血の匂いで化け物は目を覚ました。
その匂いは本能に働きかけて来る。嫌でも興奮してしまう。
歯をむき出しにして欲望のまま涎を垂れ流しながら、それでも頭の奥の方に微かに残る理性の部分が尋ねて来る。
「誰の血だ?」と。
視界は暗かった。
一筋の光もささない暗黒の世界。「新月の日ではないはずだ」と化け物は思った。
「目が覚めたのかい。まさか自分の血でも反応するなんて……すごい本能だね」
男の声がした。
得体の知れないその男のことよりも「自分の血」という言葉が引っかかる。
化け物はまさか自分が血を流しているとは思いもしなかったのだ。
一体なぜ? そう思い、次にようやく男に尋ねようとした。
「お前は誰だ」
そう言ったつもりだったが、声は出ない。
辛うじて口は開くが言葉が出てこない。
「動けないと思うよ。痛みはない。それに、苦しくもないだろう? そういう毒を使った」
「毒」という言葉で初めて化け物は自分が寝込みを襲われているのだと理解した。
男の言う通り身体はまるで縛られているかのように動かない。
視界が暗いのもどうやらその毒のせいらしい。
化け物は怒り狂った。
見えないが、おそらく目の前にいるであろう男を自慢の爪で引き裂いてやろうと思った。
しかし、結局指ひとつ動かすこともできない。それほど強力な毒らしい。
混乱した化け物はだんだんと目の前にいるはずの男が怖くなっていった。
一体誰だ、何者だ。と頭の中で何度も唱えた。
心当たりはない。
最近人間と関わった記憶といえば数週間前の一件くらい。
それも誰にもバレないように上手くやったはずだった。
化け物は数週間前に四人の人間を喰っていた。
まず最初に食べたのは若い男だ。
人に化け、獲物の品定めをしている時に見つけた男だ。
幸せそうな笑顔が目を引いた。
男は次の週に結婚するのだと嬉しそうに周りの人間に話していた。
幸せそうな人間は美味そうに見えた。だから喰った。
次に化け物は喰ったその若い男に化けて、花嫁となる女とその両親を喰った。
簡単な仕事だった。
化け物の変身は完璧で、そう簡単には見破られない。
結婚するはずの花嫁もその両親も少しも疑うことなく化け物に騙されたのだ。
化け物が変身した若い男には病弱の母親がいた。
化け物はその母親も食べるつもりだったが直前になってやめた。
情けをかけたわけではない。
単純に病に伏せるその姿は美味しそうにみえなかったのだ。
その母親は病で目も見えない状態だった。
化け物が男に変身していなくとも、化け物のことを息子だと信じて混んでいただろう。
突然姿を消して、母親は途方にくれるかもしれないがそんなことは化け物にとってはどうでもいいことだった。
「依頼したのはその母親さ」
化け物の考えを読み解いたかのように男が言った。
「母親の愛とやらは偉大だ。目が見えずとも……病床で起き上がることすらできなくともお前が息子ではないと気付いていたらしい」
化け物は苦虫を噛み潰したような気持ちだった。
喰っておくべきだったと後悔する。
いや、喰わずとも殺しておくべきだった。
次は……次やる時はもっと上手くやろう。
「次があると思う?」
男の声がやけに冷酷に聞こえる。
しかし化け物はそれを鼻で笑った。
「もう……喋れる……ぞ」
毒の効果が薄れ始めたことに気付いたのは男が喋っている最中だった。
やけに効果の高い毒だと思ったが持続時間はそう長くなかったらしい。
指先も動く。身体さえ動けば人間の男など容易く屠れる。
微かに見え始めた目で化け物は男の影を捉えた。
その首目掛けて爪を振りかざす。
「は……れ?」
視界にはまだ男の首から上の影が残っていた。
代わりになかったのは自分の右腕、手首から先の影だけだ。
「眠っている間に両腕は切り落とした。痛みはない、苦しくもなかっただろう? そういう毒だよ」
男はもう一度繰り返した。
化け物には目に映る男の影が笑っているように見えた。
酷く歪な笑みだ。
恐怖で身体がすくむ。寒くもないのに震えている。
「嫌だ……死にたくない」
死を予感して化け物の口から声が漏れた。
まるで泣きじゃくって駄々をこねる幼子のようだった。
男はまた微かに笑い、それから言った。
「あいにく、君たち魔物が人間を騙すために覚えた言葉は聞かないことにしているんだ。それが命乞いなら尚更ね」
その言葉を最後に化け物は絶命した。