「もう少し話をしていたいけど……時間のようだね。見回りが来たから帰るよ」
「お義兄様」
「アリアの顔が見れてよかった。じゃあ、またね?」
少しずつ近づいてきている見回りの足音が聞こえてきたので、元来た抜け道へと戻ろうと踵を返す。後ろからの視線が何かを躊躇っているかのようで、少しだけ期待してしまった。
「まっ、待って! ジャス……ティス、様」
アルメリアに名を呼ばれ、すぐさま振り返った。こちらをじっと見つめ、口元を手で隠しながら少し恥ずかしそうにしている。世間でいう『悪役令嬢』の欠片もない愛らしいそのアルメリアの微笑みに僕の頬も自然と緩む。
「名を呼んでくれたね。ありがとう、アリア」
「待ってください。お部屋に……」
「もう、義兄ではないのだから、さすがに許されないよ。未婚の女性の部屋に僕がいるなんて……。それに、そんなことを許してしまったら、屋敷の警備隊は、養父上に減給されてしまうだろ?」
本当は、アルメリアのもっと近くに行きたい。その柔らかい頬を撫で、優しく髪を梳いてあげたい。だが、今日のところは、茶化して会話を終わらせることにした。側に行けば、抱きしめてしまうだろう。それくらい、僕は、アルメリアに想いを寄せているのだから。アルメリアにとって、まだ、僕は義兄であるのだから、焦らずゆっくり距離を縮めるしかないけれど、アルメリア不足の今の僕には、どう考えても、そこまでの理性が働くとは思えなかった。
……アリアとこんなに長く離れ離れになったのは、あのジャスティス様でも初めてだからな。僕なんか、骨抜きにされてしまったんだから、危ないに決まっているし、どう考えても、
「……そう、ですね。また、私に会いに来てくれますか?」
「どうだろう? 僕もしないといけないことがたくさんあるから、頻繁にはこれない。今度会うときは、レオナルドが用意したアリアとの婚約破棄の承諾書類を書く日になるんじゃないかな」
「……そうですか。もうそろそろレオナルド様が、招待状を送ってくるとお父様が予想されます。近いうちに会えるのですね?」
「アリアは、僕がいなくて寂しいのかな?」
そんなわけはないよな。あのアリアのことだから……。
冗談めかして言ってみた言葉は、自身の横っ面を殴っていく。ポロっと流れた涙は、アリアの頬に一筋流れ、月に照らされ光った。
……嘘だろ?
「帰ってきてください。私の元へ……」
「……そうだな。いつか、帰るよ」
風がサーっと流れる。アルメリアの髪も優しく揺れていた。いよいよ、警備隊の足音も間近になってきたので、言葉にはせず、手を振って、足早に歩を進めた。後ろから、名を呼ばれたが振り返らず、「すぐに迎えにくるよ、僕のお姫様」と呟く。
抜け道を進んでいくと、出口には質素な箱馬車が停まっていた。ここから出入りしていることを誰かに見られると警備的にまずいので、馬車が移動するまで待つしかない。
……弱ったな。こんなところに停まられては、さすがに出られないじゃないか。
木の陰からチラリと見ていると、そのすぐ近くで、大きなため息が聞こえてきた。
「ジャスティス様」
「……グレン?」
ため息の方を見れば、グレンがその箱馬車で僕の帰りを待っていたらしく、こちらを睨んでいた。
「出ていかれるのは構いませんが、今、ティーリング公爵家だけは、ダメだと言ったではないですか?」
「アリアに一目会いたかったんだ。バレてはないと思うから許してくれ」
グレンに両手を合わせて拝むと、さらに大きなため息をついている。「ため息ばかりついていると……」と言いかけてやめる。ため息をつかせているのは、他ならぬ僕自身だったので、墓穴を掘ることになる。それより、グレンは僕の行動の結果が気になったようだ。
「…………それで、会えましたか? アルメリアお嬢様には」
「あぁ、会えた。名を呼んでもらえたんだ」
自身でもわかるほどに、頬に熱がこもる。「よかったですね」と珍しくグレンが茶化すので、「あぁ」と素直に返事をした。
「このまま屋敷へ戻りますか? それとも、一杯飲んでいかれますか?」
「そうだな……少し調べたいことがあるから、久しぶりに酒場へ行こう」
御者台に座り直すグレンに促され馬車に乗る。後ろの座席ではなく、グレンの隣の御者台へと飛び乗った。
「昔から言おうと思っていたのですが」
「なんだ? 不満でも?」
「どうして、御者台に座るのですか?」
