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第53話 逃げないで


 ホームルームのチャイムが鳴る。

 隼人はよろよろと立ち上がる。ぼんやりと昇降口へ戻った。どこへ行きたいわけでもない。とにかく離れたかった。

 逃げているだけだとわかっている。けれど、どうしても怖かった。自分の靴箱へたどり着いて、そこでうずくまる。体中が痛かった。

 隼人は耳を塞いで、目を閉じた。こうして、何もかも夢になってしまえばいいのに。全部が嘘になって、戻ればいいのに。世界が、ノートを閉じるように全部、しゃ断されてしまえばいいのに――

 しかし、現実は、そんなことは叶わない。ただ、自分がそこから動けないだけで、皆は変わらず前に進んでいく。


「う……っ」


 涙が止まらなかった。今泣いたら、目も当てられない、理性はそう止めるのに、ぐちゃぐちゃに壊された心の堰が、とめどなく溢れてしまっていた。

 どうしてこんなことになったんだろう。昨日にひたすら帰りたかった。いや、ハヤトロクを書き始めた、あの日に帰るべきなのだろうか?

 意味のない問いかけだった。タイムマシンなんてないし、ハヤトロクは書き出されてしまった。

 あんなものを書いたから、こんなことになったんだ。だから。

 なんとか自分を、奮い立たせ、隼人は立ち上がった。よろよろと来た道を引き返す。

 行くあてなんてない。行かなきゃいけないところは教室で、行きたいところには、怖くて行けない。

 自分は卑怯者だ。怖がるばかりで、ちゃんと謝ることもできないなんて――


「中条」



 時が止まった気がした。

 教室に続く廊下。龍堂は、そこに立って、隼人と向かい合っていた。

 龍堂くん。隼人は心のなかで彼の名を呼ぶ。実際は、微動だにできなかった。

 ホームルームもあるのにどうして……そんなことを、動かない頭で考えていた。


「やっと見つけた」


 龍堂は、隼人に向かって歩いてきた。隼人は呆然とそのさまを見ていたが、ふいに龍堂の手が、一冊のノートを持っていることに気づいた。

 ――ハヤトロクだ。

 次の瞬間、隼人は踵を返し、駆け出した。


「中条!」


 痛む体は、思うように動かなくて、何度もよろけた。それでも必死で隼人は逃げた。逃げてどうなるかわからない。けれども、逃げたくて仕方なかった。

 バレた。見られた。龍堂くんに――


「中条!」


 龍堂の腕が、後ろから抱えるように隼人を止めた。その時には、隼人はただ泣きじゃくっていた。終わった。終わった。終わった――。


「中条、逃げないで。顔を見せて」


 龍堂の声は、死刑宣告のように思えた。隼人は震えながら、ひたすらに首を振った。


「ごめんなさい」


 どうにか口をついて出たのは、そのひとことだけだった。


「ごめんなさい、勝手にこんな……」


『気持ち悪い』


 何度も言葉が繰り返される。体が凍えたように寒くて仕方ない。ぶるぶる震えながら、隼人はひたすら謝った。


「ごめんなさい……」


 書くんじゃなかった。

 こんなもの、書かなければ。

 楽しくハヤトロクを書いていた自分がよみがえる。固く目を閉じて、バツを打った。

 見せられないものなんて、書いたから。

 龍堂と過ごした日々、龍堂の笑顔。

 全部、自分が壊してしまった。


「本当に、ごめんなさい」


 嫌いにならないで。絞り出された願いは、身勝手すぎて形になったかもわからなかった。もう消えたかった。






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