その日の舞踏会が終わり、そろそろ人々が帰路につこうかという頃――。
会場の中庭を、不自然な人影が移動していた。
右へゴソゴソ、左へスタスタ。
手入れの行き届いた庭にはツインのガゼボがある。昼間なら、右のガゼボは黄色のバラとツタが周囲をぐるっと囲み、左のガゼボは赤いバラとツタが繁っているのがわかる。
ガゼボの中にはベンチとテーブルがあって、そこで休息がとれる。ティータイムには庭を見ながらアフタヌーンティーを楽しみ、夜は若いカップルがデートを楽しむ。ツタとバラが緑のカーテンとなり、中に誰がいるのか外からわかりにくい点が特に人気である。
そのガゼボに、スカートをはしたなくもたくし上げて形のいい足を剥き出しにした令嬢が駆け込んだ。陸上選手のごとき美しいフォームでの走りっぷりは、もちろんリズである。
「ここからなら……あ、見えた!」
バッグから取り出した、ちょっとだけ魔法をかけた双眼鏡で、道ゆく人を見る。
「あっ、たいへん……馬車はあっちなのね!? お庭を横切らなくては……どうしよう?」
とはいえ、迷う間もなくガゼボから飛び出し庭を突っ切り、近くの大きな茂みに飛び込む。
しかし、枝の間から羽飾りのようなものとドレスの裾らしきものがちらりと覗いている。
それを目撃した人々は、慌てて視線を逸らす。レディが花を摘んでいる、もしくは、会場で良い雰囲気になった若い男女がそこへ飛び込んで事に及んでいる――と、この世界の人たちは想像するからだ。
だがしかし、この会場には最先端の水洗式トイレが設置されている。そのため、ここで用を足す人はいない。となれば――と、物見高い人々はほくそ笑んだのだが。
「きたっ!」
茂みからレディの鋭い声が聞こえた。それと同時に、葉っぱだらけの頭がにょきっと飛び出した。
しかも二つ。
通りがかった人が、
「ぎゃっ、イシュタル!? なんでここに!?」
「戦闘態勢よっ」
と叫んで逃げ出したが、当の本人は全く気にした素振りも見せない。というか目線の先に気をとられて、通りすがりの人の声が耳に届いていないのだろう。大変な集中力である。
葉っぱだらけの人影がコソコソと茂みから茂みへと移動する。
ほどなくして、
「よしっ、わたくしたちも行くわよ……! 見失ったらいけないもの……」
と、力強く一歩を踏み出そうとするリズの手を、慌てて掴んだ人物がいた。一緒に茂みに潜んでいた令嬢である。
「まだ早いわよ。もっと距離をとってから!」
「え、そう?」
「いま振り返られたら、すぐに見つかってしまうわよ! お願いだからもう少し落ち着いて、レディ・リズ!」
近くを歩いていた貴公子たちがギョッとしたように振り返った。茂みから女性の声がすれば、驚くのが普通である。
リズは慌ててしゃがみ込む。
そのまま、じっとする。
「もう行ったかしらね……」
「まって、わたくしが覗くわ……」
そろ、と枝の隙間から丸い目が動く。
「大丈夫、誰もいないわ。茂みから出るなら今ね」
ずぼ、と茂みから姿を表す美女二人、二人とも大真面目な顔である。
「本当に、大丈夫なの? 本当に、やるのね?」
と、心配してくれるのは学友のレディ・アンナベルだ。
さっとアンナベルのシャペロンが駆けつけて、アンナベルの髪やドレスに着いた葉っぱを取り除き、ついでにリズの葉っぱも払い落とす。
アンナベルはこのところすっかり垢抜けて、落ち着きも出てきた。噂では結婚が決まりそうとのことである。それも、例のレオが公園で紹介してくれた貴公子たちの中の一人だというのだから、人の紹介というのは侮れない。
学校を卒業して以来会う回数は減っているが、一緒に買い物に出かけたり互いの家の夜会やお茶会に招待し合ったり、ずっと付き合いは続いている。お互いに美女の知り合いがいると何かと都合が良かったのもあるが、気が合うのである。
こまめに手紙のやり取りも行っているため、リズはシュテファンのことも詳しく書き送っていた。
アンナベルは、シュテファンのことは諦めてもっといい男を探した方がいい、といつも言う。
「ありがとう、アンナベル……。シュテファンさまをきっぱりと諦めるためにも、やり遂げるわ」
気を付けるのよ――と、アンナベルは本当に心配そうに、リズを見送った。そしてリズの暴走馬車が視界から消えるとほぼ同時に、シャペロンと共に己の馬車へと戻っていく。
「レオさまとリズのお母さまに、すぐ連絡よ!」
「はい、お嬢さま」
アンナベルは差し出された紙に優雅に羽ペンを走らせ、従者の一人に持たせた。
「お願いね、リズが幸せになれるかどうかの瀬戸際だと思うわ」
学友は知っている。リズが戦闘モードのイシュタル化したときはーーあまり良い結果にならないことを……。
一方、リズの馬車は、会場から出てすぐ、普通にからからと走っていた。
「どうしたの、止まりそうな速度じゃない」
と御者に向かって文句を言うリズだが、御者は、「お嬢さま、いつものように飛ばしますと、御指示の馬車を追い抜かしてしまいます」と、涼しい顔で言う。
「んもう! みんなこんなゆっくり走る馬車に、よく耐えられるわね……」
リズは後部座席でふくれっ面になる。レディにあるまじき顔である。お嬢さま、と、付き添いの婦人ーー母に頼まれて付いてきた屋敷のメイド頭であるーーが嗜める。
「皆さん同じことをおっしゃいますよ……レディ・リズはよくあんな高速で走る馬車に耐えられるわね、と」
「え、そんなに高速かしらねぇ……」
イライラを数回の深呼吸で抑えたリズは、窓から顔を突き出して前を走る馬車をじっと見つめた。
この道は、王都のメインストリート、貴族たちのタウンハウスもたくさんあれば、流行りの店もある。どこへいくのかさっぱりわからない。
――ご自分のお屋敷でないことだけは、確かね。おともだちのところかしら?
なにせ、シュテファンの家はさっき通り過ぎたし、シュテファンがよく行くコーヒーショップも通り過ぎてしまった。
「うーん? この時間からご趣味の乗馬でもないでしょうし」
シュテファンと親しい人たちーーぱっと思い浮かぶのはレオくらいしかいない。
「あら? わたくし、意外とシュテファンさまのこと知らないのかも……」