「ここに楽譜っぽいのがありますよね。ここに書かれてる音符が書き換わったんです。しかも見ている目の前で」
脚立のような台に腰掛けたルイスの脇に立ち、開いたページのあちこちにある楽譜を指さしながらそう説明した。
今見ているページには十八個の楽譜が載っているが、おそらくもとは一個や二個くらいだったはずだ。いまやどのページの楽譜も二桁台になり、慧人の頭には「こんにちは! こんにちは!」と手を振る小さな精霊たちの姿が見えそうな気さえしている。
「楽譜?」
疑問符が付いたルイスのつぶやきに「ん?」と思いながら顔を見た。もしかして楽譜を知らないのだろうか。
向こうの世界なら音楽に詳しくない人でも楽譜くらいは知っている。学校の音楽の授業で必ず目にするため、楽譜が読めなくても楽譜だということはわかるはずだ。ジェレミいわくこの領地は豊かさの象徴らしいから、そうしたところに住む貴族なら音楽の一曲や二曲嗜んでいてもおかしくないと思ったのだが違ったのだろうか。
「ここに、ちょっとわかりづらいですけどドシドシって音符と、両脇にあるのはリピートって反復記号で……」
指でさしながら説明していると、再び碧眼がちろっとこちらを見た。内容を疑っているというより「何を言っているんだ?」というような表情に見える。
「もしかして、楽譜を見たことないですか?」
「音楽は嗜むが演奏することはない。楽譜に精通している貴族がいるとは思わなかった」
「あー、なるほど」
どうやら芸術は鑑賞するものであって自らすることではないらしい。
「おまえは楽譜が読めるのか?」
「まぁ、ちょっとだけですけど。あぁいや、ほら、ええと、向こうの、丹下公の家でいろいろ本を読んでいるうちに覚えたっていうか」
なぜ読めるのだと問いかけるような眼差しに、慌ててそう答えた。「ケイト」は読書家だったらしいから、今の言い訳を疑われることはないだろう。
「物知りだったとは知らなかった」
「たまたまです」と答えつつ、これ以上突っ込まれないように音符を指さしながら説明を続ける。
「このドシドシって音なんですけど、これ、ハロハロとも読めるんです。元々はミレミレって書いてあったんですけど、それだとハロハロとは読めないんですよね。まぁこれは俺が読み方を勘違いしてたせいなんですけど……。そのことに俺が気づいたら、ハロハロと読めるようにドシドシに書き換わったんです。目の前で音符が泳ぐみたいに動き出すのを見たときは驚きました。音符のことオタマジャクシってよく言うけど、あれはまさにオタマジャクシでしたよ」
ページを見ながら説明していた慧人は、反応がないことに気づきルイスに視線を向けた。なぜか碧眼は誌面ではなくこちらをじっと見ている。しかもとんでもない至近距離でだ。「ひぇ」と声を漏らした慧人は、慌てて背筋を伸ばした。どうやら眼鏡をしていたときの癖でページにどんどん顔を近づけてしまっていたらしい。
「いやぁ、勘違いまで読み取るなんて、精霊ってすごいですよね」
はははと愛想笑いを浮かべながら、ドッドッと速くなる鼓動に「落ち着け、落ち着け」と何度も言い聞かせる。
「もし俺が和名を思い出さなかったらどうしたんでしょうね。ドレミは忘れないにしても、ドイツ語読みなんてツェーしか思い出せないままなのに」
やや早口で説明している間もルイスはじっとこちらを見ていた。睨まれるでもなく、ただ見つめられるだけなのはどうにも落ち着かない。
「ワメイとはなんだ?」
にへらと笑っていた慧人の頬がヒクッと引きつった。「ドイツゴというのも耳にしたことがないな」と続く言葉に眉がピクッと動く。
(しまった)
和名は日本という国が存在してこそ成り立つ言葉だ。ドイツ語もドイツがなくては意味を成さない。何も考えずに口にしてしまったが、これでは明らかに「俺はこの世界の人間じゃありません」と言っているようなものだ。
「どうした?」
「あー……ええと、楽譜にはいろんな読み方があって、音符にもいくつか読み方があるというか……そうだ、外国語! 外国語と同じようなものだと思ってもらえれば」
