オーシャムという田舎町に小さな宿屋が一軒ある。
2階に宿泊用の貸し部屋がいくつかあり、1階は受付と酒も飲める食事場となっている。
オーシャムは辺境の土地だが、すぐ近くに別の港町があり都会と港町を往来する旅商人達にとってその宿屋は良い休息の場所なっていた。
今宵も何人かの旅商人達が旅の疲れを癒すべく宿に泊まり、安い酒を飲んで酔っ払っている。
その喧騒の中、一人の若い男がカウンターの席に一人で腰掛けていた。
この辺りでは珍しい黒色の髪とその髪と同じくらい暗い色をしたローブは店の中でひと際目立っていた。
楽しそうにくだらない会話を繰り広げる旅商人達とは違い若い男は一言も発しないままカウンターの奥にかけられた時計を見つめていた。
「おい、そこの兄さん。あんたもこっちに来て飲んだらどうだい。一杯くらいなら奢るぜ」
髭面の旅商人が酒で赤らめた顔で陽気に声をかける。
その瞬間、店の中にピリッとした緊張感が張り詰めた。
髭面の旅商人以外は若い男が何者か知っていたのだ。
若い男は振り返り、それから髭面の旅商人をじっと見つめた。
それからニコリと笑ってから
「お誘いありがとうございます。しかし、僕は宗教上の理由で他人と食事を共にしてはいけないのです」
と爽やかに遠慮した。
そのにこやかな笑顔の裏に有無を言わせぬ説得力を持ち合わせていたので髭面の旅商人はそれ以上何も言えずに圧倒され、呆気に取られたまま再び自分の席に腰を落ち着かせた。
緊張の糸が切れる。
誰もが忘れていた呼吸を取り戻し、店の中にため息が溢れた。
髭面の旅商人の隣に座っていた別の旅商人が肘で彼を軽く小突いた。
「お前何やってんだよ……あの人が誰か知らないのか?」
小声で、そして少し怯えたように問いかけて来る。
髭面の旅商人は頭の上に疑問符を浮かべたままだ。
「デーモンスレイヤーさ」
隣の席に座った旅商人は息を呑むような真面目な顔つきで耳打ちした。
途端に髭面の旅商人の顔色が青くなっていく。
「デーモンスレイヤー」とは人々を苦しめる人外の化け物「魔物」を討伐するために作られた組織である。
発足はとある国の宗教団体だが、近年では世界中に散らばり活動している。
決して善意だけの組織ではなく、魔物討伐の依頼には高い対価を求めることで有名だったが彼らが嫌煙される理由はそれだけではない。
ほとんどの国がデーモンスレイヤー達に「爵位」を認めているのである。
つまり、どんな出自の者だろうと強さを認められデーモンスレイヤーとなった瞬間から「貴族」になるのである。
それが良いことなのか悪いことなのかは人によって意見が異なる。
デーモンスレイヤーが各地で自分の地位に物を言わせて暴れているという悪い噂も平民達の耳に届くからだ。
先ほど店の中に緊張感が漂ったのもそれが理由だった。
休息のために訪れた宿でデーモンスレイヤーと酒を飲み交わすなど考えられない。
不用意な一言がいつ相手の逆鱗に触れるかわからない。
機嫌を損ねれば犯罪者扱いされてしまうかもしれない。いや、もっと悪ければ魔物を穿つために腰に刺した銀の剣で首を刎ねられてしまうだろう。
そんな不安のせいで店の中は少しばかり静まり返ってしまった。
そんな状況とは裏腹に全く気にしていない様子のカウンター席に座る若い男。
名前をアレン・オーランドという。
アレンがこの席に座っている理由はただ一つ。
つい先ほど倒した「人狼」の依頼達成の報告と報酬を待っているのである。
依頼人は被害に遭った息子の母親だったが、病弱で動けない代わりに宿屋の主人が仲介をしているらしい。
「お待たせしやした」
そう言って店の奥から主人が顔を出す。
手に持っている小袋の中には報酬である金が入っているはずだ。
アレンは小袋を受け取り、それからカウンターの上に置いてあった秤にそれを乗せて重さを確認した。
「確かに」
報酬額が規定と一致していることを確認し、それから颯爽と店を出て行こうとする。
数歩歩いて、それから思い出したかのように後ずさる。
何事もなく終わったと胸を撫で下ろしていた宿屋の主人はドキリとした。
店の奥にはいたが、先ほどの旅商人との一件は聞こえていた。
まさかあのやり取りがデーモンスレイヤーの機嫌を損ねたのではないかと肝を冷やしたのだ。
しかし、アレンはそんな素振りは全く見せず代わりに羽織っていたローブの中から紐状の何かを取り出した。
店の主人が恐る恐るそれを確認すると薄汚れてはいたがそれはペンダントだった。
先についているのはこの地方に伝わる魔除けのお守りである。
「恐らく依頼主の息子さんの物でしょう。どうか依頼主に渡してあげてください」
アレンは短くそれだけ伝えると今度こそ宿屋を後にした。