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第6話

 私は最後までこんな情けない人間なのかと少々気が重くなってきたところで、古川が声を出した。

「せっかくですので、お昼をいただきますが、そのあとはお暇しますね。お二人は大事な、プライベートなお話があるようだということは分かります」

 生真面目でいてどこかいたずら好きのところがあった古川が、茶目っ気を出すときに使う声音であることに私は気づいた。

「でも、僕のほうは先に言ってしまいましょうか。実は、今日先生をお訪ねしたのは、うれしいご報告をしたかったからなんですよ」

 私はびっくりして古川のほうを見た。彼の姿は窓いっぱいの光を背にして影になっていたが、その晴れやかな笑顔ははっきりと見てとれた。

「僕はもうすぐ、結婚します。三月の予定です。恩師である松峰先生にぜひ直接ご報告をしたくて、今日はうかがったんです」

 彼の背後の梅の木の枝のうねりを、なぜだか私は凝視していた。


 真知子さんがお昼を呼びかけた。私たちは古川ののろけ話を微笑ましく聞かされた後だったので、全員がほぐれた笑顔で食事の用意された居間に向かった。食卓には、手早く、しかも手を抜いたふうのまったく感じられない料理が並び、真知子さんがご飯をよそっている。みそ汁のよい匂いも漂っているので、ちゃんと汁物も用意されていることが分かる。

「真知子さん、ありがとうございます。では、いただきます」

 曜子が音頭をとるかのように言った。はじめは四人で、少し遅れて真知子さんも加わって、五人の食事となった。

「美味しいですね。この漬物。かぶですね」

 吉岡が真っ先に料理を褒めた。真知子さんはここぞとばかり、

「今朝うちの畑で抜いたばっかり。採れたてのほやほや」

と自慢する。

「味付けがいいですね。梅干しが和えてある。今度真似しようかな。この梅干しって手作りですよね」

 曜子の言葉にまたも真知子さんは得意げな笑顔を向ける。

 昼ご飯は終始和やかであった。私はほっと胸をなでおろしていた。

 昼ご飯が終わると、古川は宣言しておいた通り、この場を辞した。

 まず私を含めて四人で玄関で見送りをしたが、その後私だけは自然に彼について門の前まで歩いた。

「君の彼女にも会いたかったよ」

 私が軽く声をかけると、彼は真顔になって答えた。

「曜子さんにお伝えください。どうかお幸せに、と」

 そして彼は、「またいずれうかがいます」と言いながら生真面目にお辞儀をし、そのまま駅の方向に歩きはじめた。私は彼の背中が見えなくなるまで見送った。


 その後は約束通りというべき、曜子と吉岡の結婚の決意を伝えられた。はじめはあまりに都会的な吉岡という男の風貌に戸惑ってしまっていたが、すでに私の中には彼にたいする良い印象が生まれていた。何よりも、美奈江によく似た気性の持ち主である曜子の目を信じることにした。

 二人は名残惜しそうであったが、翌日も仕事を控えているということで、新幹線の時刻を確かめて家を出た。去り際に、曜子が真顔で私に告げた。それは先刻の古川の表情をなぜか想起させるものであった。

「お父さんから、古川さんに伝えておいて。『ありがとう』って」

「それはどういう意味だい」

「いいの。また古川さんに会うことがあったらでいいから。よろしくね」

 そっと聞いていた真知子さんが頷く姿が視界のすみに映った。

 曜子は門を出るとすぐに吉岡と腕を組んで、何やらうれしそうに話しながら歩いていった。


 真知子さんも家を去り、一人になった私は、風呂で体を温めたあとに机に向かった。私には分かっていた。数日前から、美奈江の声が聞こえていた。宇宙の果てから。きっと生命は宇宙の果てで生れ、宇宙の果てに帰る。余命を告知されたときにも、私にはもう恐れはなかった。すでに美奈江の声が向こうから私を呼んでいる。昼間に見た梅の木のくねった幹と、香り高い白い花を思い出していた。美奈江の合図だったようにも思う。

 キイボードを叩き、小説の最後の行を書き足す。

 ─今日は特別な日。そして最良の日であった。─


(終)


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