ぱたぱた、ぱたぱた。
雨みたいに、水が顔に落ちてくる。
うっすら目を開けると、ぼんやりと人影が見えた。
――イノリだ。
小さなイノリが、しゃくりあげて泣いている。
びしょ濡れだった。亜麻色の髪が濡れて、血の気の無い頬に張り付いている。イノリの体と――大きな目から、大粒の滴がぽとぽと零れ落ちてくる。
「トキちゃん、ごめんね。ごめんなさい……」
そう言って、イノリは苦しそうな息を吐く。――何で、謝るんだろう?
涙を拭いてやりたいのに、体が動かない。わずかに身じろぐと、背中でぐじゅと水っぽい音がした。
「もうわがままいわないから……どこにもいかないで」
イノリの小さな頭が、俺の肩に伏せられる。
嗚咽が震えになって伝わってきて。
俺も、泣きそうになる。
――泣くなよ、イノリ。俺、どこにも行かないから……
必死に、鉛のような腕を伸ばした。
「うう……どこにも、いったりなんかぁ~……」
両腕でしっかりと、あったかいものを抱きしめる。
腕の中の熱が、逃げるみたいに縮こまる。俺は、蝉みたいにしがみついて、もっとギュッと体をくっつけた。
すると。
「ト、トキちゃん~……」
弱弱しい声が、腕の中から聞こえてきた。
ぱち、と目を開けると、視界いっぱいにオレンジが広がる。なんだ、ご機嫌な色だなあ。うとうとしながら、そんなことを考えて再び目を閉じようとして……。
寝ぼけ眼を、かっと見開いた。
背中だ。――オレンジって、背中。
俺はなぜか、イノリに後ろからしがみ付いていた。
「あれっ?」
イノリは、壁際に小さくなって、背中を丸めてる。項も耳も、真っ赤になっていた。
「いやー、悪い悪い。夜中に便所に起きてさぁ」
そんときに、寝ぼけてイノリのベッドに入っちまったんだな、たぶん。なははと笑いながら、洗面所から出てきたイノリに言う。
ふい、と顔を逸らされた。
「ごめんって!」
「……ううん。トキちゃんが悪いんじゃないよ……」
「その間ー! 絶対、怒ってんじゃんっ」
わあわあ叫ぶ俺をよそに、イノリは背を向けて着替え始める。つれねえ。
でも、そんな嫌がんなくてもいいじゃんな。
箸でぐるぐるかき混ぜながら、俺は憤慨する。
そりゃ、俺がしがみ付いてたせいで、寝苦しかったと思うよ? 顔すげえ真っ赤だったし。起きてすぐ、洗面所に駆け込んでったから、お腹も冷やしちまったのかもだけど――。
俺は、ぴた、と手を止める。
そりゃ、怒るか。
「なにしてるの?」
「わっ!」
後ろから、ひょっこりイノリが現われた。俺の手元をのぞき込んで、目を丸くする。
「ホットケーキ?」
「お、おう。泊まりの日にさ、よく食っただろ?」
昨日の朝メシ美味かったから、俺もなんかしたくてさ。
思い出したのが、この絵本みたいなホットケーキ。イノリはホットケーキ好きだし、俺も、これだけは失敗しないで作れるから。
で、昨晩コンビニに材料を調達しにいったわけだ。
「うれしい……! 久しぶりだぁ、トキちゃんのホットケーキ」
「そうか!?」
「うんっ」
イノリの目がキラキラする。
ニコニコとホットケーキを見守っているのを見て、俺は胸を撫でおろした。よかった、機嫌直してくれたっぽいぞ。
「あっ。イノリ、腹は平気か?」
「うん? 元気だよ」
「そんならいいけど」
しばらくして、焼きあがったホットケーキとカップスープ(アサリのやつ)をテーブルに並べる。向かい合って、「いただきます」をする。
「おいしい!」
切り分けたホットケーキを食べて、イノリがぱあっと明るい笑顔になる。続いて、俺も一口。おお、ちゃんとうまい。
「俺、トキちゃんのホットケーキ大好き」
「そうかあ。いっぱい食えよー」
「うんっ」
ぱくぱくと食欲旺盛に食っているイノリを見て、気持ちが和む。
いやあ、自分のつくったものを食べてくれるって嬉しいもんだなぁ。昨日、イノリがニコニコしてた気持ちがわかるかも。
イノリがニコニコして嬉しそうだと、俺も嬉しい。
――どこにもいかないで。
ふいに、今朝の夢で、泣いていたイノリを思い出す。
あんな風に、いつ泣いていたんだろう。また、俺の覚えてない記憶の中なんだろうか。
「トキちゃん?」
イノリに不思議そうに聞かれて、曖昧に笑う。
あんなこと、そうそう忘れるはずねえと思うけどなあ。……俺、そろそろ病院にかかったほうが良いんじゃねえか?