「この格好で馬車の中に座ったら、悪目立ちするじゃないか」
お忍び用の服を着ているので、平民と変らない格好をしている。そんな僕が、えらそうに馬車の中から出てきたら、明らかに貴族のお忍びになってしまう。グレンもきちんと街に馴染むような服装であるので、並んで御者台にいるほうが自然であった。
「それで、アルメリアお嬢様には、ジャスティス様のことを少しは見てもらえそうなのですか?」
「……だと、いいけどな。義兄がいきなり婚約者とか結婚相手なんて、驚くよな?」
「貴族間ではよくあることですからね。政略結婚のうちのひとつですが、昔から、ジャスティス様がアルメリアお嬢様を好きだったことは、屋敷のみなが知っていましたから、実ってほしいと屋敷のものはつねづね思っていましたよ?」
屋敷の侍従たちの意外な反応を聞き、思わずグレンの方をみた。みなの考えが、当たり前すぎて、なんでもないようなふうだったので驚いた。侍従たちは、王太子であるレオナルドとアルメリアとの婚約はもちろん知っている。そんな中、公爵家の一人娘であるアルメリアと僕が結ばれてほしいと秘かに考えていただなんて、知らないのは当の本人たちくらいだ。
「何か変なことを言いましたか?」
「いや、意外だったから、驚いただけだ」
「そうですか。私としては、ジャスティス様が主ですし、もちろん、王族であることも知っていたので、今の状況は、本来のあるべき姿に戻っただけだと思っています」
「本来のか。アリアと並んでいたのは、レオナルドなんだけどな?」
いつも隣に並ぶアルメリアとレオナルドのことをジャスティス様は後ろから見ていた。アルメリアの隣は、どんなことがあっても、今世では絶対に手に入らないと考えていた。いつの頃からか、二人の間に微妙な距離が空いていたことを疑問に思いながらも、隣合える二人を羨ましくも見ていた。今思えば、レオナルドが他に想い人がいたのだから、あの距離は致し方なかったのだろう。
「お二人の婚約は、国が決めたものでしたからね。アルメリアお嬢様は、ジャスティス様と一緒のときのほうが、とてもイキイキとされていましたよ?」
「それは、単にわがままが言えるからじゃないのか?」
「わがままを言えるのは、アルメリアお嬢様にとって、ジャスティス様だけだったのではないですか? どう考えてもレオナルド様では……」
グレンが、それ以上言葉にしなかったのは、レオナルドでは、アルメリアという女性を十分に理解できないと言いたいようだ。彼女以上に、レオナルドを支えてきたものはいなかったというのに。
ぼんやりとこれまでのことを考えていたら、馬車がガタリと停まる。目的の酒場に着いたのだ。
「1時間後に迎えに来ますので、程々に」
「わかった」と馬車を降り、酒場の扉を開いた。休み前だからか、店がとても賑わっている。
「ふぅ、ここの空気も久しぶりだな」
「おぉー! ティスじゃないか? 最近、見かけなかったが、元気にしていたか?」
酒場の店主が話しかけてくる。ここしばらく、立て込んでいたため、なかなか足を運ぶ時間がなかったので、僕が現れると馴染みのみながこちらを向いて手招きする。
「おっ、ティス! こっち来て飲めよ!」
「いいや、こっちだ!」
「そんな、むっさいおっさんばかりのところなんていくもんか! あたいら綺麗どころのところに……」
「なんだ、先約がいんじゃ仕方ない。また、後でなっ!」
「悪いなっ!」
カウンターの隅で、グラスを傾けている青年を指さし、誘いを断る。この賑やかな酒場に似つかわしくない空気をまとわせ、俯き加減に何か物思いにしている青年に話しかけた。
「よぉ! ジーク。飲んでいるか?」
肩を抱くようにガシッと掴むと、迷惑そうにこちらを見上げた。一人で浸るつもりで、こんな隅で酒を飲んでいたのだろう。自身の世界に浸かりすぎて僕に気がついていなかったようで、僕を見て驚きすぎて、ジークハルトは椅子から転げ落ちる。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですけど、何故、あなたのような人が?」
「息抜きだ。街のものたちと話がしたくてたまに来る。ここに来る前にジークの噂話を聞いて、酒場にいるんじゃないかって寄ってみた。ここは、僕もよく来るお店だからな」
信じられないものでもみたというふうなジークハルトに手を差し出し、引っ張りあげた。