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第26話 新たな謎の解読、開始1

 翌日、仕事が忙しいのか朝食の席にルイスの姿はなかった。慧人はジェレミの話に相槌を打ちながらも「やっぱりあの本のせいかな」と不在の席を見る。その後は主人同様不在だったファントスに代わり、新顔のハントに先導されて書庫に向かった。睨まれることはなかったものの、友好的とは言いがたい雰囲気に黙って後を付いてく。


(ハントには疑われたままって感じだな)


 立ち去るときの眼差しもそんな感じだった。小さくため息をつきながら、書き換えられた精霊の本を手に取る。

 昨夜見たとおり、どのページの楽譜も「シミ」と右側だけのリピート記号に書き換わっている。数は減ったもののサイズが大きくなったからかやたらと目立った。「ミレミレ」のときより「見て!」と主張しているような気がして仕方がない。


(シとミ……和名だとロホか)


「ドシ」のときと同じかと思って和名で考えてみたものの「ロホ」という言葉に聞き覚えはない。似ている言葉だと「ロボ」や「ホホ」、「ロロ」などあるが、どれも精霊の言いたいこととは違うような気がする。


(そもそも「ロボ」なんて言葉、異世界にはないだろうしなぁ)


 念のため耳を澄ませるが鈴の音はしなかった。「やっぱり違うか」と、もう一度楽譜を見る。


(そうなるとシミのままか、和名じゃないとすれば……まさかドイツ語か?)


 精霊が昔の思い出を元に楽譜を書き換えているとしたら、ドイツ語読みを習ったことも読み取られている可能性が高い。「マジか」と慧人の眉間に皺が寄った。ドイツ語読みは「ド」が「ツェー」ということしか思い出せないため、「シ」と「ミ」が何かわからない。

 床に座り、あぐらをかいた膝に本を載せてから「うーん」と目を閉じた。ドイツ語読みを習ったときのことを思い返すが、発音がかっこいいなと思ったこととアルファベットと違う読み方だったことしか出てこない。目を開け、天井に視線を向けながら明かり取りの窓から差し込む光を眺める。


(ドイツ語……音楽用語……そういや大学のときに一度だけ調べ直したことがあったっけ)


 大学時代、慧人は第二外国語でスペイン語を選択していた。スペイン語の先生が映画好きだったからか、語学は楽しく学ぶべきだと言ってよくスペイン語の映画を見せられた。その映画で「アモル」という言葉が出てきた。耳にしたとき不意に「アーモール」という言葉を思い出し、なんだったかなと意味を調べたのだ。


(小学生のときに散々思い浮かべた言葉だったから思い出したんだろうなぁ)


 初めて習ったドイツ語は、どの言葉も音楽用語だというのに魔法の呪文のように思えた。周りにいた小学生の誰も知らない言葉を知っているのがうれしくて、ますます秘密めいた言葉に感じた。「アーモール」という言葉は慧人の中で魔法の言葉になり、そのうち父親から自分を守る最強の呪文へと変わった。嫌な言葉を投げつけられるたびに心の中で唱え、「この呪文が守ってくれるから平気だ」なんて考えていたことを思い出す。


(実際はただのイ短調って意味なのにさ)


「アーモール」は「a moll」、日本語では「イ短調」という意味だ。そしてこの言葉を思い出すきっかけになった「アモル」は「愛」という意味を持つ。父親から自分を守ってくれているように考えていた言葉が「愛」と似た発音だったなんてと、調べたときはスマホの画面を見ながら思わず笑ってしまった。


(モールは短調で、たしか長調は……ドゥア、だったっけ)


 ネット検索したとき、モールの前に長調のドゥアという言葉が紹介されていた。こうしてドゥアまで覚えているのは、そのとき「こっちはドアみたいな発音だな」と思ったからだ。


(……待てよ。アーモールがイ短調ってことは、「アー」が「イ」、つまり「ラ」ってことだよな)


 ピアノの先生の言葉を思い出した。「ドレミと同じでテンポよく言っているうちに覚えられるわよ」と言われ、みんなで何度も口にした。そのうち誰かが「呪文みたい」と言い出し、だからそのとき習った「アーモール」を魔法の言葉のように思ったのだ。


(ツェー、ド……いやデ……だったような……)


 途中に「エー」や「エフ」のような英語っぽい読み方があった気がする。楽譜を睨みながら唸っていると「昼食のお時間です」という声が聞こえてドキッとした。驚きのあまり「ひゃっ」と尻が少しだけ飛び上がる。


