四月一日、柚羽が勤める企業に東北支社から新人が転勤してきた。
春の柔らかな日差しが差し込む中、オフィスは新しい風を迎える準備をしているようだった。窓の外には桜の花が咲いていて、その景色が心を和ませる。
「東北支社から来た野間口千隼君です。営業職は初めてだから、みんな、サポートしてあげてね」と、浜野部長が新人をみんなに紹介した。
浜野部長の声には、期待感が滲んでいるように柚羽は感じた。
(浜野部長がにこにこしてる! 目もちゃんと笑ってるから、期待の新人君なのかな?)
柚羽がそう思いながら周囲を見渡すと、同僚たちの表情も明るく、少し緊張した様子の新人に対して好意的だ。
紹介された瞬間、営業事務のサポート女子社員たちの間にざわめきが走った。新人の彼の姿は若さが溢れ出ている。
柚羽は遠くからその様子を見ているだけで、何かに引き寄せられたような気分だった。
(大学を卒業してから、まだそんなに経っていない感じがする。綺麗な顔立ちをしているけれど、私とは縁がなさそう……)
柚羽は、心のどこかでそんなことを思っていた。柚羽は自分の年齢を意識していて、若い男の子なんて関係ないと思い始めていた。
「野間口です、今まで経理部に所属していました。営業職は初めてで右も左も分からないので、ご指導よろしくお願いします」
新人の彼が緊張した面持ちで挨拶する。
浜野部長は千隼の一言一句に耳を傾けており、その真剣な眼差しに柚羽は少し驚く。新人に対する期待が、部長の姿勢からひしひしと伝わってきたからだ。その瞬間、周囲から彼に対する好奇の視線が集まり、柚羽はその光景に少し戸惑った。
千隼の存在がどこか新鮮で、まるでオフィスの空気を一瞬で変えてしまったかのように柚羽には見える。
柚羽は、少しずつ自分自身の立ち位置を考えさせられる。
(私も新人君のように、意欲的に新しいことに挑戦していた頃があったのだろうか……)
新人の存在が、活気をもたらしているのを感じながら、柚羽は心の中で思う。
(新人君がこの環境にどう馴染んでいくのか、ちょっと見守ってみようかな)
柚羽は少しだけ、彼への期待感が芽生え、日常のマンネリから脱却できるかもしれないという希望を抱くのだった。
新人の声に自分の心音が少し大きくなるのを感じた柚羽は、緊張が胸の奥でざわめき、思わず背筋を伸ばす。しかし、柚羽は千隼とら目線を合わさないように、意識して視線を逸らした。
「さて、野間口君のサポート役には三塚さんを抜擢する。いいよね、三塚さん?」
浜野部長がそんなことを言った瞬間、営業部の数少ない女子社員たちの視線が柚羽に集中する。
まるで自分が舞台の中心に立たされたような気分になった柚羽の心の中を、なぜ私なのか? という疑問が一気に掻き乱す。
「はい……って、え? 何で?」
驚きと戸惑いが入り混じり、柚羽は言葉が喉につかえる。
周囲の反応が気になり、微妙な空気が漂う中で柚羽の心は不安でいっぱいになる。浜野部長の淡々とした口調が、更に柚羽の心を不安にさせた。
「野間口君に教えながら、自分もレベルアップしなさい」
「え、あ、……はい」
浜野部長のその言葉には、期待とプレッシャーが同居しているように柚羽は感じた。まるで肩に重い荷物を背負わせられたかのように。
「えー、何で、三塚さんなの?」
「ねー! 他にも営業さんはたくさんいるのに!」
周囲の女子社員たちからの視線が鋭く、柚羽の耳には既にヒソヒソ話が聞こえていた。彼女たちの嫉妬が、営業部のオフィスフロアの空気をどんよりと重くしている。
柚羽は深呼吸をしても、胸のざわめきは収まらない。自分が選ばれた理由もわからず、ただ戸惑うばかりだった。
「三塚さん、よろしくお願いします」と、深々とお辞儀をする千隼。彼の真剣な瞳が柚羽を見つめていたが、心の中に不安が渦巻いてしまう。
自分自身も仕事が半人前なのに、この子をどうやってサポートすればいいのか……と柚羽は考えると、頭が混乱し始める。
柚羽は、千隼の若さや無垢さが、かえって自分を追い詰めるような気がして大きな溜め息を吐く。果たして、これからどうなるのか、暗雲が立ち込める気配を感じていた。
女子社員たちの視線から場の雰囲気は一瞬凍りついたように感じられ、柚羽の心の中には不安しかない。
周囲の視線が辛辣に感じられ、思わず手のひらに汗が滲んでくる。まるで、私は試されているかのようだと柚羽は思う。
(果たして、こんな私が彼をサポートするなんてできるのだろうか?)
不安が柚羽の心を支配して、未来に対する期待を打ち消してしまう。
『大丈夫、やってみるしかない』と自分に言い聞かせる柚羽だが、心のどこかで『失敗したらどうしよう』という恐れが渦巻いている。新しい挑戦に対する期待感と恐怖が交錯していた。
「三塚です、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
千隼は冷静沈着で笑わず、その表情には緊張感が漂っている。
東北支社では経理課にいた千隼だが、何故か営業部に回されてきた。
(大人しく経理で仕事していた方が可愛がられただろうに……。真面目そうだけど、使えないタイプ? 私と同じく左遷みたいなもん?)
柚羽は彼をチラッと見ては、色々な想像をしてしまう。千隼の目には、一種の責任感が宿っているように見えたが、その真意ははっきりしない。千隼の存在が、自分の日常にどんな影響を与えるのか、柚羽は少し不安になった。
「今日は一先ず、どんな商品を営業するのかとか、取り引き先一覧とかを教えるね」
「はい」
柚羽自身が営業部に配属になってから、自分が教わった順に千隼にも教えていく。案外、素直に話を聞いてくれるので助かると柚羽は思った。千隼の真剣な態度が、自分の言葉をしっかりと受け止めていてくれているのを感じながら、柚羽は少しずつ自信が湧いてくる。
「事務仕事もあるけど、経理に関するものは事務サポート係にお願いしてね」
柚羽がそう言うと、千隼は頷きながら事細かに小さなノートにメモを取る。その姿が、少しほっとさせられる。こうして彼と一緒に仕事をすることで、私自身も成長できるかもしれないという期待感が柚羽に芽生えてきた。
午前中は様々な取り引き先や商品の説明をするだけで終わってしまった。