慌ててルイスにページを見せた。二十個以上書かれていた楽譜が少しずつ数を減らし、空いたスペースを埋めるように残った楽譜が大きくなっていく。大きくなった五線譜の上に誌面を泳ぐように動き回っていた音符が集まり始めた。複数の音符が重なるにつれて音符自体が段々と大きくなる。すると、膨らんだ音符が五線譜の上をクルクル回りながら棒の長さや黒丸の大きさを変え始めた。まるで身支度を整えるような動きに呆気にとられていると、スタンバイできたというように音符の動きがピタリと止まる。
リアルタイムで書き換わる様子を慧人とルイスは食い入るように見つめていた。最後の音符が棒の部分をピンと伸ばしたところで書き換えが終わったらしい。無言で見ていたルイスが小さく息を吐き、「こんな現象はわたしも初めて見た」と口にした。
「これってどう考えても精霊が書き換えてるってことですよね」
「たしかにこんなことができるのは……」
ルイスの言葉が止まる。どうしたのだろうと視線を向けると近いところにイケメンの顔があって驚いた。本を見ることに夢中になって、またもやページに顔を近づけてしまっていたらしい。
「す、すみません」
慌てて背筋を伸ばすと、視線を逸らしたルイスが「いや」と言って本を見る。
「これまで何冊もの精霊が書いた本を見たが、こんな現象は初めてだ。これも今起きている天候の変化に関係しているのかもしれない」
「俺もそんな気がします。俺の場合は勘というか、鈴の音が聞こえるからそう感じただけですけど」
「鈴の音?」
「はい。って、今も鳴りましたけど、聞こえませんか?」
すっかり聞き慣れたチリンという音がした。ところがルイスにはやはり聞こえないらしく「何も聞こえないが」と眉をひそめている。
(説明したほうがいいんだろうけど、なんて言えばいいのかわからないしなぁ)
自分でもどうして鈴の音として精霊の声が聞こえるのかわからない。わからないものを説明するのは難しい。とりあえず黙っておくかと、「あー、いえ、気のせいだったみたいです」と笑いながら誤魔化した。
「これは貴重な発見かもしれない。いや、間違いなく重要な発見だろう。ところでこれも楽譜なのか?」
ルイスが指しているのはたった今書き換わった楽譜だ。
「はい。……たぶん、これはシとミですね」
音符は「ドシドシ」から「シミ」に変わり、右端にだけリピート記号が書かれている。だが、左端には記号がない。リピートというのは記号の間をくり返すという意味で、一つだけでは意味を成さないはずだ。ページをめくってほかの楽譜を確認するが、どれもリピートは右側にしか書かれていなかった。
(シ、ミ、それとリピートが一つ……)
せっかく一つ謎が解けたというのに、別の謎が現れた。これも精霊が訴えたい何かだとして、いい加減普通の文字で書いてくれないだろうか。
(精霊って面倒くさいんだな。まぁ、神様なんてどこの国でも面倒くさそうだけど)
とくに日本みたいな多神教の国は神様の数がやたらと多く、それぞれ性格付けも違っていてよくわからない。「
「これにも意味があると思うか?」
書き換わった楽譜を指でなぞりながらルイスがそう口にする。
「うーん、たぶん……いや、きっとありますね」
たぶんと口にしたときチリン! と大きな鈴の音がした。「あるに決まってる!」と言われたような気がした慧人は、「だよなぁ」と内心ため息をつく。
「そうか」
ルイスがちろっと碧眼を向けてきた。何か言われるのかと思ったものの、口を開くことはなく本に視線を戻す。そうかと思えば楽譜を撫で、またもやこちらを見た。何か言いたそうな素振りを見せるわりには何も言わない。
(こういうの、前にもどこかで似たようなことがあったような……?)
