「何か気づいたことはあったか?」
二人だけになると、ルイスがそう問いかけた。グラスに伸ばしかけていた手を止めた慧人が「いえ、まだ」と答える。
「そうか」
「前回の方法が当てはなるかもと思って考えてはいるんですけど、思い出せないことが多くて」
「音符を別の読み方にするというあれか?」
「はい」
ルイスが何か考えるように指の背を唇に当てた。静かに見守っていると不意に碧眼と視線が合う。
「午後は時間がある。わたしも書庫に行こう」
「仕事はいいんですか?」
「今日すべきことは終わっているから問題ない」
「あー……でも、まだ何もわかってませんし、たぶん今の謎が解けない限り内容が書き換わることもないと思いますよ?」
「それはわたしに書庫に来てほしくないということか?」
若干不機嫌になった声色に、慌てて「違いますって」と首を振った。
「今朝、食堂に来なかったじゃないですか。そんなに忙しいのに無理してまでと思っただけです」
睨むように見ていた碧眼がスッと逸れた。どうしたのだろうと思っていると、ぼそりと「忙しいわけではない」と返ってくる。
「書庫に行く時間を作ろうと思い、早めに仕事を始めただけだ」
まさかの返事に目をぱちくりとさせてしまった。
(なるほど、それでさっきの書類の束か)
まさかそこまでして書庫に行く時間を作るとは思わなかった。昨夜のことといい、ルイスの印象がどんどん変わっていく。口下手、コミュニケーションが苦手、心配性、そうした言葉が次々と浮かぶなか、最後に頭に浮かんだのは「不器用で可愛い後輩」だった。ジェレミから天使のような笑顔と無邪気さを取るとルイスのようになるのかもしれない、なんて考えるとおかしくなる。
「なんだ?」
目の前のイケメンの小さい頃を想像したせいか、思わずクスッと笑ってしまった。
「いいえ、なんでもないです。じゃあ、午後は一緒に調べましょうか」
「あぁ」
それからはとくに会話らしい会話はなかった。それなのに最初の頃の食堂よりずっと居心地よく感じる。
(会話ってやっぱり大事だなぁ)
慧人は少しずつ歩み寄っていることを実感しながらパンをかじった。
昼食後、ルイスに先導されて書庫へと向かった。本を手にしたルイスが脚立のような台に腰掛け、その脇に立った慧人が開いた本を覗き込む。
「あれ?」
「どうした」
「いや、楽譜……というより、このあたりが午前中に見たときとは違うような気がして……」
相変わらず楽譜には「シミ」の音符と右端にリピート記号が書かれているが、その下にアルファベットのようなものが並んでいた。Cから始まるアルファベットは、D、E、F、G、A、Hと続き、Cの前には四分音符のような記号がある。その音符の黒丸には横棒が一本書かれていた。
(この音符は……ド、か?)
黒丸に横棒が付いているのは「ド」だ。音符の横のアルファベットは七つある。「まさか」と思い、アルファベットを見ながら「ドレミ……」と音階を当てはめた。
「ソ、ラ、シ……やっぱり」
おそらくこのアルファベットは音階を示しているに違いない。「ド」が「C」で、最後の「H」が「シ」ということだ。
(ドがC……ツェー……あっ!)
慧人が「そうか!」と声を上げた。
「ここに書いてあるアルファベット、これドイツ語の音階ですよ!」
謎解きのヒントを得られたうれしさから勢いよくルイスを見た。そのまま興奮気味に「これなら楽譜の意味もわか、……っ!」と続けた慧人が息を呑む。とんでもない至近距離にイケメンの顔があることに気づき、慌てて仰け反った。もう少し勢いよく振り向いていたら鼻が頬に当たっていたかもしれない。ルイスが本ではなくこちらを見ていたら、さらに危うかった。
「す、すみません」
咄嗟に出てきたのは謝罪の言葉だった。不意のドアップに心臓がバクバクしているのを感じながら姿勢を正す。
「いや、大丈夫だ」
「そ、そうですか」
大丈夫と言いながらルイスの頬も心なしか赤らんでいる。そのことに気づいたからか、慧人の鼓動がますます忙しなくなった。
「あの、本、俺が持ちますよ。昨日もですけど俺、眼鏡してたときの癖でどうしてもページに顔を近づけちゃうみたいなんですよね」
「ははは」と笑いながら本を受け取ろうとした。ところが「眼鏡?」と眉を寄せたルイスの表情に伸ばした手を止める。
「目が悪かったのか? そんな話は聞いていないが」
「あ、いや、ええと、大丈夫です。ちゃんと見えてます」
慌ててそう答える慧人を碧眼がさらにじっと見つめる。
(慕ってくれてるジェレミを騙すのは気が引けると思ってたけど、心配してくれてるってわかったらルイスを騙してるのも心が痛むというか……)
そう思っても本当のことを話すわけにはいかない。とにかく話題を変えようと、「それよりこれです」とページに書かれているアルファベットを指さした。
「これ、おそらく音階の読み方です。ドイツ語読み、じゃなくて、前回とは別の読み方なんですけど、たぶん精霊からのヒントだと思うんです」
「では、精霊がまた新しく書き加えたということか」
「たぶん」
精霊の話だからか、ルイスの視線がページに戻った。
「これがあれば精霊が言いたいことがわかるのか?」
「あー、それにはこの文字の読み方を思い出さないと駄目なんですけど」
「読み方?」
「はい。この文字は英語……じゃなくて、一般的に“シー”と読むんですけど、音階の場合は“ツェー”と読むんです。たぶん、この読み方でシとミを読めってことじゃないかと」
「……なかなか複雑そうだな」
「共通の読み方はドレミファソラシなんですけどね。ドイツ語……じゃなくて、ええと、音階には複数の読み方があって、俺がそれを思い出せればおそらく意味がわかると思います」
そう説明しながら、慧人は「いくら思い出を読み取ったからって面倒くさすぎやしないか?」と顔をしかめたくなった。たしかに「魔法の言葉だ」と思っていたドイツ語は思い出深いものではあるが、ほとんど忘れてしまっている。それなら前回と同じ和名、もしくは普通の言葉に書き換えたほうが早く伝わるはずだ。それに楽譜の形にしなくても読み飛ばすこともしない。
そう思ったからか、つい「なんでこんな面倒くさいことを……」とつぶやいてしまった。そんな慧人の声に「それが精霊だ」とルイスが答える。
「このとおり精霊の言葉を理解するのは難しい。だから占術師がいる。初代の占術師が現れてから数百年経っているが、いまだに占術師しか精霊の言葉を正確に聞くことはできない」
「それって、占術師は人の言葉で聞き取れるってことですか?」
気になっていたことを尋ねると、金髪を揺らしながら「おそらく」とルイスが頷いた。
「だから占術師は大事にされてきた。占術師さえいれば精霊とのやり取りに問題は起きないからな。それなのに精霊は占術師以外にも必要以上に干渉してくる。とくに干渉されるのが玉条の人間だ。……そのせいで母は病になり、命を落とした」
ルイスの言葉に、慧人の口から「え?」と掠れた声が掠れた。