないだろうが、ああいうことを言えば協力するに違いないと踏んでの言葉だったのだろう。「食えない奴どころかやっぱり策士だったってことか」と苦々しく思いつつ、ルイスの背後に控えているファントスを見た。ほんの少し口元に笑みを浮かべているように見えるのは気のせいだろうか。

 パンを咀嚼しながら「マジか」と宙を見た。慧人はお節介好きでも世話焼きでもない。学生時代は無難に過ごし、社畜になってからは仕事を円滑に進めるために手を貸すことはあっても本来そういうのが得意な性格ではなかった。


(でもなぁ。一宿一飯の恩って言葉もあるしなぁ)


 ルイスは「ケイト」のことを大いに疑っていたはずだ。それでも屋敷を追い出すことはしなかった。おかげで異世界ホームレスになることもなく、社畜のときには味わうことがなかった贅沢な暮らしを満喫させてもらっている。精霊の書いた本を見つけたのは想定外だったが、それでも扱いが変わることはなかった。諸々を考えるとルイスは自分にとって恩人ということだ。結果的にそうなっただけだとしても返せる恩は返したほうがいい。


(もらってばかりってのもよくないし……って、そうか)


 ファントスの口振りでは、ルイスにとって精霊は頭痛の種の一つらしい。この国での精霊は神様よりずっと身近な存在で、今起きているらしい天候の変化にも関わっているに違いない。そして自分の手元には精霊が書いた謎の本がある。


(あの本に何か書いてあるかもしれない。少なくともわざわざ精霊が書き換えるような本だ、きっと何か重要なことが書かれているはず)


 それが異常気象の原因を探る手助けになるかはわからないが、少なくとも精霊が何か訴えているのは間違いなかった。そもそもあの本は明らかにほかの本とは違っている。とんでもない内容が見つかってもおかしくない。


(よし、そのあたり注意して調べてみるか。でもってそれをルイスに報告すれば何かの役には立つかもしれない)


 そう思ったところで視線を感じ、「ん?」と顔を上げた。ルイスは父親と話を続けている。後ろに立っているファントスに視線を向けると、こげ茶の目がなんとなく笑っているように見えた。


(えぇ、えぇ、そうですよ。思惑どおり手を貸しますよ)


手のひらで転がされているのは癪に障るが、自分のためでもあると思えばなんてことはない。改めて「よし」と気合いを入れる。


「お兄様、どうかしましたか?」

「いや、ちょっと忙しくなるなと思って」

「何かするんですか?」

「精霊のこと、もっと詳しく調べようと思ってさ」


 内緒話のようにヒソヒソと答えた慧人に、ジェレミがパァッと表情を明るくした。おそらくルイスと仲良くしようとしているのだと受け取ったのだろう。期待に満ちた天使の笑顔からはとんでもない圧を感じるが、ジェレミが喜んでくれるのはうれしい。慕ってくれている相手を裏切るようなことは、できればしたくないのが本音だ。


(どちらにしても精霊をネタにしないと話しかけるきっかけがなさそうだしな。話さないとルイスがどんな奴かもわからないままだし)


 それでは歩み寄ることもできない。精霊の話題はリスクが高いが、反面絶対に食いつくネタでもあるからうまく使えば最高の話題になるはずだ。

 父親と小難しい話を続けるルイスは、まるで大企業の次期社長といった感じに見える。香山かざんという領地がどのくらいの広さかはわからないが、一国一城の主には変わりないだろう。ただの社畜だった自分には想像もつかない重圧や悩みの種をルイスは抱えているに違いない。「若いのに大変だな」と思うのと同時に、今読んでいる精霊の本が頭に浮かんだ。


(あの本を見つけたのは何かの縁だったのかもしれない)


 不意に耳元でチリンと鈴の音が鳴った気がした。書庫以外で聞こえたのは久しぶりで、相変わらず自分以外には聞こえないのか誰も気にしている様子はない。

 朝食を終えた慧人は、手伝うことができないと眉尻を下げるジェレミに「気にするな」と声をかけ、美形両親と食堂を出て行くのを見送ってから書庫へと向かった。いつもならファントスと一緒だが、新顔の執事とルイスの用事を済ませることになったと言われ一人で書庫に向かっている。


(あの新顔、俺のこと疑ってるっぽかったな)


 紹介されたハントという執事の目つきは終始鋭いものだった。元はルイスの父親に仕えていた使用人で、この先ますます忙しくなるであろうルイスの新しい執事になったのだそうだ。おそらく未来の藤桜公に仕えるのだと気合いが入っているのだろう。


(「ケイト」の実家にはいろいろ噂があるみたいだし、疑われても仕方がないか)


 ひげ面の男性を思い出し、小さくため息をついた。歩きながら窓の外を見る。空は相変わらず雲一つない晴天だ。そういえばここに来てから晴れ以外の天気を見たことがない。よく考えれば二カ月以上も晴天続きというのはおかしな話だ。


(異世界でも異常気象なんてあるんだな)


 そんなことを思いながら書庫に入った。すっかり日課になった精霊の本を取り出し、床に座ってからパラパラめくる。


(この中にもしかしたら異常気象のヒントがあるかもしれない)


 ただの勘だが、なぜか慧人にはそう思えて仕方がなかった。それを後押しするように鈴がチリンと鳴る。相変わらず楽譜部分は「ミレミレ」ばかりだが、記号と文字は少しずつ変化しているように見える。


(せめて楽譜のところだけでも意味がわかるといいんだけど)


 ページに触れないように気をつけながら、慧人はひたすら楽譜を見つめた。

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