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第86話

――イノリ、いつもより緊張してるっぽい?

 そう思ったのは、抱きついた体が、ちょっと強張ってたからだ。

 でも、それも一瞬のことで。すうっと息を吐いて、薄茶の目を開けたときには、もう普通だった。

 イノリはでっかい手のひらを、そっと俺の首にあてがう。


「……よし。はじめるね?」

「おう!」


 見る見るうちに、イノリの目が青みがかった緑に変化する。同じ色の光が、ポウッと手のひらから溢れて、俺の肌に吸い込まれてった。


「うっわ」


 不思議な感覚に、肩がビクッとした。思わず、イノリの服をぎゅっと握りしめる。

 「水」は、「風」より重くて、するするしてる。――そうだ、川面に足を入れたときの感覚に似てるんだな。

 でもって、涼しい。イノリの魔力が通ったところから、体の中がスーッとしていく。

 イノリは、心配そうに俺の目を覗き込んだ。


「トキちゃん、大丈夫?」

「ぜんぜん。平気だぞ」

「そう? じゃあ、引っ張ってくよ」


 頷くと、胸のあたりにあった涼しさが、ちょっとずつ染みるみたいに動きだした。体の中を、水が撫でてくみてえに魔力が走る。

 きもちいい。なんか、川遊びを思い出すなあ。

 そういえば、ちっさい頃、家の近くに川がなかったっけ。

 ああ、そうだ。夏になったら、イノリとよく泳ぎに行ったような……。思い返すと、確かにそんなことがあった気がする。

 不思議だな。楽しかったと思うのに、なんで忘れてるんだろう? ガキの頃のことって、みんなそういうもんなんかなあ……。







「……まずは、こんぐらいかなぁ?」


 俺の目を覗きこんで、イノリが呟く。自分じゃわかんねえけど、色が変わってるらしい。


「おつかれ、トキちゃん」

「ん、サンキュ」


 熱かったわけじゃねえのに、お互いしっとり汗をかいている。

 顔や首を、タオルでぽんぽんと拭われた。俺もタオルを取って、イノリにお返ししてやる。

 イノリは、笑いながら身を捩った。


「こら、動くなよっ」

「あはは。だめ、くすぐったいよー」


 ふざけて追っかけていると、両手首を捕まえられてバンザイさせられる。こいつ、ちから強! びくともしねえし。イノリは「してやったり」の顔をした。


「うおお、放せ! 聞けおいっ。やめろ、勝手に踊らせんなっ」

「わーい、面白ーい」


 一しきり遊ばれた後、解放されてぐったりする。イノリはニコニコしながら、首を傾げた。


「そうだ。トキちゃん、具合は悪くない?」

「今更だっての。ぜんぜん悪くないぞ。むしろ、超スッキリ」

「よかったぁ。いい感じに魔力が循環したんだねー」

「そうなん?」

「うん。なんか、血の巡りが良くなるって言うか。頭がハッキリするかんじ?」

「へええ」


 俺は、得心した。たしかに、八時間ぐっすり寝て、スッキリ目が覚めた朝みたいな爽快感だぜ。

 こういう頭のときに、やるべきことは一つな気がする。


「テス勉すっか」

「そうだね」


 イノリも同感だったらしい。やっぱりな。ラジオ体操の後とかさ、宿題しないとダメって感じするもんな。

 また水分補給して、かわるがわる便所にいったあと。

 俺たちは、向かい合って勉強を始めた。



「うーん。わからん」


 数学の問題集を開いて、うんうん唸る。正面でイノリは、英語のテキストを開いたまま、シャーペンをくるくる回している。

 小テストのおかげで、基礎問題は出来るようになってきたんだけど。応用ともなると、さっぱりかっぱりだ。


「どの問題ー?」

「ん? これ」


 イノリが身を乗り出して、問題集を覗き込んだ。ノートにせっせと芋虫を書いていると、「できたよー」って声が聞こえて、目をかっぴらく。


「マジで?!」

「うん。これね、この公式をつかうでしょ。原点通んないとだめだから、ここをこうして……」

「おお」

「代入して、展開してってー」

「ちょ、ちょ、待って。メモるから!」


 慌てて芋虫を消して、やり方を書き取った。出てきた答えを確認すると、合っている。


「すげーじゃん! なんでわかったん?!」

「えへん」


 イノリは、得意そうに胸を張った。イノリも、俺と同じで数学苦手だったはずが。何この、大化けっぷりは。

 まじまじと見ていると、イノリは頬をかきながら言う。


「それがねぇ。俺の成績見て、八千草先輩が「ヤバいから勉強しろ」って言ってきて。ちょっと、思い立ったことがあったから、やり始めたんだぁ」

「マジかー。えらいなお前」

「そんなことないよー」


 いや、謙遜してるけど、マジでえらいと思う。

 生徒会だって忙しいだろうに。「追試の方が、問題簡単だから楽ちんだよねー」つってたお前が真面目に……。

 思い立ったことって、きっと「会長目指すこと」と関係あったりするんだろうな。イノリのやつ、マジなんだなぁ。

 うん、俺も頑張ろ。

 しかし、八千草先輩、料理にひきつづき勉強までとは。

 イノリのこと、よく見てんだな。……イノリも、信頼してるんだろうな。

 考えてたら、ちょっと胸がもやもやしてくる。


「トキちゃん?」


 不思議そうに見られて、慌てて首を振る。

 水でも、飲み過ぎたんかなぁ。





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