朝九時きっかりに目が覚めた。薄曇りの雲の隙から、やわらかな冬の陽射しが降りている。ベッドの中でしばしゆったりとしていた。そのうちに玄関のベルを押すけたたましい音が鳴り響く。私は立ち上がり、ガウンを羽織って階下に降りた。
「先生、あら、まだ寝てたんですか。全く独り身の旦那さんは緩すぎていけませんね」
家の手伝いをしてくれている真知子さんがグレーのダウンを脱ぎながら入ってきた。ダウンの下には黄色いエプロン。大きいトートからは薄緑の葉がのぞいている。匂いで分かる。
「おはようございます。今日はかぶを持ってきてくれたんですね」
「うちの畑で抜いてきたばっか。浅漬けでも煮物でも、お好きにしますよ」
「こりゃ、たくさん。新鮮なうちに食べきりたいから、浅漬けとシチューにでもしていただこうかな」
「何でも。美味しいよ。うちの畑のものだからね」
真知子さんは六十を過ぎた野菜農家の嫁だが、お姑さんをおくりだした後は社会と接したくてお手伝い業をしている。開けっぴろげで、他人の家の内実をのぞき見るのは面白いと公言している陽気な婦人。彼女にはずいぶんとお世話になった。とくに一人娘の曜子を東京に行かせた後は、無聊を慰めてくれるよき隣人でもあった。
「コーヒーでも淹れましょうか」
「お願いします」
昔フリーマーケットで買ったきりだったコーヒーメーカーが使えることを発見してくれたのは真知子さんだった。それ以来、横着なインスタントではなく、レギュラーを楽しめるようになった。ずぶずぶと音を立てながら湯気を放つコーヒーメーカー。この音と気配が朝の気分を落ち着かせる。
「にしても、先生、書き物の方は捗ってるんですか」
好奇心の塊のような真知子さんは何かと話しかけてくるが、本当のところ私の小説になど興味はない。読んだこともないだろう。人より少しだけ早く、情報を仕入れたいだけなのだ。
「うん、まあ。今夜くらいには上がりそうだね」
「そうですか、それは良かった。売れそうですか」
「さあね。売れ筋を書いているわけじゃなし」
「どんなお話で?」
「まあ、ちょっと宇宙の果てのことでも」
「先生、SF作家だったんですか」
「そういうわけでもないが、宇宙のことを考えるのが好きでね」
「また、浮世離れした」
「全くだ」
熱いコーヒーをブラックでいただく。その間に真知子さんはトースターに食パンを放り込んでいた。
「最近できた村井服店の向かいのパン屋なんですよ。食パンが美味しいってね、評判で」
私は自分の食事のための食材費をあらかじめ真知子さんに渡している。真知子さんはそれを使って、よい食材を調達してきてくれるが、半分は自分のためだ。今朝の食パンだって、真知子さんは家では食べないだろう。スーパーで買った大手製パン会社のものばかりに違いない。
しかし私も、放っておけばろくなものを食べやしないことを自分で知っているので、真知子さんに委ねるのが実は少し愉快なのだった。