(今の声って……)
周りを見るが、当然自分たち以外に人はいない。まさか精霊の声が聞こえたのかとも思ったが、それにしては聞き覚えがある声のような気がした。
(今の声……「ケイト」か?)
そうだ、「ケイト」の声にそっくりだ。もしかして記憶が蘇ったのだろうか。慌ててあれこれ思い出そうとしてみたものの、相変わらず頭に浮かぶのは「佐々野慧人」のことばかりだ。
(どういうことだ? 思い出したんじゃないのか?)
眉をひそめながら考え込んでいた慧人は、視線を感じてハッとした。ルイスがじっとこちらを見ている。先ほどの暴言に怒っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。まるで探るような眼差しに緊張が走る。
「おまえは本当にケイト・
尋ねるというより確認しようとしている声に聞こえた。見透かすような澄んだ碧眼に見つめられ、額にじわりと汗が滲む。
「それ、今関係ありますか?」
下腹にグッと力を込めながらそう答えた。下手に誤魔化したり言い訳したりするより、ここは押し切ったほうがいい。おそらくルイスにはそのほうが効果的だ。そう判断し、じっとルイスを見る。
ルイスも慧人をじっと見ていた。薄暗い書庫を照らすランプの明かりが澄んだ碧眼に映り込んでいる。何を考えているかはわからないが考え込んでいることは間違いない。しばらく沈黙が続いた。明かり取りしか窓がない書庫だというのに、あまりの静かさに外の音が聞こえてきそうなほどだ。あれほど鳴っていた鈴もピタリと止んでいる。
「たしかに今、そのことを問い詰めても意味がないな」
静かな部屋にルイスの低い声が響いた。
「それに今のおまえがケイト・丹下青鏡であるほうがいい」
続いた言葉はつぶやくような小ささで、「え?」と聞き返したものの「なんでもない」と返される。
「おまえが言うとおり、わたしでは楽譜とやらを読み解くことはできない。この本の解読を手伝ってくれないか?」
どうやらこれ以上突っ込む気はないらしい。それにホッとしつつ、初めて耳にする口調に「なんだ、そういうことも言えるんじゃないか」とため息が漏れた。
(そもそも自力で解読できないことは最初からわかってただろうに)
だから「手伝ってほしいのは山々だが」と口にしたのだ。
「最初から素直にそう言えばいいのに」
つい漏れてしまった言葉にハッとした。余計なことを言ってしまったと思い、また一人で調べると臍を曲げられるのではとルイスの顔を窺う。怒っていないように見えるが、なんともいえない微妙な表情を浮かべている。何か言われるかもしれないと慧人が身構えていると、なぜかルイスが視線を逸らした。
「…………心配したのは間違いない」
「へ?」
気のせいでなければ目元が少し赤くなっている。
「精霊は気まぐれだと言われている。たとえ精霊の本を見つけることができても、それだけでは精霊から身を守れる保証にはならない。しかも目の前で本を書き換えるなど前代未聞の事態だ。そんな状況でおまえを巻き込むのはどうかと思っただけで……なぜそんな顔をしている?」
まさか心配していると面と向かって言われるとは思わなかった。予想外の出来事に思わずポカンとしてしまう。
「いや、急に素直になってどうしたんだろうと思って」
そう答えると、一瞬だけルイスがばつが悪そうな顔をした。
「何も言わないのがよいことばかりでないことは、わたしもわかっている。普段から言葉が足りない自覚もある。ただ……」
「ただ?」
「……わたしは思うままに話せる立場ではない。相手が親兄弟でも結婚相手でも、それは変わらない。わたしは
この世界の人間ではないのだから、そう受け止められても仕方がない。「まぁ、そうかもしれませんね」と答えると、「そういう反応も変わっている」と返された。
「その自覚は、まぁ、一応あります。ですが、これがケイトなので諦めてください」
「……悪い意味で言ったわけではない。変わり者がすべからく危険人物だとも思っていない」
ルイスがチラッとこちらを見た。口にした言葉が失礼な部類に入る自覚があるのだろう。わかっていてもつい言ってしまい、言ってから気づいて心配になる、といったところだろうか。
(はいはい、わかってますよ。悪気があったわけじゃないんだよな)
想像以上の不器用さに苦笑してしまいそうになった。しかもあれこれ気にするタイプらしい。意外と繊細なんだなと思いながら笑いかけると、またもや視線を逸らされてしまった。気のせいでなければ耳がほんのり赤くなっている。不器用で繊細、さらに照れ屋といったところだろうか。
(なんだかどんどんルイスの印象が変わっていくなぁ)
最初に思っていた人物像とはまったく違ってきた。冷たい態度も心配している裏返しだと思えば気にならないし、素っ気ない口調も口下手なせいだと思えば可愛く見える。それに不器用な自分を自覚しているのなら、これから少しずつ変われるかもしれないということだ。
(ま、人生の先輩として温かく見守っていきますか)
目指すはなんでも話せる気さくな先輩といった感じだろうか。せっかくこうして話ができたのだからと、慧人はもう一歩前進させることにした。
