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9 契約書



「おーい、多部ちゃん……多部ちゃん、多部ちゃん! ねぇ、大丈夫?」


 フリーズしている多部を流石に心配になった連夜は肩を揺さぶり、声をかける。


「うわぁっ! れ、連夜? なに? びっくりするんだけど……」

「酷くない? 固まっていたから起こしてあげたのに」

「あ、あ、ごめん」


 連夜のドアップの目覚めは心臓に悪いに決まっていると、多部は心で唱えながらしばらく固まっていた原因を思い出していた。


 連夜が想の借金を肩代わりすると言ったのを聞いて、あまりの衝撃に多部の記憶はそこから曖昧になっていたが、思い出すと余計に衝撃を受けることとなった。


 連夜が初対面の人間のために動くなど、今まであるはずもなかった。しかも、借金を肩代わりまで行うとは、まさに青天の霹靂としか思いようがない。どんな人がやって来ても、表情一つ変えなかったあの連夜がだ。


「な、夏目さんと、想は?」

「ん? ああ、想の借金は俺が肩代わりした。後は……コーヒーを淹れるのが得意だと言っていたから、今は夏目さんと一緒にキッチンにいるはず。あ、そうそう今日からこの家に住み込みで働いて返済を頑張ってもらうつもりだけど」

「えっ!? はぁ?」

 思ってもいなかった事が進んでいて、多部の頭はまだ追いついていない。


「それで、多部ちゃんにはこの後、想との契約書を作って欲しいから」

「えっ?」

「オッケーだよね?」

「いや」

「?いいよね?」

「……」

「ん? まあ、イエスしかないけど」

 連夜は多部の驚いた顔がよほど珍しくて面白いのか、楽しそうにクスクスと笑っていた。


 だけど、あるじの決めた事はここでは絶対のルールなので、多部も快諾をする。

 後で何があったかは、夏目に詳しく聞いてみようと思いながら、連夜の要望通りの契約書作りに取りかかった。



 ーーーー


 「ねぇ! これっ……本気!?」


 連夜の考えている想の返済計画を聞き、それに沿って契約書を作っているが、あるじの変態さに、流石の多部も引いていた。


 「はぁ、頭痛くなってきた。想、ごめん……もう逃げ場はないかもしれない」


頭を抱えながら、自室に籠もり徹夜でその資料作りに励んでいたことは多部しか知らなかった。





◇◇◇◇



 想が淹れたコーヒーは普通に美味く、今まで様々なコーヒーを口にした連夜の舌をうならすほどだった。


 安心からその場にへたり込む姿にぴくりと眉を動かした連夜の頭の中は、想をこのまま逃がしたくないという思いで溢れていた。


 借金を肩代わりする事で逃げられないようにして、尚且つ毎日コーヒーを飲みながら会うにはどうすればいいかと、無意識に答えを出した連夜だった。


 しかし、想が毎日コーヒーを淹れて借金を返済できるようにしてやろうという優しい気持ちに反して、想の身体を使って返済できるようにしようと己の欲望のために契約書を作って縛り付けようとしていることに連夜自身が気付いた時にはもう歯止めは効かなくなっていた。


 こうして想への少し歪んだ感情が生まれた事に連夜は自嘲気味に笑っていた。


「想連夜って呼んでみろ? 敬語もいらない」

「や、それはおかしいですって」


「……想?ほら、早く」

「いや、その」

 連夜はじっと想を見つめながら無言の圧力を出すと、想は諦めたのか連夜の名前を小さな声で震えながら呼んだ。


「れ、れ、連夜…さん、わ、わ、わかりました」

「連夜」

「それは、無理です」

「……まあ今はその呼び方でいいけど、敬語はやめろよ?」

「……っ、わ、わかった」

「ははは」


 なぜこんなに想に執着をしているのか、連夜自身もこの感情を何と呼ぶのかはまだ分からなかったが、知らなかった自分に出会えるような気がして、連夜は生まれて初めて明日が楽しみになっていた。



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