母の心配、というのはいつの世も的中するものである。ことに、度重なる転生に付き添っているため、我が子のやらかしそうな事のデータは一通り揃っている。
怪我をしてから三日はさすがに安静にしていたものの、五日後の舞踏会に、リズはいつも通りに出席していた。
若干、腰や脇腹と足首の痛みは残っているものの、ブーツが履けないほどではなく、ドレスもコルセットを緩めにすれば動けなくはなかった。
「緩やかなワルツくらいなら大丈夫ですよ」
と、ドクターの許しも得た。
それに、もともとおとなしく療養しているのは性に合わない。
「お母さま、エリザベス復活ですわ!」
「ああっ、リズ、この時代の令嬢らしく振舞うのですよ! 療養中のあなたはどうみても前世のリサでしたよ」
魔法で防音室を作り、壁に魔法で前世の記憶映像を流し即席のカラオケルームを作りあげ、そこで熱唱していたのだ。
「これを、買っておきました」
そう言いながら、マナーや行動指標が事細かに記された社交界エチケット・ブック最新版を手渡す。
「お母さま、これは?」
「今朝、本屋さんで買ってきました。一週間ほど前に出た最新版、即ベストセラーだそうです。馬車の中で読みなさい。魔法のランタンと魔法のテーブルをつけておいたので灯りは気にしなくて大丈夫」
「はぁい! 行ってまいります」
完璧なドレスアップ、完璧な所作――なのだが、母が心配するのはそこではない。思考回路なのだ。
今生では、しっかりしすぎる娘は良しとされないし、一人で積極的に動き回るなどはしたないと後ろ指をさされかねない。
もちろん、リズはベテラン転生者であるし、この世界に則した完璧な作法を身に着けた完璧令嬢である。そのような迂闊な行動はこれ以上とらないと思うが――いかんせん、恋は盲目、である。
「前世の記憶、封印したままの方がよかったかしらねぇ……」
母の心配をよそに、いつもより若干ゆっくり目の速度の馬車で会場に乗りつける。いつもならライバルになりそうな令嬢を魔法で足止めするのだが、今日はそれはなし、まっすぐ会場に駆けつける。
そして、見事なドレスの裾捌きを披露しながら会場を横切っていく。
途中で、リズとお近づきになりたい男たちが不躾な視線を投げてくるが、恨みをかわない程度にあしらい、微笑を撒き散らす。彼女がその場に立つだけでその場は華やかになり、人々の注目を集める。
会場中の視線を引き連れて、シャンデリアよりも眩い光を纏うリズは、堂々と歩いてシュテファンの前で止まった。
「シュテファンさま、本日のワルツはわたくしと踊ってくださいますか?」
「ああ、構わないよ。すまないね、みんな」
シュテファンが朗らかにリズの手を取り、ダンスフロアへと進む。
「シュテファンさま、先日はありがとうございました」
「怪我が大したことなくてよかったよ」
にこにこと穏やかな笑みを浮かべてワルツを踊る。二人の優美で正確なステップはダンスの教則本のようですらある。
当たり障りのない会話をしながら、リズはじっとシュテファンを観察していた。
視線の一つ、表情の微妙な変化すら見逃さないように、全身の神経をシュテファンに向ける。
(どなたに好意をむけていらっしゃるの? 見極めさせていただくわ!)
魔法が使えればよかったのだが、先ほど魔法のメッセージで、今宵は魔法はなしです、と、母に念を押された。そのためシュテファンを自力で観察するしかないのだがーーちっともわからない。
誰を見ても特に表情は変わらないし、なんなら心拍も変わらない。
「この中にいないとなると、やはりお相手はおねえさまかしら?」
一曲だけ踊り、シュテファンと別れて壁際の長椅子に腰を下ろす。
足首がまだ、熱を持っている。無理はできない。
会場内には、名だたる令嬢がひしめいている。誰が誰だか覚えきれていないため、リズは魔法で令嬢たちの頭の上に名前と年齢、親の階級などを表示している。これさえあれば、フロアを眺めるだけでシュテファンに限らず貴族たちの関係が一目瞭然である。
もちろん、恋愛ではない秘密の接触や秘めたる人間関係にも気付いてしまうが、そこは見て見ぬふりをする。
ふと、会場の隅で、これまで交流があったとは思えない組み合わせを見つけた。
「あら? あの伯爵家は……ああ、事業で成功した男爵に融資を頼んだのね、娘と引き換えに……」
俯いている黒髪の美しい令嬢はキャメロットと言ったか。リズの学校の先輩だ。その唇が動き、「わたくしで足りますか?」と言っている。
満遍なくなんでもできる大人しいレディだったと記憶している。まさか歳の大きく離れた男爵に嫁ぐとは思いもしなかった。これもまた彼女の運命であろうが……。
「みんながみんな、恋をして幸せな結婚ができるとは限らないわね……」
実業家の男爵は年若い伯爵令嬢を丁重に扱っている。きっと幸せにしてくれるだろう。キャメロットが、顔を上げて未来の夫となる人を見つめる。……固く結ばれた唇が緩み、レディの目から涙が溢れて男爵が慌てて白いハンカチを差し出した。
「レディ、あなたを金で買ったなどとは思いません。こんなに美しく気立のいいレディ……必ず幸せにしてご実家のお手伝いをしますから」
「男爵さま、ありがとうございます。ありがとうございます」
リズは、キャメロットから視線を剥がした。
(魔法って便利よね、今更だけれど……)
こんな魔法が使えない人々は、地道に人の顔と名前を覚える努力しているのだろうから頭が下がる。
(それにしても……かつてやりこんでいたMMORPGの画面を見ているみたいね……)
思わず小さな笑みが浮かぶ。と、いつの間にかそばに来ていたシュテファンがぽかんとしてリズの顔を見つめていた。
「レディ・リズ、きみは本当に魅力的なひとだ……」
「え?」
「そうだ、きみなら或いは……あいつとうまくやってくれるかもしれないな……」
一瞬リズの心は跳ねた。
が、どうもシュテファンの様子がおかしい。
「あ、の、シュテファンさま……?」
真剣なまなざしのシュテファンは、そこからリズにいくつかの質問をした。社交辞令の範囲のようでもあり、身元調査のようでもあり――。
会話を重ねていくうちに、リズの心はあっという間に萎びてしまった。もちろんそれを面に出すほど愚かではないが。
これが、シュテファンが自分に興味をもってのことだったならどれほど嬉しかったか――。
いやでもわかってしまった。
シュテファンは、リズを誰かに「良い令嬢がいるんだけど」と紹介しようとしている。シュテファンが自分を恋愛対象にしていないことは明らかになってしまった。
リズは、鼻の奥が痛くなるのを必死でやりすごし、涙がこぼれそうになるのを、なんとかコントロールする。ついでに激しく吹き出しそうな感情も、コントロールする。先ほど母に渡されたエチケットブックに、自分の感情のコントロールは自分でしましょうと書いてあったのだ。口角を持ち上げて笑みの形をつくる。顎を少し持ち上げて自信ありげに見せる。
前世の女優業で身に着けた技が、こんなところで役に立つとは。
目の前にシュテファンがいるというのに、もうだめね、とあきらめの心地にすらなってしまう。
それでも、観察は怠らない。
(――で、シュテファンさま! あなたがお好きなのは誰なのっ!?)
穴があきそうなほどにシュテファンを凝視したが、さっぱりわからなかった。