「やっぱり不器用すぎません?」
「は?」
「さっきの話から察するに、気負いすぎてるっていうか気を遣いすぎてるっていう気もします。もちろん立場的なことは理解してます。でも俺相手にそういうの、必要ないですから」
碧眼が少しだけ大きくなった。
「丹下公から命令されてることなんて何もないですし、この家に悪さしようって気持ちもありません。それにお飾りって言われたことも気にしてません。前にも言いましたけど、何もしなくて三食昼寝付きなんてラッキーくらいにしか思ってませんでしたから」
「……やはり変わっているな」
「褒め言葉として受け取っておきます。あ、ちなみに今はその本の謎解きをするのが日課になってますんで、頼まれなくてもやりますよ」
ルイスが本を見た。眼差しは先ほどより柔らかくなっているように感じる。
「……懐かしいな」
「はい?」
「子どもの頃、王都で学んでいたときのことを少し思い出した。あの頃は周囲が年上ばかりだったからか、たまにおまえみたいなことを言う人もいた。ファントスもその一人だった。当時は子ども扱いされることが不愉快でならなかったが、今思えば悪くない環境だったように思う」
本を見ていた碧眼が慧人を見た。
「おまえと話していると、なぜかその頃を思い出す」
「そ、そうですか」
「ははは」と笑いながら内心ドキッとした。二十三歳の「ケイト」とは思えない言動のせいだろうが、だからといって自分に一回り以上年下の考え方や話し方をしろというのは無理な話だ。
「これが俺なので慣れていただけると幸いです……って、ええと、慣れてもらえたらうれしいというか、そうしてもらわないと困るというか、はは、はははは」
年上だと感じさせないように答えようとすると、今度は会社員のような言葉遣いになってしまう。
(今さら無理してもしょうがないか)
へらりと愛想笑いを浮かべる慧人にルイスが精霊の本を差し出した。
「わたしも時間を見つけてここに来ることにしよう」
「え?」
「わたしも一緒に調べる。楽譜のことはわからないが、それ以外でわかることがあるかもしれない」
「それはいいですけど……あの、俺が仕事場に行ったほうがよくないですか? 忙しいんですよね?」
「いや、精霊の本のことはできるだけ秘密にしておきたい。父上にもだ。ここには誰も近づかないから都合がいい」
「はぁ……まぁ、そういうことでしたら」
本を受け取りながら頷く。
「今夜はもう遅い。調べるなら明日からにしたほうがいい」
「あぁ、はい。今日はもう部屋に戻ります」
そう答えたが、なぜかルイスの視線はこちらに向いたままだ。
「……ほかにも何か?」
「いや。一人であまり無理をしないように」
「わかってます。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。精霊も俺に何か読み取ってほしくてこんなことしてるんでしょうし。ま、ちょっと面倒くさい方法だとは思いますけど」
そう言って苦笑すると、ルイスもほんの少し笑ったような気がした。初めて見る表情に「へ?」と驚く慧人に背を向け、ルイスが書庫を出て行く。
「……なんだよ、笑えるんじゃないか」
つい文句のような言葉が出てしまったのは鼓動が少し速くなったからだ。無表情よりはいいが、できれば不意打ちは勘弁してほしい。
(でもまぁ、ああいう表情を見せてくれたってことは、少しは距離が縮まったってことだよな)
初対面のときはこちらを見ることもなく、見ても値踏みするような眼差しだった。その後は会話なんてあるはずもなく朝食でしか顔を合わせることもない。そんな二人が、こうして精霊が書いた本を一緒に解読することになった。これは大きな一歩、いや二歩も三歩も進んだように思う。
(なんだか大きなプロジェクトを前にしているような気分だな)
これまでいくつもの大きなイベントに関わってきたが、こんなにやる気に満ちたのは久しぶりだった。期限があるのか、そもそも答えがあるのかもわからないが、ルイスとなら精霊が訴えたいことにたどり着けるような気がする。それに話をしたおかげで、ルイスがどういう人間か少しわかった気がした。
(真面目で優秀、不器用なうえに言葉にすることがちょっと苦手。おまけに一人でなんでも抱え込むタイプってところか)
しかも心配性ときている。立場上仕方ないのかもしれないが、あの性格では気苦労が多そうだ。そうした面でも何か手助けしてやれればと思っていた。どうせ長い時間をそばで過ごすなら、そうした間柄のほうがいい。互いに協力し合えるほうが絶対にいいはずだ。
なんとなく見えてきた明るい兆しに慧人の頬が緩む。「明日から忙しくなるぞ」と気合いを入れ直し、棚に本を戻したところで「ケイト」の声が脳裏をよぎった。
(僕にできることなんて何もない、か)
あれはどういう意味だったのだろう。「ケイト」の記憶はまったくないのに、なぜか胸がチクリと痛んだ。棚に戻した本の背表紙をしばらく見つめた慧人は、久しぶりに「ケイト」のことを考えながら書庫を出た。