不意にジェレミの顔が浮かんだ。そういえばお兄様と呼ばれ始めた頃、こんなふうにチラチラと何度も見られた気がする。そのときの様子にそっくりだ。
(まさか、話しかけたいのに話しかけられない……なんてことはさすがにないか)
これまでズケズケと言っていたルイスが急にしおらしくなるとは思えない。
(言いたいのに言えない……聖霊の本……似たような力を持つ人が必要……)
ファントスの言葉を思い出し、もしかして手伝ってほしいのだろうかと考えた。それならそう言えばいいのにと思いつつ声をかける。
「俺、手伝いましょうか?」
慧人の言葉にルイスがパッと顔を上げた。期待するような表情に「マジか」とため息が漏れそうになる。どうして手伝ってほしいというひと言が言えないのだろうか。変なところで遠慮するんだなと思いながら本を見た。
「というか、言われなくても手伝いますよ。そもそもこの本を見つけたの、俺ですし」
そう告げると、なぜかルイスの顔が少しずつ険しくなっていく。「手伝ってくれるのはありがたいが……」と珍しく歯切れも悪い。そのまま口を閉じると本に視線を落とした。
(何なんだ? 手伝ってほしかったわけじゃないのか?)
言いたいことがあるならはっきり言ってくれなければわからない。
「ありがたいけど、何なんです?」
「……この本は精霊が書いた本、いや、今現在書いている最中の本だ」
「そうですね」
「そしてこれからも書き換わる可能性がある」
「おそらく」
「……やはり危ない」
「は?」
「手伝ってほしいのは山々だが、精霊に近づくのは危険だ。やはりこれはわたしが調べる」
なるほど、言い出せなかった理由はそっちか。脚立のような台から立ち上がったルイスを「ちょっと待って」と呼び止めた。本を持った腕を掴み、「楽譜、読めるんですか?」と訊ねると「それは……」と言葉を詰まらせる。
「精霊が書き換えてるのは楽譜の部分です。つまり鍵は楽譜にある。楽譜が読めないルイスじゃ調べるもなにもないと思いますけど」
「だが、精霊に関わるのは危険だ」
「ジェレミのようなことが起きるって言いたいんですか?」
ルイスが鋭い眼差しを向けた。
「そうだ。これまでは内容が書き換わるだけで済んだかもしれないが、精霊はああやって様々な事柄に干渉してくる。つまり人を傷つけることも可能ということだ」
イケメンに睨まれると威圧感が半端ない。思わずグッと唇を噛んだものの、負けじと見つめ返した。
(ここで引き下がったらこの本を二度と見られなくなる気がする)
それでは精霊が何を言いたいのはわからないままになってしまう。せっかく一つ目の謎が解けたのにここで放り出すのは嫌だ。なにより「駄目だ! 駄目だ!」というように鳴り響く鈴の音が慧人の気持ちを駆り立てる。
「そんなに俺のことが心配ですか?」
「……なんだって?」
「心配だから遠ざける、なるほど悪くない方法だとは思います。でも、今回のことは俺を遠ざけても解決するとは思えません」
「言うな」
「当然です。文字が読めない相手に本を渡したところで内容を理解できるはずないのと一緒ですからね」
ちょっと言い過ぎたかと思いながら、「いや、このくらい言わないと通じない相手だ」と自分に言い聞かせた。
(大体一人でなんでもできるなんて、そんなスーパーマンは異世界にもいないだろ)
向こうの世界でも自分の力を過信している後輩はいた。それに辟易しても口には出さないようにしてきた。自分の仕事で手一杯だったこともあるが、昨今話題のナンチャラハラスメントに巻き込まれたくなかったからだ。でも、ここは違う。自分は会社員ではないし相手は上司でも部下でもない。
(それに精霊の言葉を読み解くのは俺がやるべきことだ)
なぜかそう思えて仕方がなかった。
チリン。
鈴の音も「そうだ」と言っているように聞こえる。もしかしたら精霊に都合よく使われているだけかもしれない。それでもかまわないと思った。使命感のようなものと同時に、これは“俺がしなくてはいけないこと”だという奇妙な情熱が沸々とわき上がってくる。
ルイスの腕を掴む手に力が入った。逃がさないと思いながらイケメンを睨みつけるように見る。そのとき不意にどこからか声が聞こえてきた。
――僕にできることなんて何もない。
耳元で囁かれたような、それでいて頭の中に直接語りかけられたような声に「え?」と声が漏れた。