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第91話

 ぱたぱた、ぱたぱた。

 雨みたいに、水が顔に落ちてくる。

 うっすら目を開けると、ぼんやりと人影が見えた。

――イノリだ。

 小さなイノリが、しゃくりあげて泣いている。

 びしょ濡れだった。亜麻色の髪が濡れて、血の気の無い頬に張り付いている。イノリの体と――大きな目から、大粒の滴がぽとぽと零れ落ちてくる。


「トキちゃん、ごめんね。ごめんなさい……」


 そう言って、イノリは苦しそうな息を吐く。――何で、謝るんだろう?

 涙を拭いてやりたいのに、体が動かない。わずかに身じろぐと、背中でぐじゅと水っぽい音がした。


「もうわがままいわないから……どこにもいかないで」


 イノリの小さな頭が、俺の肩に伏せられる。

 嗚咽が震えになって伝わってきて。

 俺も、泣きそうになる。


――泣くなよ、イノリ。俺、どこにも行かないから……


 必死に、鉛のような腕を伸ばした。





「うう……どこにも、いったりなんかぁ~……」


 両腕でしっかりと、あったかいものを抱きしめる。

 腕の中の熱が、逃げるみたいに縮こまる。俺は、蝉みたいにしがみついて、もっとギュッと体をくっつけた。

 すると。


「ト、トキちゃん~……」


 弱弱しい声が、腕の中から聞こえてきた。

 ぱち、と目を開けると、視界いっぱいにオレンジが広がる。なんだ、ご機嫌な色だなあ。うとうとしながら、そんなことを考えて再び目を閉じようとして……。

 寝ぼけ眼を、かっと見開いた。

 背中だ。――オレンジって、背中。

 俺はなぜか、イノリに後ろからしがみ付いていた。


「あれっ?」


 イノリは、壁際に小さくなって、背中を丸めてる。項も耳も、真っ赤になっていた。





「いやー、悪い悪い。夜中に便所に起きてさぁ」


 そんときに、寝ぼけてイノリのベッドに入っちまったんだな、たぶん。なははと笑いながら、洗面所から出てきたイノリに言う。

 ふい、と顔を逸らされた。


「ごめんって!」

「……ううん。トキちゃんが悪いんじゃないよ……」

「その間ー! 絶対、怒ってんじゃんっ」


 わあわあ叫ぶ俺をよそに、イノリは背を向けて着替え始める。つれねえ。

 でも、そんな嫌がんなくてもいいじゃんな。

 箸でぐるぐるかき混ぜながら、俺は憤慨する。

 そりゃ、俺がしがみ付いてたせいで、寝苦しかったと思うよ? 顔すげえ真っ赤だったし。起きてすぐ、洗面所に駆け込んでったから、お腹も冷やしちまったのかもだけど――。

 俺は、ぴた、と手を止める。

 そりゃ、怒るか。


「なにしてるの?」

「わっ!」


 後ろから、ひょっこりイノリが現われた。俺の手元をのぞき込んで、目を丸くする。


「ホットケーキ?」

「お、おう。泊まりの日にさ、よく食っただろ?」


 昨日の朝メシ美味かったから、俺もなんかしたくてさ。

 思い出したのが、この絵本みたいなホットケーキ。イノリはホットケーキ好きだし、俺も、これだけは失敗しないで作れるから。

 で、昨晩コンビニに材料を調達しにいったわけだ。


「うれしい……! 久しぶりだぁ、トキちゃんのホットケーキ」

「そうか!?」

「うんっ」


 イノリの目がキラキラする。

 ニコニコとホットケーキを見守っているのを見て、俺は胸を撫でおろした。よかった、機嫌直してくれたっぽいぞ。


「あっ。イノリ、腹は平気か?」

「うん? 元気だよ」

「そんならいいけど」



 しばらくして、焼きあがったホットケーキとカップスープ(アサリのやつ)をテーブルに並べる。向かい合って、「いただきます」をする。 


「おいしい!」


 切り分けたホットケーキを食べて、イノリがぱあっと明るい笑顔になる。続いて、俺も一口。おお、ちゃんとうまい。


「俺、トキちゃんのホットケーキ大好き」

「そうかあ。いっぱい食えよー」

「うんっ」


 ぱくぱくと食欲旺盛に食っているイノリを見て、気持ちが和む。

 いやあ、自分のつくったものを食べてくれるって嬉しいもんだなぁ。昨日、イノリがニコニコしてた気持ちがわかるかも。

 イノリがニコニコして嬉しそうだと、俺も嬉しい。


――どこにもいかないで。


 ふいに、今朝の夢で、泣いていたイノリを思い出す。

 あんな風に、いつ泣いていたんだろう。また、俺の覚えてない記憶の中なんだろうか。


「トキちゃん?」


 イノリに不思議そうに聞かれて、曖昧に笑う。

 あんなこと、そうそう忘れるはずねえと思うけどなあ。……俺、そろそろ病院にかかったほうが良いんじゃねえか?




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