「ファ、ファントス」

「随分集中していたようですね」


 こげ茶の目が開いたままの本に向けられている。さり気なく隠すようにページに手を載せるが、その必要はないかと手を退けて本を閉じた。棚に戻す慧人に「昼食はルイス様の執務室で取っていただきます」とファントスが告げる。


「執務室?」

「はい。その本について話がしたいそうです。食堂では人目がありますので執務室で」

「わかりました」


 やはりファントスはこの本が何か知っている。おそらくルイスに聞いたのだろう。


(本のことは秘密にしておきたいって感じだったけど、ファントスは別ってことか)


 ファントスはルイスのことを「よい学友関係だった」と言っていたが、ルイスにとっては今もそうに違いない。「そういやファントスにも俺みたいなこと言われたって言ってたっけ」と昨夜の言葉を思い出しながら前を歩く背中を見る。ファントスの家は没落したらしいが、こうして使用人としてそばに置き続けているのはルイスがそれだけ信用しているということかもしれない。


「本のことですが」


 書庫を出る前にファントスがそう言いながら振り返った。


「ジェレミ様に口外されませんように」

「わかってます」

「それから使用人にもです」

「はい」


 書庫を出て廊下を歩く。窓の外は相変わらずの晴天で雲一つなかった。爽やかな青空は見ているだけで気持ちがいいが、これが異常気象のせいだと思うと複雑な気分になる。


(そういや向こうで最後に見たのもこんな感じの空だったっけ)


 会社で仮眠を取る前に見た空を思い出し、直後に抱いた虚しい気持ちが蘇った。あのときは、まさか目が覚めたらこんなことになるとは思っていなかった。異世界転移なんてしていなければ今も睡眠不足の体に鞭を打ち、ただ追われるまま仕事をこなす日々を送っていたに違いない。


(あの頃に比べて今のほうがやり甲斐を感じるのはなんでだろうな。しかも自分ほうからやりたいなんて思ってるし)


 ここでは何もしなくても衣食住が与えられる。だからこそ追い出されることなく平穏に暮らせればいいと思っていた。だが、気がつけばガッツリとこの世界の仕組みに関わってしまっている。それが嫌だとかいう気持ちはない。精霊の伝え方は面倒くさいと思うが、だからといって放り出そうという気持ちもなかった。なにより精霊が何を訴えようとしているのか知りたかった。いや、知らなくてはいけない気がした。

 食堂へ続く手前でファントスが廊下を曲がった。執務室とやらに行くのは初めてなのに、なんとなく見覚えがあるのは気のせいだろうか。そんなことを考えながら窓を見ると、遠くに小高い山のようなものが見えた。そういえば初日も門の奥に同じような小高い山を見た気がする。もしかしてあれが香山かぐやまだろうか。

 ドアの前でファントスが立ち止まった。トントンとノックをし、「ファントスです」と告げると「入れ」とルイスの声が聞こえてくる。


「失礼します」


 ファントスに続いて部屋に入った慧人は、ようやくその部屋が初日に対面した場所だということに気がついた。あのとき座っていたソファやテーブルのほか、奥に大きな机がある。右側を見ると小振りながら食卓のようなテーブルや椅子もあった。そこに二人分の食事が用意されている。


(こんな部屋だったのか)


 あのとき冷静に物事を受け止められていると思っていた。だが、実際は部屋の様子を覚えていないほど緊張していたということだ。


(そりゃそうか。そもそも自分が誰かわからないままだったんだしな)


 それは今も変わっていない。「ケイト」の記憶がないまま「ケイト」として生きている。この世界に来てから三カ月ほど経つが、三カ月前にはまったく予想すらしていなかった展開になった。人生どうなるかわならないなと改めて痛感する。


(ま、その中でも断トツなのが異世界転移だけどな)


 不自由なく生活できるところに異世界転移できてよかった。そう思い、そうじゃなかったかもしれない可能性に今さらながら気がついた。


(異世界転移ガチャでハズレを引いたと思ってたけど、アタリだったのか)


 それに向こうの世界の自分もあながちハズレだったわけではない気がする。


(今さら向こうのことをそんなふうに思ってもどうしようもないけどさ)


心の中で自嘲しながら席に着くと、向かいにルイスが座った。しかし背後にファントスが控えることはなく、執務机らしき大きな机に積み上げられた書類の束を手にする。それを腕に抱えると「失礼します」と言って部屋を出て行った。

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