「ガイコクゴ……?」
イケメンの眉間に皺が寄った。片言のような言い方は単語自体を知らないという雰囲気だ。「まさか外国語って言葉も存在しないのか?」と思った慧人の頭に、最初の頃読んだ建国記などの本の内容が浮かんだ。
(そういや外国の話や戦争みたいなこと、一切載ってなかったな)
この国には“外国”という概念がないのかもしれない。もしくはこの世界にエレメターナ王国という国しかない可能性も出てきた。
(マジか)
もしそうだとしたら気になることが多々出てくる。食料のこと、文化のこと、技術のこと、そうしたものが一国だけで発展できるとは思えないからだ。もしかして、そうしたことも精霊の力でどうにかなっているということだろうか。
(いや、今考えるべきはそういうことじゃない)
まずはルイスの疑問を逸らすことが先決だ。瞬きすらせずにじっと見つめる碧眼に、うなじからツーッと汗が流れ落ちる。「イケメンってだけで圧がすごいんだから勘弁してくれよ」と思いながら「ええとですね」と愛想笑いを浮かべ、「楽譜にはいろんな読み方があるんです」と言い切った。
「芸術とはそういうものです」
我ながら言っていることが無茶苦茶だ。しかしほかに適当な言い訳が思いつかない。それなら自信たっぷりにそれらしいことを言い切るしかない。
「そうなのか?」
「そうなんです」
ルイスの視線が本に戻った。追求してこないということは、一応は納得してくれたということだろうか。「案外押しに弱いのか?」と思いつつ、ページを見ているルイスを見守る。
「たしかに芸術は奥が深い。音楽には詳しくないが、よく知っているらしいおまえがそう言うならそうなのだろう」
まさかあんな説明で本当に納得してくれるとは……。そんなに簡単に信じていいのかと思わなくもないが、これ以上突っ込まれても言い訳することができないから余計なことは言わないほうがいい。
「それで、どうしてその音符とやらが動くことになったんだ? おまえは何を勘違いしていたんだ?」
「ええと、音符の読み方がずれていたのが原因で、どうやら精霊は俺の勘違いを元に楽譜を書いてたみたいなんです。で、その勘違いに俺が気づいて、ハロハロとは読めないと気づいた途端に音符を書き換え始めたんです」
「その“はろ”というのが、精霊が伝えたかったことなのか?」
「そうみたいですね。ちなみにハロではなくて“hello”と言いたかったみたいですけど」
「はろー?」
「英語の挨拶……って、あー、その、挨拶の一種というか」
ルイスの眉間に皺が寄る。「そんな挨拶は聞いたことがないが」とつぶやく声に「お、音楽、そう、音楽的な挨拶です」と慌ててつけ加えた。
「ええと、どうやら精霊は挨拶をしたかったようで……。と、とにかく、精霊は俺の考えていることを読み取って楽譜を書き換えたのは間違いないです。しかも子どもの頃の思い出まで読み取ってというのがすごいというか面倒くさいというか、あぁいえ、精霊はすごい存在だということはわかってます」
一通り話を聞いたルイスが、再び考えるような仕草を見せた。指の背を唇に当てたまま、じっとページを見ている。
「ここに書かれている楽譜とやらは、また形を変えるかもしれないということか?」
「そこまではわかりませんけど、もし精霊がほかに言いたいことがあるなら変わるかもしれません」
「なるほどな」
ルイスの声に重なるようにチリンと音がした。もしかしなくても「言いたいことがある!」ということだろうか。
「夕食前に見たときと内容は変わってないか?」
「ちょっと待ってくださいね……ええと……」
ルイスから本を受け取り、何ページかペラペラとめくる。もはや元の数がどうだったかはわからないが「ドシドシ」の音符は変わっていない。どのページも「ドシドシ」と反復記号が書かれたままだ。
「とくに変わってはないようですが……って、あっ」
見ていた音符がゆらりと揺れた気がした。いや、気のせいじゃない。棒の部分がまるで屈伸運動をするように動き、黒丸の部分が一瞬だけぐにゃりと歪む。
「これ! これです! また書き換わり始めました!」